臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週のNHK短歌から(12月15日放送・永田和宏選・福袋版)

2014年01月05日 | 今週のNHK短歌から
 後述の松澤龍一さんの御作に関連して、森鷗外の文学作品中で「接吻」という二字に「キッス」というルビを振った作品があるかどうかと思って、退屈凌ぎに「ブログ逍遥」と洒落込んでいたところ、たまたま『もえたたんとゆうたたんのたんたん短歌』というタイトルの初見のブログにヒットした。
 その中の「2013年12月19日(木)」の記事は、「NHK短歌」の「12月15日放送(永田選)分」の作品に関する鑑賞記事であったので、後学の為に、ブログの管理者には大変失礼ではありますが、以下、そのまま、作品毎に、無断転載させていただきます。

 下記は、無断転載させていただいた記事中の「前書き」に相当する文章である。

 今回は、NHKのEテレで毎週日曜早朝に、すなわち、ブログ主が起床する前に、放送されている「NHK短歌」2013年12月15日放送分に紹介された作品について、たいへん僭越ながら、添削を行ったものであり、本日から三回にわたって掲載する。なお、当日の選者は永田和宏氏で、題は「読む」であった。
 もちろん、当該番組に投稿された作品は、選者に評価されてテレビに放送される、あるいは、採用されずに放送されない、の二者択一しか無い。なお、採用された場合に「歌意」を批評されることを除いて、いずれの場合においても、詠み方、すなわち、言葉の選び方や並べ方等を添削されるようなことは決して無い。そして、世の中には「人様の詠んだものを、頼まれもせず、勝手に添削することなぞ、たいそうおこがましい」と思う人が多いことも、ブログ主は十分に承知している。
 それでもなお、ブログ主は己の信念に基づき、そして、短詩型文芸としての短歌の詠み方の在るべき姿を想いながら、この文章を記すものである。今回は、掲題の元歌(以下に赤字で示す。なお、もし、元歌に一字空けがあったとしても放送画面では判別できないので、それは無いものとして扱う。)から改題(以下に青字で示す。)に至るまで、できる限り詳細な検討を行った積りである。掲題の作者の皆さんには、ブログ主の添削が決して単なる趣味に基づくものではないことを理解していただければ幸いである。
 ちなみに、もし、ブログ主が他者詠みを、すなわち、掲題の元歌に詠われた同じ情景を全く白紙の状態から詠った場合には、それは元歌を添削した後の改題とも異なる姿形となる。試しに、最初の一首目および最後の九首目については、元歌、改題、そして、他者詠みの三者を並べてみた。当ブログの読者の皆さんには、具体的な実作を通じて、それらの相違を確認していただければ幸いである。


[一席]

(福岡市・松本里佳子)
〇  読みかけのすべての本を読み終わる悲しさがあり栞をはさむ

 (以下に記す文章は、無断転載させていただいた文章中の、上掲歌に関連する記事である。尚、二首目以降の作品に関する記事に就いては『転載』とのみ略記させていただきます。)

 掲題の歌意は、凡そ「私の目の前にある読みかけとなっている全ての本について、もし、それらを読み終わった際には、それぞれに読み終わってしまった悲しさが生じることだ。私はそんなことを考えながら、本に栞をはさんでいる」である。
 掲題で詠われている情景はたいへん面白い感慨である。そして、言葉や文字の選び方や並べ方等の表現方法についても、特に指摘する箇所も無いので改題を詠まない。

 (前掲の記事に就いて及び掲歌に就いての私・鳥羽省三の評言。以下『評言』と記す。)

 無断転載させていただいた記事中の「掲題」とは、私の謂うところの「掲歌」であり、「改題」とは、私の謂うところの「返歌」でありましょう。
 ところで、掲歌の上の句には、「読みかけのすべての本を読み終わる」と、文末が終止形(完了形)で書かれている。
 したがって、上掲の記事中に「私の目の前にある読みかけとなっている全ての本について、もし、それらを読み終わった際には、それぞれに読み終わってしまった悲しさが生じることだ。私はそんなことを考えながら、本に栞をはさんでいる」とあるのは、明らかに誤読に基づいた評言でありましょう。
 「ブログ主」の手になる評言と同様に、掲歌の表現も亦、文意不明瞭である。
 「読みかけ」の「本」が幾冊か在ったのでありましょうか?
 それとも「読みかけ」の「本」は一冊だけ在ったのでありましょうか?
 その点はともかくとして、掲歌の作者・松本里佳子さんは、今しも「読みかけ」の「本」を読み終わってしまったのであるが、その途端に、何故か「悲しさ」を感じたのであるが、それと共に心残りを覚えたので、読み終わったばかりの本の中に「栞」を挟んでおいたのでありましょう。
 〔返〕  読み終えた途端に湧いた悲しみに13ページに栞を挟む


