臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週のNHK短歌から(9月8日放送・斉藤斎藤選)

2013年09月29日 | 今週のNHK短歌から
[一席]
(阿南市・森岡圭子)
〇  雑巾が長さ揃えて干されおり駅トイレ横タクシーの車庫

 本作の上の句、即ち「雑巾が長さ揃えて干されおり」という一文は、「主語(部)+述語(部)」の関係から成り立つ一文である。
 また、述語(部)を構成する「長さ揃えて干されおり」という連文節は、「連用修飾語(節)+被修飾語(節)」という関係から成り立つ連文節であり、連用修飾語(節)を成す連文節「長さ揃えて」は「連用修飾語+被修飾語(節)」の関係から成り立っているのであり、更に詳しく説明すると、主語(部)を成す「雑巾が」という文節はそれに続く「長さ揃えて」という連文節にも、その後の「干されおり」という連文節にも主語として係っているのである。
 したがって、本作の上の句、即ち「雑巾が長さ揃えて干されおり」を、文節同士の係り受けに留意して冗談交じりに口語訳してみると、凡そ次のようになる。
 即ち「あの小生意気な雑巾の野郎が、事もあろうに、蚤の褌みたいにわざわざ長さを揃えて干されている」と。
 で、この場面で、当ブログの読者諸氏に筆者の私からお願いがありますが、それは、「『雑巾なんちゅう無生物が、わざわざ長さを揃えて干されている、なんちゅう非現実的かつ非科学的な事があるもんか!べらんめー!』といった勇ましい啖呵を、この際は切って欲しくない」ということである。
 理屈から云うと、確かにその通りではあるが、この話は「本作の上の句を日本語の語法に従って素直に解釈すると私の言う通りになる」と言うだけの話なのであるから。
 でも、読者諸氏の言いたい事は、いくら阿呆な私でもよく解ります。
 何故ならば、真面に考えると、「雑巾が」「干され」ているという言い方は理屈に合った言い方ではあるが、「雑巾が」「長さを揃えて」いるという言い方は、非現実的で、理屈に合わない言い方であるからである。
 と、なると、本作の上の句の表現は、一種の省略話法なのではないか?とも思われるので、次に本作の上の句を省略話法として捉えたうえで、一首全体を解釈してみると、凡そ次のような二通りの解釈が成り立つかと思われる。 
 即ち「駅のトイレの横のタクシーの車庫に、雑巾が(誰かの手に拠って)長さを揃えられて干されている」という解釈と、「駅のトイレの横のタクシーの車庫に、雑巾が(雑巾自らの手で)長さを揃えて(誰かの手に拠って)干されている」という解釈との二通りの解釈である。
 前者と後者の違いは、敢えて説明する必要も無い程に歴然としているのであるが、この際、手間暇を惜しまずに説明すれば、前者の場合は「雑巾の長さを揃えたのは、雑巾以外の誰か(何者か)であった」という事であるのに対して、後者の場合は「雑巾の長さを揃えたのは、他ならぬ雑巾自身であった」という事になるのであり、評者の私は、当初、後者の立場に立って、本作の上の句を解釈して示したところ、たちまち読者諸氏から袋叩きにされるような憂き目に遭ったので、あわてて、此処に二つの解釈を示してみたのである。
 一首の短歌の解釈を巡って、二通りの対立的な考え方が生じる事は、本作の場合に限らずよく在る事ではあり、その曖昧さが当該作品の最大の魅力となっている場合もよく在る事である。
 だが、本作の場合は、そうした場合とは明らかに異なるのである。
 何故ならば、本作に於ける曖昧さは、作者が日本語の語法に精通していない(かどうかは存じ上げませんが?)が故に、出鱈目な語法を用いた(とまで言ってしまえば、あまりにも失礼かしら?)事に因って生じた曖昧さであるからである。
 私の連れ合いの女高生時代の親友が未だ独身であった頃のこと、その頃彼女が交際していた、ある男性の家を訪れたところ、その家の「ニワ」と呼ばれる広い土間の壁に、使い古しの箒が数十本、長さ順に綺麗に並べられて吊るされていたのを目にしたので、彼女は、このように神経の細かい人ばかりいる家庭に私が嫁いだとしたら、結婚後の私の日常生活が、どんなにかピリピリしたものになるだろうと不安を感じ、それ以後、その男性との交際をピタリと止め、彼とは別の、おおらかで茫洋としていて、包容力のありそうな男性と結婚した、ということである。
 本作の作者の森岡圭子さんが、本作をお詠みになられた発端は、恐らくは、「『駅トイレ横タクシーの車庫』に『干され』ていた『雑巾』が『長さ』を『揃え』られて『干され』ていた」という、異様な光景を目にされたことにありましょう。
 だとすれば、本作は、「着眼点佳し、発想も亦佳し」としなければなりません。
 しかしながら、「着眼点佳し、発想も亦佳し」の題材を、あたらドブに棄ててしまったような結果になったのは、作者が功を急ぐあまりに、その具体的な表現に際して、日本語としては「破格な語法」、と云うよりは「出鱈目な語法」を用いたからなのである。
 こと此処に至っては、本作を自選の第一席に推した選者にも責任無しとせず。

