ロマンチストの弟は「運命の女」がきっといると信じていた。リアリストの兄はそんな女がいるはずはないと思っていた。美しく謎めいた女が兄弟の住む小さな町に現れたとき、ふたりはたしかに「運命の女」にめぐりあったのだったが…。クックがミステリを超えて、またひとつ美しくも悲しい物語を紡ぎだした。
村松潔 訳
出版社:文藝春秋(文春文庫)
トマス・H・クックは『記憶』シリーズしか読んだことはないが、この作家の特徴は、薄皮を剥ぐようなストーリー展開にあると思っている。
一つの事件が起こり、その事実を語り手はゆっくりと語り上げていく。
その語りによって、サスペンス性を煽り立て、人間関係の心の襞に迫っていくというのが、クックのスタイルだ。
『心の砕ける音』でもそんなクック節は健在であった。
内容が内容だけに、地味という点は否定しようもないが、安心して読めて、しかも充分におもしろい作品となっているのはまちがいない。
主人公は、キャルとビリーの二人の兄弟だ。
二人の性格は父と母から別々に受け継いでいるせいか、大きく異なっている。
兄のキャルは、あくまで現実的に物事を考え、かなり醒めた人生観を持っているのに対し、弟のビリーはどこかロマンチストで、幻想を追い求めるのに夢中になっている。
兄は目の前に溺れている人がいても、危険だと思えば躊躇し、弟の方は迷いなく飛び込む。そんな感じだ。
そんな弟はあるとき刃物で刺されて死んでしまう。
その背後には、彼が恋した女の存在が見え隠れするが、、、といったところだ。
弟の死の真相が、どこにあるのか、そして兄弟と深く関わり、容疑者とも見なされているドーラは一体何者なのか、という点が大きな謎である。
その真相を描くのに、ジリジリと煽り立てるように物語を進めていくあたりは、さすがクック、堂に入っている。
ストーリーの運びは申し分なく、楽しんで読めるのが何よりも良い。
また兄弟の心理の描き方もおもしろい。
リアリストとして生きてきた兄のキャルだが、弟が恋した女に、彼も惚れることになる。
醒めた恋愛観を持つ男が恋をしたとき、殺人を犯すこともあるのかもしれない、そんな疑念をじわじわと掻き立てられるあたりはすばらしい。
そして彼の最終的な行動こそ、リアルな人間の動きだと思うのだ。
ドーラの人生もまた興味深かった。
なぜ彼女は素性をかくしつづけるのか、その事実が明らかになっていく過程は悲しくもあり、また一つの人生だと感じる。
相変わらず地味だし、押しも弱い。
しかしクックの煽り立てるような筆致はクセになるし、人の心にじっくりと迫っていくスタイルが僕は好きだ。
これからもクックを読み続けたい。そう感じさせる一冊であった。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
そのほかのトマス・H・クック作品感想
『死の記憶』
『夏草の記憶』
『沼地の記憶』
『緋色の記憶』
『夜の記憶』
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