モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

決心

2019-06-30 22:39:19 | 今日の一言
小さな山も大きな山も、土と岩から成る
小さな決心も一大決心も、日々の小さな決意と志を保つことから成る
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偏見

2019-06-30 21:52:12 | 福音について
「人を片寄り見ることは良くない」(箴言28:21)

偏見とは「十分な根拠もなしに他人を悪くみること」とあります。
十分な根拠とは、キリストを信じる者にとっては「福音」であり、
ある人にとっては「受け継がれてきた文化」であり、また「世の中の常識」です。

それは価値観、評価の基準であり、「十分な根拠」と成り得るものはそこにあります。
根拠となるものが異なれば、そこから生まれる判断は、
基準を異にする人から偏見と受け止められても仕方がないのかも知れません。

相手の偏見を主張するのであれば、相手にとってはこちら側に偏見があるわけです。
たとえ「相手を裁く気持ちはない」と主張しても、
自分との違いを受け入れないのであれば、そこには偏見が生まれます。

自分に偏見があることを認め、受け入れることが必要かもしれません。
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信仰が不足するなら

2019-06-30 19:51:49 | 福音について
手元に300円があります。お店で買いたいものが税込み310円でした。
どうしますか? 諦める、10円玉が落ちていないか探す、10円のために出直す。
もしも本当に欲しいものであれば、諦めるという選択肢はないと思います。

主に何かを祈り求めるとき、いつまで経っても応えがないとしたら、
どうしますか? 諦める、祈り続ける、信仰を増し加えるために出直す。
真心から求めているなら、諦めるという選択肢はないはずです。

簡単ことは比較的簡単に与えられます。
求めることが難しくなるほどにより強い信仰が必要です。
祈り求めることに応じた信仰が求められます。

どうすれば信仰を増し加えることができるのでしょうか。
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祈りの進化

2019-06-30 08:04:58 | 福音について
祈りは進化しているでしょうか。
祈りはその人の信仰を表します。
信仰が増し加えられれば、祈りはそれに従って主に近くなります。

ヤレドの兄弟は初めに「言葉を乱さないように」と祈り求めました。(エテル1~)
「主に忠実であろう」と決心すると、主は彼に語り掛け、
その指示に従うと、主は雲の中にあって彼と語り合いました。

石にその指で触れるように願うと、主はその指を見せ、
信仰が完全になると、主は彼にすべてを見せました。
わたしたちの祈りは今、どの段階にあるでしょうか。

祈りは進化しているでしょうか。主に近づいているでしょうか。


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わたしに従って来なさい

2019-06-30 07:40:42 | 福音について
「誰でもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)

「わたしについて来たいと思うなら」とは「信仰があるなら」、
「自分を捨て、自分の十字架を負うて」とは「悔い改めて」という意味です。
つまり「信仰があるなら悔い改めてわたしに従って来なさい」となります。

マタイによる福音書には「わたしに従って来なさい」という言葉が4回記されています。
主がこの言葉を何度も口にされたことは容易に想像できます。
主の言葉、預言者の教えにこの言葉を付け加えてみましょう。

わたしが来たのは義人を招くためでなく罪人を招くためである。
だから信仰があるなら悔い改めてわたしに従って来なさい。(マタイ9:13)

わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔形を見、主は心を見る。
だから信仰があるなら悔い改めてわたしに従って来なさい。(サムエル上16:7)

回復とは悪を悪に、肉欲を肉欲に・・・善を善に、義を義に・・・再び返すことである。
だから信仰があるなら悔い改めてわたしに従って来なさい。(アルマ41:13)

日の栄の王国の律法に従えない者は日の栄の王国には耐えられない。
だから信仰があるなら悔い改めてわたしに従って来なさい。(教義と聖約88:22)

この言葉は道路の案内標識、迷ったときのコンパスに例えることができます。
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