モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

変化

2021-08-31 06:15:56 | 福音について
生活を変えるにはどうすればいいですか?


昔、やくざ映画が流行ったことがありました。
映画館の近くでお店をしている人がこう言ったそうです。
「映画館から出てくる人の仕草を見ると『やくざ映画を見てきたな』と分かる」

大小の違いはあれど、人はいつも周りからの影響を受けています。
人との会話はもちろん、テレビ番組、漫画や小説、映画やゲームなどでも… です。
心に影響があれば、それは行動、生活にまで変化を及ぼします。


わたしたちは福音を受け入れました。
それは心に影響を及ぼし、行動と生活に変化をもたらします。
もしも生活に変化がないとすれば、それは福音に何の価値もないということです。

その変化に気付いていますか。
変化に気付いていないとすれば、福音の祝福が見えていないかもしれません。

バプテスマを受け、聖霊の賜物を授かり、毎週聖餐を受けて、生活に変化が見えないなら、
神殿の儀式を受けても何も見えないかもしれません。

0は二倍しても0です。
1は二倍すれば2にになります。
50なら100になります。
神殿の祝福はそれに似ています。

(神殿セミナーでお話したことです)
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自分の教会

2021-08-31 05:59:46 | モルモン書
「自分の説き教えることにかなう教会を設立するように…なった」アルマ1:6


毎日の投稿を見てくださる皆さんに感謝しています。
そのことがどれだけ大きな励ましと力になっているか、皆さんに知っていただきたいほどです。

朝、眠くてもそれがあるので起き上がりたくなります。
このメッセージを書くことでもっとも祝福を受けているのはわたし自身です。

でも時々考えます。
「わたしは誉れを求めていないだろうか?」
もし自分の誉れを求めるなら、それは‟自分の教会”を求めることになります。


人は誰でも自分の思いに共感してくれる人を求めます。
それが悪いことだとは思いませんが、共感する者同士が集まり、いくつかのグループができ、
さらにはグループ同士で反目し合うようにさえなるのを、幾度となく見てきました。
‟自分の教会を作る”とはそういうことだと思います。

わたしは「主の教会の内にいたい」と願っています。
そのためには‟自分の思いに叶うこと”ではなく、
‟主の御心に叶うこと”に目を向ける必要があります。
理屈では分かっているつもりなのですが、
危うい所に立っている自分に気づくことがあります。

冷や汗ものです。
それに気づかなければ、もっと危ないのですが…
「自分の教会ではなく、主の教会でありたい」と思わせてくれる御霊に感謝しています。
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キリストを見る

2021-08-30 05:35:39 | 福音について
イエス・キリストを見ることはできますか?


ジョセフ・スミスはイエス・キリストをその目で見ました。
スノー大管長も神殿の廊下で主に会ったと話しています。

イエスの時代に多くの人が彼をその目で見ました。
その中で彼がキリストであることに気づいた人はどれだけあったでしょうか?

今の時代にイエスを目で見る人はとても少ないと思います。
しかしイエスがキリストであると知っている人はどのくらいあるでしょうか?
興味深いことに、イエスをその目で見た人でそれを知る数よりもはるかに多いのです。


心に残っている話があります。
神殿で一日の奉仕を終えて閉館しようとしていました。
建物の中に人が残っていないことを確認したのですが、なぜか人の気配を感じます。
もう一度見て回っても誰も見つけられませんでした。
気になって鍵を閉めることをためらっていると電話が鳴りました。
教会の中央幹部でした。
「今主が帰られたのでもう鍵を閉めていいですよ」

主が神殿を訪れたという話はよく聞きます。
それを話す人々はその目で主を見たのでしょうか。
それとも御霊によって心に感じたのでしょうか。

イエス・キリストを見るとは、その目で見ることでしょうか。
それとも御霊によって心に感じることでしょうか。

「聖霊によらなければ、誰も『イエスが主である』と言うことはできない」1コリント12:3

(神殿セミナーでお話したことです)
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信教の自由

2021-08-30 05:25:09 | モルモン書
「多くの者が彼の言葉を信じた」アルマ1:5


ニーホルの教えには何の問題があったでしょうか。
彼が裁きを受けたのは殺人であって、その教えは法的に問題はなかったようです。

・ 祭司と教師は皆人望を得るはずであって
 その教えは人々を幸福に導くものであるから人望を得て然るべき

・ 自分の手で働く必要はなく
 祭司と教師は人々が幸福を得るために働く
 そのために周りの人々は自らの意思で支援する

・ 全人類は終わりの日に救われる
 神はすべての人を愛しており、誰も滅びることを望んではいない

・ 人は恐れる必要もおののく必要もない
 神は畏れ敬うべき存在であって、恐れるべきものではない

・ 主はすべての人を贖い、結局すべての人が永遠の命を得る
 すべての人はそのために生きており、そこに神の愛がある


深く考えなければ、「どこに問題があるの?」と感じる人もあるでしょう。
悔い改めを引き延ばしているなら、ちょっと心を惹かれそうです。
多くの人々がニーホルの教えを喜んだのも納得できる気がします。

「法律は人の心情については誰をも罰する力を持たなかった」アルマ1:17
‟信教の自由”を認めるなら無下に否定することはできないかもしれません。
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梯子

2021-08-29 05:51:06 | わたしに従って…
「梯子を上るときは一番下から初めて一段ずつ登って行かなければなりません。…福音…も同じです。第一のものから始め…すべて…を学ぶまで続けて行くのです」
(わたしに従ってきなさい 8月29日)


皆さんにとって最初の一段は何だったでしょうか。
わたしには宣教師の言葉を受け入れることでした。

二段目は教会に行くこと、そして宣教師の話を聞き、モルモン書を読み、祈り…
そのようにして一段づつ昇り、ここまで来ましたました。


振り返ってみれば、その一段ずつは確かなものであり、
まさに神から与えられた梯子の一段でした。
途中の一段が真実ではない偽りであったとしたら、どうなるでしょう。
そこで足を踏み外し、或いは手が空を掴み、転落していたかもしれません。

今ここにいることは、これまでの一段ずつ、そのすべてが
神から与えられた真実であったことの証といえるかもしれません。
なんだか奇跡的ですね。


この梯子はどこまで続くのでしょうか。
「主にあって死ぬ死人は…その労苦を解かれて休み」黙示録14:13
この人生を終えた向こうで休めるようですね。

梯子は階段のように途中で休むことはできません。
途中で寝ぼけて手を滑らせたり足を踏み外したりすることのないように注意しましょう。

「わたしと一緒に目を覚ましていなさい…誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」マタイ26:38~41
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