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モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

自分自身の救い

2021-11-30 05:03:09 | 福音について
イエスは世の救いのために人には理解できないほどの犠牲を払いました。
わたしたちにも犠牲を払うようにと勧告しています。

聖典の中には‟命を犠牲として捧げる”話もあります。
それでも「自分自身の救いを犠牲にしてはならない」と教えています。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」マタイ16:26


モルモン書ヤコブ5章にはオリーブと果樹園の主人の話が出てきます。
果樹園の主人は常に「わたし自身のために」と言っています。

福音を宣べ伝え、人々の救いのために働くように主は求めています。
神殿においては死者の身代わりとして奉仕するよう求められます。
他の人々の救いのために働くのは善いことです。

それでも忘れてはならないのは、‟自分自身の救い”がすべての基であることです。

「自分は救われなくとも愛する人が救われるなら…」と言うならそれは偽善かもしれません。
すべての基は‟自分自身の救い”にあります。

(神殿セミナーで話しました)
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神を知る

2021-11-30 04:54:39 | モルモン書
「今持っている知識を保ったまま神の前に連れ出される」アルマ11:43


「永遠の命とは…神でいますあなたと、…イエス・キリストを知ることで…す」ヨハネ17:3
わたしたちは天父と主の何を知っているでしょうか。

神を知ると何か変化が起きるのでしょうか。
神を知って何がどのように変わったでしょうか。


‟今ある思いのまま”で神の前に立ちます。
それは喜びでしょうか。

神の愛を知っているなら、神の前に立つことは喜びでしょう。
不安を感じるとしたら、知る必要があるかもしれません。
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疑問

2021-11-29 04:50:44 | 福音について
人は神を完全に理解して知ることはできません。
理解できないと不安になることがあります。
勘違いしないでいただきたいのは、理解できないのは疑いではありません。

理解できないことはストレスになりますか。
考えようによっては喜びです。
‟それほどまでに偉大な祝福がわたしたちの前には備えられている”ということです。


疑問を持つことは主に対する疑いではありません。

人は疑問を持つときに考えます。
それは‟答えを探す”という行為のスタート地点です。

疑問を感じるなら祈ってみてください。
その疑問は‟答えを得るため”の御霊の促しであるかもしれません。
そうであるなら必ず答えが与えられます。


すぐに答えられたこともあります。
十年、二十年、三十年かかったこともあります。

まだ答えられていない疑問もあります。
いつか答えが与えられるときを楽しみにしています。

まだ答えられていない疑問ですか?
「どうして主はそれほどまでにわたしを愛してくださるのですか」 …です w

(神殿セミナーで話しました)
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裁きの日

2021-11-29 04:43:21 | モルモン書
「すべての人が…自分の行いに応じて裁かれる日が来る」アルマ11:41


「自分の行いが善いか…悪いか…に応じて裁かれる」アルマ11:44
‟裁き”と聞くと悪を想像してしまいますが、善についても裁かれるようです。

悪に対しての裁きは確かに怖いものになりそうです。
「あなたはどうしてこのようなことをしたのですか。これが罪であると知らなかったと言い張るつもりですか」と主から言われる場面を想像してしまいます。

善に対しての裁きは喜びであるはずです。
「あなたの行いによって多くの人が喜びを得ました。わたしも喜んでいます」と主から言われたなら、どれほど嬉しいでしょう。

主は少しの罪をも見逃すことはありませんが、少しの善をも見逃すこともありません。
それを知っているなら当然のことですが、
「主の前で喜びを得られるように…」と考えて生きることでしょう。
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のがれる道

2021-11-28 06:01:53 | 新約聖書
「神は…試練と同時に…のがれる道も備えてくださる」1コリント10:13
のがれる道とは何ですか?


増水した川の中州に取り残されました。
岸からロープが投げられ、それを頼りに水の中を渡るように指示されました。

流れは急で水量も多く、流されそうになりながらも、
それでもロープにしがみついて、やっとの思いで渡り切りました。

溺れそうにもなったし、息も絶え絶えです。
それでも助けられたことを喜び、感謝しました。
こんなことはもう二度と御免です。


「そんな‟のがれる道”なんて嫌だ!」と言われるかもしれませんね w
「神が何でもできるんだったら、水を堰き止めることだってできるはずでしょ」
「神が何でも知っているんだったら、増水する前にどうして教えないの」
色々な意見があるかもしれません。

「神に従えばすべてが上手くいくはず」と信じていたら、
そんな状況に陥ったことで神を疑うようになるかもしれません。

ひとつだけ言えるのは
「与えられた‟のがれる道”を歩んだ人しかその祝福を知らない」ということです。


いつもそんな道ばかりではありませんよ。
「ぇ、こんなことでいいの?」と思えるほど、簡単なことも多いです。

モルモン書を読んで祈るなら導きが与えられるとか、
主の勧告に従えば誘惑から距離を置くことができるとか。

これまでに「ひどい目にあった」と思えるのは… 片手の指で収まるくらいかな ww


「主に従えば苦難はない」と信じているとしたら、それはたぶん誤解だと思います。
個人的な思いですけど w
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