黒船来航以来の幕末の激動は、山深い木曾路の宿場にも確実に波及してゆく。馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を兼ねる旧家の第十七代当主青山半蔵は、平田派の国学を信奉し、政治運動への参加を願うが、街道の仕事は多忙を極め、思いは果たせない。
出版社:岩波書店(岩波文庫)
『夜明け前』は実に長い作品である。
全四冊だから当然だが、淡々とした文体もあってか、よけいにそう感じてしまう。
しかし内容自体は非常に読み応えがあった。
特に幕末という激動の時代を、地方のインテリの視点から描いている点が目を引いた。
それがほかの幕末ものとは一線を画しており、非常に目を引く作品である。
主人公の半蔵は中山道馬籠宿の本陣を取り仕切っている庄屋だ。
そのため彼にはいろんな仕事が回されてくる。そしてそこから幕末という変革期の空気が伝わってくる点がおもしろい。
山深い地方においても、幕末は激動であったらしい。
本陣なので特に参勤交代の手配が大変なのだが、助郷の困難などはおもしろく読んだ。
幕末期になると、徳川の権威だけでは周辺の村も動いてくれないというところなどは、いかにも時代の空気を感じさせる。
また参勤交代の廃止などから、時代の流れを感じるところも本陣ならではの視点だろう。
そういった点から、徳川の失墜を、伝聞だけでなく身近に感じていくあたりは新鮮だ。
また街道を行き交う大名が明治になって完全になくなっていく描写や、明治になって本陣の廃止など、目に見えて旧弊が廃されていく過程などもさすがの生々しさがある。
この時代の、世の中の流れの激しさがよく感じ取れる。
また山林に関する取扱もこの地方ならではの視点だ。
幕末のころの木曾では、尾張藩の意向で五木の伐採は禁止されているが、それ以外の雑木を取ることを許されていた。
しかし新政府になった途端、すべてが官有林になってしまい、地元民でさえ林の中に立ち入ることは禁じられる。
こういった部分は、英雄視点の幕末物では決して出てこない描写である。
そういった細部のおかげで、時代の空気や、当時の生活状況が伝わり興味深い。
それでいて、そんな片田舎でも有名人との関わりがないわけでないというのもおもしろい。
和宮の降嫁や天狗党の中仙道を使った上洛、ええじゃないか、赤報隊事件など、幕末期の有名なエピソードも地方民の視点から描かれているあたりはぞくぞくする。
主人公はそんな中仙道の宿場の本陣で多くの時間を費やしていく。
彼自身はインテリの部類に入る人だ。
平田篤胤没後の門人として国学を修め、国学者の視点から幕末の変動を眺めている。
幕末の運動が尊王思想と結びついているだけに、彼なりのシンパシーはあるらしい。
それゆえに、半蔵はその中に身を投じたいという気持ちもある。
特に中津川の友人が上京して、国学者の立場から尊王運動にいそしんでいることに、彼なりの憧れはあるようだ。
しかし庄屋という責任ある立場にある以上、友人のような真似はできない。
だからこそ彼は、「庄屋には庄屋の道があろう」と考え、庄屋の身分で幕末期を生きることを決意する。
そんな中で大政奉還が起こり、王政が復古される。
国学者として古代に帰ろうと考えている彼としては、自分の理想が叶えられた瞬間だ。
これで神武以来のご政道に帰ることができると考えており、その昂揚感はすばらしい。
しかし理想と現実は、概ね違うものである。
先述した官有林の件などは一典型だろう。
実際そのとき半蔵は、県に村を代表して訴状を出したがために、戸長を免職される始末。
そのほか、訪れた明治の変革はことごとく理想とは違う状況だ。
「これでも復古と言えるのか」と思う気もちも理解できよう。
さらに廃仏の影響で、国学が衰退するあたりは国学者としてはつらかったに違いない。
加えて献扇事件を起こしてからは、周囲から危険人物とみなされてしまう。
悪いことと言うのはとことん重なるものらしい。
そうしてあらゆることに挫折した半蔵は、「自分の生涯に成し就げ得ないもののいかに多いかにつくづく想い到」ることとなる。
その苦い感慨があまりに悲しい。
そしてその挙句に発狂するに至るのがつらい。これを悲劇と言わず、何と言おう。
幕末という変革期。それが激動の時代だっただけに、そのしわ寄せもいくつかある。
半蔵は、藤村の父の島崎正樹は、そのしわ寄せに、自身の理想が打ち砕かれたのかもしれない。
そんな父の姿を、丹念に描ききった藤村の筆力に圧倒される。
『夜明け前』は実に長い作品である。
しかしそれだけの筆を費やさねばならない程、格の大きな作品でもあるのだろう。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
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