 と、まあ、此処までは、評者独自の揶揄精神を発露させていただいた場面ではありましたが、論はこれからが本番である。
 上掲の森岡圭子の御作を、日本語の正しい語法に則って改作させていただきますと、其処に次の二首の短歌らしき作品が現出することになる。

[改作案そのⅠ]
 〇  雑巾が長さ揃ひて干されをり駅トイレ横タクシーの車庫  

[改作案そのⅡ]
 〇  雑巾を長さ揃へて干して在り駅トイレ横タクシーの車庫

 日本語の正格語法に則って詠めば、森岡圭子さんの御作の趣旨は、上記[改作案そのⅠ]乃至は[改作案そのⅡ]の何れかに拠って満たされるはずである。
 だが、私が仮に、これら二通りの改作案を、作者の森岡圭子さんに提示したとしても、彼女はその何れをもお受入れになられないに違いない。
 何故ならば、彼女が本当に詠みたいとお思いになっておられる作品と上掲の改作案「そのⅠ」及び「そのⅡ」との間には、埋め難い径庭が存在するからである。
 故に、短歌表現は、時に日本語の正格語法に「拠るも佳し」、「拠らぬも佳し」としなければならない。
 三歩下がって、再度、熟読玩味させていただきますと、森岡圭子さんの御作は、短歌形式という独自の省略表現の許容範囲内に収まっているとも思われないでもないのである。
 〔返〕  雑巾の背丈揃ひて干されをり登戸駅の公衆トイレ   鳥羽省三
      草箒背丈の順に並べ干し美(は)しき乙女に逃げられにけり
      梅干しを色佳く仕上げ食べさせず斯かる家には誰も嫁がず


[二席]
(盛岡市・藤倉清光)
〇  だからってさびしくないのだ河馬の子は自分のうんちをゆっくりおよぐ

 A曰く、「河馬の子が、自分のうんちが浮かんでいる沼の中をゆっくり泳いでいるが、その姿はいかにも寂しそうで可哀そうだ!」
 B応えて曰く、「だからってさびしくないのだ!河馬の子はやはり河馬の子以外の何者でもないから、自分のうんちの浮いた沼の中を泳いでいても、ちっともさびしくなんかないのさ!」
 A再び曰く、「そうかなあー? 本当かなあー? 僕には河馬の子の気持ちがちっともわかんないわ?」
 
 本作の表現上の問題点を指摘すれば、「自分のうんちをゆっくりおよぐ」という下の句の表現にはかなりの無理がありましょう。
 だが、それを敢えて受け入れようとするのが「斉藤斎藤選」の「斉藤斎藤選」たる所以でありましょうか?
 〔返〕  河馬の子は下から読んだらバカの子だ だから寂しく感じないのだ   鳥羽省三
 返歌は、何だか「天才バカボン」風なものになってしまいましたが、是で以って失礼させていただきますのだ!


[三席]
(東大和市・板坂壽一)
〇  妻逝きて不要となりし手摺へと小型ラジオを吊す用便

 選者の斉藤斎藤氏からすれば、「本作はこれで良し」ということになりましょうが、私からすれば、「妻逝きて不要となりし手摺へと小型ラジオを吊す」までは良しとしても、それに続く末尾の「用便」は、訳の分からない「逃げ」ということになりましょう。
 〔返〕  妻逝けば手摺もラジオも用が無い手摺にラジオを繋いで置こう   鳥羽省三
 返歌の作者のお住いは、かなり手狭なものと判断される。



[入選]