[二席]

(野田市・松澤龍一)
〇  接吻にキッスとルビを打たれたる鴎外を読む文化の日なり

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「文化の日に、森鴎外の作品を読んでいたら、「接吻」に「キッス」とルビが振られていた」である。
 まず、「ルビ」は凡そどう取り扱うものかと調べれば、一般的には「振る」か「付ける」ものらしい。なお、特定の業界では「組む」と表現することもあるようだが、掲題のように「打つ」とは滅多に聞かないことだ。なお、タイプライターで印字する際に道具が紙を打っているように見えたり、あるいは、「電報を打つ」という表現から連想して、この言い回しを用いたのかもしれない。それでも、何か別の事物に対する動作として掛けている等の理由で意図的に用いられているのでもなければ、凡そ正確ではない言い回しは避けるべきだろう。
 次に、「なり」は指定・断定の助動詞であるから、掲題を厳密に解釈すれば、「鴎外を読んだのは(、その日は)文化の日だ」という意味になる。ただし、ブログ主が思う掲題の一首のポイントは「少々変わったルビ」であり、他方、「文化の日」を結句に置いて強調する意義は見当たらない。少なくとも、文化の日に「なり」を付けて指定・断定する必然性は無いので、これは削除するべきである。
 以上の諸点を踏まえ、かつ選者の永田氏に敬意を表して、改題を次のように詠む。
  文化の日に鴎外を読めば接吻に「キッス」のルビの振られていたり

(評言)
 「転載」の記事は、「括弧」の中に「同じレベルの括弧」に括られた文が挿入されていたり、作品の読みが出鱈目であったりして、凡そ、日本語の表現とは言えないようなレベルの幼稚な文章である、と言わなければなりません。
 しかしながら、掲歌中の「ルビを打たれたる」という言い方に関連して、あれこれと詮索している点に就いては、良しとしなければなりません。
 とは言えど、「ルビを打たれたる」という言い方が日本語の表現として正しくない表現である、と断定することは出来ませんし、ましてや、「何か別の事物に対する動作として掛けている等の理由で意図的に用いられているのでもなければ、凡そ正確ではない言い回しは避けるべきだろう」などと、無用な詮索をするに及んでは、「他人のふり見て我がふり直せ」とでも言いたくなるのである。
 なお、掲歌は明らかに「文語短歌」を志向しての作品である。
 ならば、作中の「鴎外」は、正字を用いて「鷗外」とするべきでありましょう。
 もう一点、書き添えますが、私は、本稿を草するに際して、ネット中の「青空文庫」などを参照させていただきましたが、今のところ、森鷗外の作品中で「接吻」の二字に「キッス」とのルビを振った(打った)作品は見当たりません。
 就きましては、作者及び識者の方々にお願い致しますが、件の作品を、当ブログのコメント欄を通じて、この不勉強な私にご教示下さい。


[三席]

(岡崎市・中村佐世子)
〇  吹く風がページを捲ることは無し電子書籍は読みかけのまま

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「電子書籍においては、従来の紙の本のように、風が吹き、ページが捲れ、そして、閉じられることが無いので、読みかけのままである」である。
 ところで、ブログ主の理解によれば、「読みかけ」とは本を未だ読み終わっていない状況を指す。したがって、最後まで読み終わっていなければ、本が或るページを境にして左右に開いていようが、あるいは、閉じていようが、それらは「読みかけ」に変わりは無い。つまり、紙の本のページが風で捲れる有り様に対して、電子書籍の不動のそれを「読みかけ」と表現することは、正しく説明できていないだろう。
 なお、ブログ主が掲題の作者の思いを推測すると、それは凡そ「従来の紙の本であれば、休日の午後にベランダでひなたぼっこをしながら読書を楽しめば、爽やかな風がページをパラパラ捲るといった悪戯をしたものだ。他方、最新の電子書籍は便利ではあるが、風が吹いても続きを表示し続ける。こうした紙の本にはあった風情が文明の進歩によって失われてゆくのは些か味気ないことだ」と思われる。したがって、電子書籍の有り様を簡潔に表現すれば、それは凡そ「次に読むべき続きを表示し続けている状態」である。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
 風吹けど頁の捲れることも無く続きを示す電子書籍は

