モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

2021-08-29 05:43:29 | モルモン書
「アルマの父は…82歳…、モーサヤも63歳で死んだ」モーサヤ29:46


私事ですが、61歳になりました。
「あなた方は…72歳になると…わたしのもとに来て…安息を得るであろう」3ニーファイ28:3
あと11年、楽しみにしています w


‟死”とは何でしょうか、多くの人は‟人生の終わり”と考えます。
その通りです、そして来世の始まりです。

多くの人は死を‟悲しみ”と考えます。
終わりと考えればそうかもしれません。
始まりと考えればその意識は少し変わるかもしれません。


母はもうすぐ88歳になります。
元気で一人暮らしをしています。

彼女はいつもこう言います。
「延命治療するくらいなら安らかに逝かせてほしい、寝たきりとか認知症も絶対に嫌だ」

母と時々‟死”について語り合います。
ひとつの約束をさせられています。
‟息子であるわたしが先に逝かない”ことです w

わたしはこう言います。
「それじゃぁ、健康で長生きもいいけれど、ほどほどのところにしといてね」
 「あぁ、先に逝って待ってるから」
「じゃぁ、この続きはそっちに逝ってからにしようか」
そう言って二人で笑い合います


福音は‟生”だけでなく、‟死”の意味をも教えています。
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ふさわしさを見分ける

2021-08-28 05:43:33 | 福音について
ふさわしさはどうやって見分けることができますか?


最後の晩餐の時、イエスは言いました。
「あなた方の内の一人がわたしを裏切ろうとしている」ヨハネ13:21
弟子たちは誰の事か分からずに互いに顔を見合わせた とあります。

誰がふさわしさを見分けることができたでしょうか。
イエスだけでした。

熱心に主の道を歩んでいたはずの人が福音から離れてしまう… 
そんな話を聞くことがります。
人の見る目なんてその程度のもののようです。


明日、わたしが御霊を失って教会に反対するようになったとしても
、何も驚くべきことではありません。
御霊を失わないように常に祈り求めることを怠るようになったら、
簡単にそうなることでしょう。

わたしはその程度の者です。
人のことをふさわしいとか、ふさわしくないとか、裁いている場合ではありませんね w
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平和をつくり出す人々

2021-08-28 05:36:40 | モルモン書
「アルマは主の道を歩み、主の戒めを守り、義にかなった裁きを行ったので…国中が平和であった」モーサヤ29:43


この聖句にぜひ次の言葉を付け加えていただきたいと思います。
「すべての人がアルマの言葉を受け入れ、支持し、聞き従ったので」

この平和のためにアルマが貢献したことは確かでしょうが、
彼一人でつくり出したものではありません。
「平和をつくり出す人々は幸いである」マタイ5:9

さて、この平和はどれだけ続きましたか。
平和が失われたのはなぜでしょうか。

アルマは‟主の道を歩み、戒めを守り、義にかなった裁き”をやめてしまったのでしょうか。
それとも周りの人々がそれを受け入れることをやめてしまったのでしょうか。

指導者が主に従い正しくあることはもちろん必要です。
しかし大抵の問題は‟人々がそれを受け入れなくなる”ことから始まるようです。
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ふさわしさ

2021-08-27 06:00:26 | 福音について
‟神殿に参入するためのふさわしさ”とは何ですか?


すべての人が法律を守るなら世界は平和になるでしょうか?
わたしには疑問があります。

法律は人に備わる倫理観(良心)に頼っています。
人が良心に従うなら、法律はその指針(道標)となるでしょう。

「ルールを犯したらペナルティーを与えるべき」という考えが一般的です。
それは「ペナルティーを怖れるのでルールを守る」という考えにつながり、
さらには「ペナルティーを逃れれば問題ない」という考えになるかもしれません。
もしもそう考えるとしたら、法律によって世界は平和になり得るでしょうか。


戒めを守るなら主の祝福は得られるでしょうか?
わたしには疑問があります。

「律法によっては、神の御前に義とされるものは一人もいない」ガラテヤ3:11
「律法によって義とされようとするあなた方は、キリストから離れ…恵みから落ちている」ガラテヤ5:4

イエスの時代の律法学者は「戒めがすべてに優先される」と考えていたようです。
彼らは確かに戒めを守っていましたが、
現在の神殿において啓示を受けられるふさわしさが彼らにあったと思いますか。

「戒めを守り、毎日聖典を読み、祈り、毎週教会に集っています。
それで何か問題がありますか?」
御霊を受けられるなら問題ないと思います。

どのようであれば、神殿において啓示の御霊を受けられるでしょうか。
その答えが‟神殿に参入するためのふさわしさ ”だと思います。

(神殿セミナーでお話したことです)
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自由

2021-08-27 05:39:03 | モルモン書
「自分たちに与えられた自由を…喜んだ」モーサヤ29:39


「自由」の意味は‟強制や束縛を受けず気ままに振舞えること”だそうです。

すべての人が‟勝手気ままに振舞う”ならどのようなことが起こるでしょうか。
周りの人との間に問題(衝突)が生じることは容易に想像できまます。

自由な振舞いが周りの自由と衝突し、
結果的に自分の自由を束縛することになるかもしれません。
そして「自由がない」と感じるのです。


真の自由は完全な秩序(神の秩序)のもとに存在します。

ある人はこう考えます。
「秩序を強制するならそこに自由はない」
その通りです。
ですから福音は”強制ではなく自由意思において秩序に従う”ことを求めます。

もちろんそれを選ぶのは‟人それぞれの自由”です。
「各自は惜しむ心からでなく、また強いられてでもなく、自ら心で決めた通りにすべきである」2コリント9:7
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