(白井市・関根孝明)
〇  仕方なくわずかな時間手を離すふたたびの手は少し冷たい

 「手」という語が二ヶ所に置かれているが、合理的に考えてみると、その「手」の所有者が、前と後とで異なっているとは考えられない。
 そこで、察するに、その「手」の所有者は死の床に就いている者であり、本作の作者(=作中主体)は、件の死の床に就いている者の為に、病院にお見舞いに出掛けたのであったが、彼の憔悴し切った顔を見るや否やいち早く彼の手を握ったのである。
 ところが、しばらくして自分の懐に在るケイタイが鳴り出したので、残念ながら、死の床に就いている者の手を、一度は離さざるを得なくなってしまったのであり、ケータイへの応対が終わった後、再び死の床に就いている者の手を握ったところ、その手の温もりは、この度は既に冷めてしまっていた、という事なのでありましょう。
 〔返〕  仕方なく束の間彼の手を握る彼の手はもう冷め切っていた   鳥羽省三


(習志野市・田口博司)
〇  下痢腹で途中下車した駅ごとのトイレの位置をいまだ記憶す

 必ずしも記憶に止めて置く必要が無いような事柄、否、強引にでも記憶から去らしめたいような事柄を何時までも記憶している。
 そんな事って、よくありますよね。
 私の場合は、私が中二の夏に黄泉路に旅立った私の長兄の、発病に始まって、それに続く臨終、更には、あまりにも質素な形で行われた葬儀の次第などを、いちいち事細かに記憶していて、それが何時までも私の脳裏から去らない、ということなのである。
 〔返〕  下痢腹で已む無く入った駅前の公衆便所の汚れの酷さ   鳥羽省三
 かつて、私が横浜市内の某高校に通勤していた頃のこと。
 私は、人の言う下痢腹であり、自宅からバスに乗って行った先の三ツ境駅前の公衆トイレに飛び込んだことが、度々ありました。
 そのトイレの汚らしさと言ったら・・・・・・・・・。


(小金井市・柳原恵津子)
〇  動物園みたいだきみと僕とではトイレのちがうとこが汚れる

 作中の「僕」は、男性であることが確実であり、「きみ」は女性である可能性が大である。
 だとすれば、「きみと僕とではトイレのちがうとこが汚れる」のは、むしろ当然のことでありましょう。
 だって、放水路の形態があれほどにも極端に異なっているのであるから!
 それにしても、「動物園みたいだ」とまで言われるとは、柳原恵津子さんちのトイレはあまりにも汚らし過ぎます。
 たまには、強力トイレ洗剤で以って、ごしごし洗って下さいよ!
 〔返〕  動物園みたいだ君と僕の部屋ティッシュは匂うしゴキブリは這う   鳥羽省三  


(多摩市・浦本洋子)
〇  洗濯機を取りて椅子置く洗面所今朝から電動歯ブラシ使う

 「洗濯機を取りて」という言い方は如何かしらん?
 とは言え、「図体がデカいばかりで邪魔っけな洗濯機を取り除き、その後の空間を利用して洗面所の所に瀟洒な椅子を置き、その椅子に座って、今朝から電動歯ブラシを使って歯を磨く」なんて事は、いかにもありそうな事ではある。
 〔返〕  姑の寝ていた部屋をリフォームし息子二人の勉強部屋に   鳥羽省三
 上掲の返歌の内容は、勿論、架空の出来事であり、身辺にそのモデルを求めたりするようなことは、私に限って決してありません。


(八王子市・荒井幹雄)
〇  死ぬ前にちょこっと済ます事あるや出掛ける前のトイレのように

 「死ぬ前にちょこっと済ます事」が、もしかして「ある」としたら、それは細君に内緒で託っていた愛人のマンションに足を運んでなにすることぐらいのものでありましょう。
 だとしたら、それは「排泄行為」に他なりませんから、「出掛ける前のトイレのように」との下の句の表現とも平仄が合致しましょう。
 本作の作者・荒井幹雄さんは、この鳥羽省三が、斯くの如き隠微な評言を書くことを予め予想していて、斯くの如き「隠微にして滑稽な一首」を仕立て上げたのでありましょうか?
 〔返〕  死ぬ前に度々します者やある?俳人一茶の場合のように   鳥羽省三 


(福岡県・坂口菜美)
〇  泡立てる肩に被さる気配して鏡に焼き付けてしまいたい

 このままでは、何を言ってるのか皆目見当がつきません。
 それで居て「泡立てる/肩に被さる/気配して/鏡に焼き付/けてしまいたい」と、三十一音の定型には適っているのである。
 是をNHK短歌に投稿なさった方及び是を入選作となさった方は、或いは、ある種の天才なのかも知れません。
  〔返〕  虫図這う肩に被さる気配してせっかく貼ったトクホン剥いだ   鳥羽省三


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