(評言)
 このような傑作に、このような文意不明の、しかも出鱈目極まりない評言を加えるに及んでは、ブログ『もえたたんとゆうたたんのたんたん短歌』の「ブログ主」なる人物は、凡そ、短歌の何たるかのイロハも御存じで無い人物と判断せざるを得ません。
 文中に「電子書籍においては、従来の紙の本のように、風が吹き、ページが捲れ、そして、閉じられることが無いので、読みかけのままである」とあるが、是を掲歌に就いての解釈としてみれば、「ブログ主」なる御仁の解釈は、大筋としてはそれほど見当外れのそれとは言えません。
 しかしながら、「従来の紙の本であれば、休日の午後にベランダでひなたぼっこをしながら読書を楽しめば、爽やかな風がページをパラパラ捲るといった悪戯をしたものだ」とまで言うに及んでは、また、「他方、最新の電子書籍は便利ではあるが、風が吹いても続きを表示し続ける。こうした紙の本にはあった風情が文明の進歩によって失われてゆくのは些か味気ないことだ」とまで評するに及んでは、言語道断と言うべきでありましょう。
 要するに、「ブログ主」なる御仁は、日本語表現のイロハも知らない人物と判断される。
 〔返〕  葉を揺らす秋風寒く主のなき電子書籍はページ捲らず


[入選]

(岩沼市・山田洋子)
〇  難解で読み応えのある論文集わたしのことを君はそう言う

(転載)
 掲題の歌意は凡そ「君はわたしのことを「難解で読み応えのある論文集」と呼んだ」である。それでは、掲題に記された順に、指摘してゆこう。
 まず、人を指して「難解」だと言えば、それは凡そ何を考えているか理解できない性格を述べており、同様に、「読み応えのある」と言えば、それは凡そ奥深く、波乱万丈で奇想天外な人生経験や人格を述べているだろう。すなわち、一見とっつきにくそうに見えながら、付き合ってみれば本当は面白いといった有り様を表している。もし、そうであれば、両者を明確に逆接する、例えば、「難解だが読み応えのある~」とすべきであろう。
 次に、「論文集」とは凡そ、学校における児童生徒や研究機関における研究者の複数人等が記述した論文を集めた冊子を指す。したがって、これをたった一人の人間である「わたし」を指して喩したならば、もし、それが多重人格といった有り様を述べようとしたのでなければ、作中における「君」は「わたし」に対する比喩的表現を些か誤ったと言える。ただし、これは掲題の作者の詠みではないので、このままでもよいのだが、もし、掲題において論文の単複にそれほど重心が無ければ、ここは「論文」と単数に済ませてよいだろう。あるいは、初句で「難解で」と宣言し、さらに、凡そ読解が困難なイメージを持つ文である「論文」と詠むのは、同じ意味を重ねてしまっているので、これを例えば「作品集」とすれば、凡そ個人の作家による著作物を指すので違和感が無いだろう。
 そして、「わたしのことを」は、掲題をどのように読んでも、「わたしを」と同じ意味しか持っていない。例えば、「私のことは忘れてください」と言えば、それは凡そ「(その他の事物に関してはさて置いて、)私に関する事物、つまり、君が私と過ごした過去は無かったこととし、また、二人で歩む将来も期待しないでください」という些か複雑な状況を意味するだろう。他方、掲題においては、「わたし」を「論文集」に擬するだけであるから、わざわざ「わたしのこと」と表現する必要が無い。敢えて言えば、四句の音数を単に七音に合わせただけに見える。そこで、「のこと」は削除するべきである。
 さらに、結句における指示語の「そう」は、上の句全体の「難解で読み応えのある論文集」を指しているのだが、詩歌は日常会話や論文でないので、指示語を用いることはできる限り避けるべきである。なお、指示語を使わずに同様な趣旨を表現する最も簡単な方法は、対象物を一つの文の中に入れることである。例えば、「~と君はわたしを呼びます」とでもすれば済む。
 最後に、「君」が「言う」とする表現には、君のわたしに対する感情が全く示されていない。すなわち、愛情も嫌悪も無く、さらには、中立と断定して良いかどうかさえも不明である。もし、愛情を込めて言うのであれば「君はささやく」等であり、また、扱いづらいと思っていれば「君は嘆く」等であり、あるいは、特に感情を持たなければ「君は呼ぶ」等であろう。
 以上の諸点を踏まえて、ここでは、作中の「君」が作中主体に愛情を込めて喩していると読んで、次のように詠む。
  難解だが読み応えのある論文と君はささやく私を見つめ
 ちなみに、ブログ主が掲題と全く同じ状況において詠んだ場合は、すなわち、他者詠みは次の通りである。なお、題の「読む」が直接詠まれていない点はご容赦されたい。
  この本は難しいけど面白い「君のようだ」とあなたは笑う
 なお、初句における「この」は指示語であるので、先ほど述べたことと矛盾しているように見えるだろう。ただし、これはもちろん、「あなた」が「君」に向けて、本を指で差しながら話している言葉である。そして、また、複数在る本の中で特定のそれを強調するために、すなわち、「あなた」にとって「君」が特別な存在であることを暗示するために置かれているので、絶対に削ることができないことをご理解されたい。

