モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

自分の言葉で

2020-11-30 05:25:49 | モルモン書
「父はわたしを父の言葉で…教えてくれた」エノス:1

聖文や学んだ言葉から引用して教えるのは良いことです。
それを理解して、かみ砕き、自分の言葉として教えるのはさらに良いことです。
主の教えに自らの証が加えられるからです。

そのことによって、相手の心に訴える力は、増し加えられるようです。
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2020-11-29 07:06:34 | 福音について
この一週間、感謝を思いながら過ごせたことと、
毎朝、それを書き記すことができたことは、わたしの霊に変化を与えてくれたように思います。

ネルソン大管長のメッセージを改めてもう一度視聴しました。
新しい教えがあるわけではありません。
心にショックを受けるような言葉があるわけでもありません。
それなのに、胸の奥に湧き上がってくるこの静かな思いは何なのでしょうか。

これが御霊の力なのだと思います。
福音に出会って以来、穏やかに、優しく、力強く押し続けてくれるこの愛に、
どれだけ感謝していることでしょう。
罪を責められるよりも、罰を与えられるよりも、この愛を失うことを怖れます。

わたしにとっては、祈ることも、聖典を学ぶことも、教会へ集うことも、
福音の中で生活しようと努めることも、全てはこの愛を失わないため、
より強く、より大きく、この愛を得たいがためにあります。

なんとなく、最後にこの言葉を付け加えたい気分です。
愛する主、イエス・キリストの御名によって、アーメン
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2020-11-28 06:13:27 | 福音について
わたしは福音について、いつも自分の感じたことを感じたままに話します。
そのことに戸惑う人もあるそうです。
正直に告白すると「こんな話をして大丈夫なのだろうか」と不安になることもあるのです。

‟気兼ねなく、何でも語り合える友”があるというのは、本当に感謝すべきことです。
「主を信じていない人には、こんなこと話せないよな」と思うことがよくあります。

主を信じているなら人を欺くことができません。
それは主を欺くことになるからです。
主を信じている人が主を欺くなんてできるはずがないからです。

だからといって間違いを犯さないわけではありません。
そのような言葉を、気兼ねすることなく口にして語り合える、
教会でのそのような一時は、学びと成長の機会であり、そして喜びです。

もしもその機会が失われたら、わたしの人生の喜びは
そのほとんどが消え去ってしまうのではないだろうかとさえ思えるほどです。
「主はそのために教会を与え、安息日に集うようにしてくださった」とさえ考えています。
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2020-11-26 05:33:35 | 福音について
主は自分の業を「大いなる驚くべき業」と呼びました。
わたしが実感している「驚くべき業」は‟主の御霊”です。
それは初めて宣教師に出会った時から始まりました。

主の御霊は様々なものをもたらしてくれます。
理解力、気付き、思い起こす、平安、愛、悔い改め…
それらの中でわたしがもっとも感謝しているのは‟赦しの心”です。

日々の生活で‟赦しの心”は、とても大きな助けになっています。
赦しの心があるときには御霊があります。
赦しの心を持てないとき、その心に御霊はあるでしょうか。

御霊があると、柔和、自制、善意、そして喜びがあります。
パウロはそれを‟御霊の実”と呼んでいます。ガラテヤ5:22

御霊がないと、敵意、怒り、争いの心が生まれます。
これをパウロは‟肉の働き”と言っています。ガラテヤ5:19

‟赦しの心”を感じられるとき、わたしの心は感謝と御霊に満たされるように思います。
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2020-11-25 06:17:32 | 福音について
わたしには、強さ、賢さ、カッコ良さに憧れる気持ちがあります。
それらがあれば、人生がもっと豊かになると思えるからです。

その反面、それらが与えられなかったことに感謝しています。
「そのような才能があったら…」と考えたとき、
高慢になって、福音を必要としない自分を簡単に想像できます。

弱いので、主に頼りました。
愚かなので、悔い改めたいと願っています。
主に従う人々のようなカッコ良さに憧れます。

モロナイは人生の後半を、最後のニーファイ人として、
命の安全のためにさまよいながら過ごしました。
彼の人生は幸せだったでしょうか。

わたしは幸せだったと信じています。
主が自分に従う者に喜びを与えないなど想像できません。

この世的に見れば荒唐無稽に思えるかもしれませんが、
主の祝福を知っている人には理解できると思います。
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