モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

ふさわしさとは

2021-08-26 05:42:31 | 福音について
ふさわしさとは何ですか?


今年の夏の甲子園は雨で大変のようですが、それでも選手たちは頑張っていますね。
彼らの多くがプロ野球でプレイすることを夢見ているそうです。
そこでいつも話題になるのは、「彼らがプロとして‟通用”するか」というものです。
その判断材料は、技術、身体能力、将来性などでしょうか。


「自分のふさわしさは日の栄えで‟通用”するものだろうか」とよく考えます。
その判断材料は何でしょうか。
プロ野球のように一定のレベルを求められたり、定員があったりするのでしょうか。

「自分は日の栄えにふさわしくない」と聞くことがあります。
何を基準にそのように判断するのでしょうか。
もしかするとその言葉を口にしながら‟あきらめ”てはいないでしょうか。

‟あきらめる”とは信じることをやめることです。
信じることをやめるなら、努力することもやめてしまいます。
そうなれば‟ふさわしくない”と言われても仕方がないかもしれませんね。


そのような皆さんに尋ねてみたいのですが、‟あきらめる理由”はどこにあるでしょうか。

あきらめなければ(信じ続ければ)、そこには可能性があります。
‟終わりまで耐え忍ぶ”とはあきらめずに信じ続けることではないのでしょうか。

神が一定のレベルに達していないからという理由で
‟可能性のある人を切り捨てる”と考えることができますか?
わたしにはそう考えることができません。

可能性を保つ(あきらめずに信じ続ける)ことこそが、
主の求めている‟ふさわしさ”ではないのでしょうか。
皆さんはどう思いますか?
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真実を確信する

2021-08-26 05:26:37 | モルモン書
「彼らは…真実であると確信した」モーサヤ29:37


何を基準に真実を確認しますか。
・ 自分の思いに沿っているので…
・ 皆が正しいと言うので…
・ 聖典に記されている、或いは預言者の言葉だから…
・ 御霊の促しがあるので…
それぞれによいことです。


ある人はこう言いました。
「預言者の言葉は御霊によって語られるものなので正しい
確かにその通りです。
でもあなたはその言葉を御霊によって正しく理解していますか?
御霊によって語られた言葉を正しく理解するには御霊に頼る以外にありません。」
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ふさわしさの基準

2021-08-25 05:39:57 | 福音について
ふさわしさの基準は何ですか?

バプテスマを受ける前、ふさわしさとして何が求められたでしょうか。
イエス・キリストを信じる、教会員として生きる覚悟、悔い改める…
そのくらいでしょうか。

教会員である皆さんにお聞きします。
今求められているふさわしさはバプテスマを受ける前と同じですか?
もしも同じであるとしたら、何も成長していないし、
主からの賜物を何も受けてもいないということになるかもしれません。

宣教師の皆さんに質問です。
一般の教会員と宣教師のふさわしさの基準に違いはありますか?

神殿で聖約を交わす前と、聖約を交わした後を比べてみてください。
ふさわしさに対する思いに変化はありますか?

この教会には預言者と呼ばれる人があります。
彼らに求められるふさわしさは、わたしたちと同様のものでしょうか?

ふさわしさには、主から与えられているものに応じて違いがあります。
「多く与えられた者…は多く求められ…る」ルカ12:48

(神殿セミナーでお話しました)
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責任

2021-08-25 05:28:11 | モルモン書
「すべての人が自分の責任を負わなければならない」モーサヤ29:34


誰かとの間で争いがあるとき、
‟どちらにより責任が大きいか”が問題になることは少なくありません。
そして‟より責任の大きい方がその責任を問われる”なんてこともあります。

福音ではどうでしょうか。
争い事があるとき、相手に九割の責任があり、自分の責任が一割だったとします。
「この問題については相手の責任だから、
自分に悔い改めの必要はない」と考えるでしょうか。
それとも、「自分にある一割の責任について悔い改める」でしょうか。

主の御霊はどのように促すでしょうか?
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進んで従う

2021-08-24 05:44:37 | 福音について
‟福音に進んで従おうとする”ならキリがないのではないですか?


その通りで‟福音にキリはない”と思います。
福音は‟永遠”に続くものだからです。


「人は…自由意思によって…、自らの内に力があり…自ら選択し行動する…、命じられるまで何事も行わず、疑いの心を持って戒めを受け入れ、それを不承不承守る者は罰の定めを受ける」教義と聖約58:27~29

戒めを強制と誤解されることがあります。
強制は神の御心ではありません。
この世にあってすべての人は自由だからです。


自分の意志でなければ永遠に続けることはできないでしょう。
永遠に強制されるなんて御免ですよね。
強制する側も大変だと思います。
どちらも嫌になってしまうことでしょう。

‟キリがない=永遠”です。
永遠を望みますか?
キリストを信じるとは永遠を望むことだと思います。
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