(評言)
 一行目から二行目に掛けての括弧書きされた部分、即ち「君はわたしのことを「難解で読み応えのある論文集」と呼んだ」は、「君はわたしのことを『難解で読み応えのある論文集』と呼んだ」と書き改める必要がありましょう。
 括弧書きされた部分に、更に引用文や会話文などの括弧書きする必要がある語句や文を挿入しなければならない場合は、「鳥羽省三はブログ主を『ばっかじゃなかろか?』と思っている」などと、挿入句を二重括弧書きしなければならないのであり、そのような日本語表現の常識も弁えていないような文章が満ち満ちているブログは、宇宙空間を彷徨うゴミとでも謂うべき存在なのかも知れません。
 ましてや、「まず、人を指して『難解』だと言えば、それは凡そ何を考えているか理解できない性格を述べており、同様に、『読み応えのある』と言えば、それは凡そ奥深く、波乱万丈で奇想天外な人生経験や人格を述べているだろう。すなわち、一見とっつきにくそうに見えながら、付き合ってみれば本当は面白いといった有り様を表している。もし、そうであれば、両者を明確に逆接する、例えば、『難解だが読み応えのある~』とすべきであろう」とまで評するに及んでは、言語道断としか言えません。
 また、それに続く「次に、『論文集』とは凡そ、学校における児童生徒や研究機関における研究者の複数人等が記述した論文を集めた冊子を指す。したがって、これをたった一人の人間である『わたし』を指して喩したならば、もし、それが多重人格といった有り様を述べようとしたのでなければ、作中における『君』は『わたし』に対する比喩的表現を些か誤ったと言える。ただし、これは掲題の作者の詠みではないので、このままでもよいのだが、もし、掲題において論文の単複にそれほど重心が無ければ、ここは『論文』と単数に済ませてよいだろう。あるいは、初句で「難解で」と宣言し、さらに、凡そ読解が困難なイメージを持つ文である『論文』と詠むのは、同じ意味を重ねてしまっているので、これを例えば『作品集』とすれば、凡そ個人の作家による著作物を指すので違和感が無いだろう」も、出鱈目極まりなくて言語道断の詮索であり、それ以下の文も亦、同様である。
 〔返〕  難儀して読む価値の無い駄文集 私は君をそのように言う  

(世田谷区・丹羽功)
〇  古事記読み神様の名は多くして前の頁の神の名忘る

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「古事記を読んでいると、神様の名前がたくさん出てくる。それで、前のページに出てきた神様の名前を、もう忘れていることだよ」である。
 まず、「古事記読み」や「神の名忘る」には格助詞の「を」が省略されており、正しい表現はそれぞれ「古事記を読み」および「神の名を忘る」である。そこで、格助詞を省略しない表現に、あるいは、格助詞を省略する必要のない表現に変更する。例えば、前者を「古事記には~」とすれば、「古事記を読んだら、そこには」という内容を表すことができるだろう。
 次に、「神」および「名」が二回登場するのだが、作者はリフレイン(繰り返し)の修辞技法を意図した訳ではないだろうことから、これを一回のみに直す。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
   古事記には多くの神が登場し読んだばかりの名前を忘る

(評言)
 「掲題の歌意は、凡そ『古事記を読んでいると、神様の名前がたくさん出てくる。それで、前のページに出てきた神様の名前を、もう忘れていることだよ』である」までの評言に就いては異論無し。
 但し、それ以下の部分(特に“格助詞”云々)に就いては、無用な詮索以外の何物でもありません。
 〔返〕  八百万神の名あまた在るなれば何が何だか解らぬ古事記

 
(横浜市・橘高なつめ)
〇  妹の日記を読んでいたある日「読むな」の太い文字現れる

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「昔々、私は妹の日記をこっそり勝手に読んでいた。ある日のこと、いつものようにそれを読んでいたら、「読むな」と太い文字で書かれた一文が現れる」である。
 さて、掲題を無理矢理「いもうとの/にっきをよんで/いたあるひ/よむなのふとい/もじあらわれる」と読めば、五句三十一音である。しかし、掲題は確かに三十一音ではあるが、決して五句定型の短歌ではない。強いて言えば、総音数が三十一音の短い現代自由詩である。すなわち、掲題は二行詩として下記のように書かれ、そして、読まれるだろう。
  妹の日記を読んでいた
  ある日「読むな」の太い文字現れる
 ところで、一行目が「読んでいた」と過去完了に書かれているのに、なぜ、二行目が「現れる」と現在形で書かれているのだろうか。ブログ主であれば間違いなく、「現れた」と韻を踏むように詠んだことだ。
 それはさておき、掲題を五七五七七の五句定型に、もちろん、歌意はできる限り変えないように変形する。なお、掲題は過去を回想して詠んだように見える。そこで、当ブログの読者の皆さんの中にいるご年配の方に、特にフォークソング・ファンの方に、「過去の回想」といったイメージを連想しやすいように、改題を工夫して次のように詠む。
  妹の日記をこっそり読んでたら或る日突然太字で「読むな」

(評言)
 掲歌は、必ずしも「NHK短歌」の入選作として称揚されるべき作品とは思われません。
 しかしながら、「ブログ主」の云々するところに就いて評すれば、全く以って言語道断の四字熟語で片付けられるべき性質の言い分でありましょう。
 〔返〕  妹の日記を読んだりする姉に婚約者など居るはずは無い


(川崎市・岩崎幸子)
〇  音読で孫が選んだ「ごんぎつね」何度聞いてもごんは死にます

(転載)
 掲題の歌意は凡そ「孫の通う小学校の国語の宿題に「音読(物語等を声に出して読むこと)」が出た。そこで、孫は「ごんぎつね」の物語を選んだ。そして、孫はそのお話を正しく読めているかどうかを私に聞かせて確認する。物語を何度聞いても、狐のごんは死んでしまう」である。
 新美南吉(1913-1943)の名作「ごん狐」の結末において、狐のごんは兵十に撃たれて死んでしまう。したがって、物語を何度聞いても当然、狐のごんは必ず死ぬ。さて、掲題の作者は下の句の「何度~死にます」にどのような思いを込めただろうか。例えば、「孫がユーモアとウィットをたまには働かせて、撃った玉が外れて、ごんは助かったといったお話に変えて読んだりしないだろうか」等と思ったかもしれない。
 なお、ブログ主は、作者の意図を「孫が音読をすれば、その回数分だけ、ごんが死ぬことを繰り返し聞かされるので、それは些か悲しいことだ」と読んだ。そこで、この思いをできる限り明確に表現するために、四句の「何度聞いても」を「読んだ数だけ」と変えてみた。なお、この変更によって作者が孫の音読を「聞く」という行為が消えてしまったので、代わりに上の句の「選んだ」の箇所を「聞かせる」に変更した。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
  音読で孫が聞かせる「ごんぎつね」読んだ数だけごんは死にます

(評言)
 他の入選作に就いて書かれた評文と比較した場合、それほど難点を指摘する必要の無い評文と言えましょうか?
 しかしながら、括弧内の引用文に二重括弧を使用していないなど、不勉強な中学生が書いたような未熟な文章ではある。
 〔返〕  老い我に孫が語れる『ごんぎつね』聴いた数だけごんは死ぬのだ 
 

(大阪府泉南郡・岡野はるみ)
〇  「見ないで」は「必ず見て」と読むのだと少女はいつから知るのだろうか

(転載)
 掲題の歌意は、凡そ「世の中で、特に、大人の女性が「見ないで」と言った、と記されていることは、本当は「必ず見て」といった反対の意味に読むものである。(それは例えば、「嫌よ嫌よも好きのうち」といった内容と似ている。)さて、今は未だ少女の君たちも、このような表現をいつ頃になったら知る(、そして、使う)のだろうか。(それは、いつか必ず知ることだ)」である。なお、掲題における「読む」は、例えば、「行間を読む」等の慣用句におけるそれと同様に、「解釈する」等の意味で用いられているだろう。
 さて、「いつから知る」といった言い回しについて、ブログ主は些か違和感を持つものである。
 まず、掲題における「知る」という行為が、つまり、或る事物を知覚認識した状態が、過去から現在までのいずれかの時点から始まっていることを表現したいのであれば、「から(英語では「since」)」という言葉には、現在形の「知る」ではなく、「知っている」あるいは「知っていた」と完了形で接続すべきである。
 次に、上述した時制では無く、タイムスケジュールや時間割等を表現する場合、例えば、「赤ん坊は生後○か月目から離乳食を食べる」のような表現の場合には、「から」に動詞の現在形の「食べる」が接続され得る。ただし、この場合の動詞は凡そ継続可能な動作や状態を表すものであって、「知る」のような知覚認識を表す動詞が接続するのは適当ではないだろう。例えば、「私は中学生になってから英語を学ぶ(習う、話す)」とは言い得ても、「私は中学生になってから英語を知る(見る、聞く)」とは凡そ聞かないことであって、後者の場合には、「いつ(の時点において)知る(見る、聞く)」とすべきであろう。
 結論としては、「いつから知っている」あるいは「いつ知る」のいずれかに変えることになる。ただし、掲題における作者の意図は、「少女がそのことを知る時期や年齢を知りたい」という疑問ではなく、「少女はいつか必ずそのことを知る」という事実にあるだろうと思い、改題では後者を明確に詠うこととしたので、上記のいずれの変更も結局用いなかった。
 また、掲題では、「~のだ」といった凡そ男性的で断定的な言い回しがリフレインされている。ただし、この表現は「少女」を詠った歌には凡そ相応しくないと考え、これを「こと」といった些か柔らかな言葉を繰り返すように変更した。
 以上の諸点を踏まえて、改題を次のように詠む。
  「見ないで」は「必ず見て」と読むことを少女はいつか知ることだろう

(評言)
 括弧の濫用、語句の不適切さ、及び論旨の混乱、不明瞭。
 到底読み続けるに堪えません。
 〔返〕  「見ないで!」少女は叫ぶ!私には「見てね!」と言ってるように聴こえる


(鹿児島県屋久島町・あさくらはるか)
〇  七五三の子らの名前の読み方を親に確かめ祝詞をあげる

(転載)
 掲題の歌意は凡そ「神社では七五三のお参りが賑やかである。受付では、子供たちの名前の読み方を親御さんにきちんと確認している。そして、神主は子供たちの名前を読みながら、祝詞をあげている」である。
 さて、掲題における一首のポイントは、上述した歌意には全く書かれていない。ブログ主が思うに、それは「最近のお子さんの名前には、キラキラネームといって、漢字からは全く想像もできない読み方をさせることが流行っている」という点である。ただし、掲題ではその点の表現が無いので、もし、読者がそういった最近の流行に疎ければ、上述した歌意そのままに読んでしまうことだろう。そこで、この点を明確に示して、改題を次のように詠んだ。
  七五三に難読の名の子が集い読みがなを振り祝詞をあげる
 ちなみに、元歌に詠われた同じ情景をブログ主が見て、全く白紙の状態から詠った場合には、次のようになる。
  着飾ってキラキラ光る七五三 神様ならばフリガナ要らぬ?
 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

(評言)
 「それにつけても、短歌は難しい」と仰る点に就いては、全く同感である。
 しかしながら、それに続く「それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ」と仰る点に就いては、同感出来ません。
 日本語の表現に就いて、碌々知りもしないで「それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ」とまで仰るとは、言語道断である。
 〔返〕  楽しみは他人の書いた短歌評茶々入れながら読むことである 


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