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田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている―。
「不条理演劇」の代名詞にして最高傑作。
安堂信也/高橋康也 訳
出版社:白水社
以下の文章は自分の無知を棚上げして、相手を非難し、難癖をつける文章である。
人によっては不愉快かもしれないことを先に述べておく。
さて、ベケットである。
本書『ゴドーを待ちながら』はいまさら言うまでもなくベケットの代表作であり、世界的に見てもかなり有名な作品である。
だがはっきり言って、僕はこの作品の意義を理解できなかった。
もちろん、通り一編に、わかったふりをして、何かを語ることは可能である。
元々、この作品は虚無的な雰囲気が漂っていることだけは理解できるものの、それ以外は、実りのないとしか思えない会話が続くというだけの話だ。
そのため、読み手(もしくは観客)は、その実りのない会話の意味を埋めるために、想像力を駆使しなければならなくなる。
言うなれば、受け手の想像力の入る余白は多い作品とも言えよう。
そのため、解釈は否応なく、多義的になる。
それを抜きにしても、この作品、いかにも思わせぶりなセリフが多い。
たとえば、「悔い改めることにしたらどうかな?/(略)/生まれたことをか?」っていう部分とか、
キリストに悪態をついた(もしくはキリストに救われた)泥棒の話、
「つまるところ、何を頼んだんだい?/(略)/まあ一つの希望とでもいった。/そうだ。/漠然とした嘆願のような。」っていうゴドーに関する話や、
「縛られてるのかって聞いているんだ/(略)/ゴドーに? ゴドーに縛られてる?」っていう部分などは、いかにもメタファーですよ、と言いたげである。
ほかにも、ああメタファーなんだろうな、と感じるセリフは多い。
そのためじっと読んでいると、このセリフについて考えてみろ、と読み手(観客)に向かって訴えているようにすら感じられる。
何様? って問いたくなるくらいに、受け手に哲学的思考を強制している雰囲気が、鼻についてならない。
ラッキーの長ゼリフなどは強くそう感じる。
僕個人は、そのシーンを、理不尽で不可知的な状況を考える(あるいは考えざるをえなくなる)ことで精神的に追いつめられ、狂気と紙一重のところまで追いやられる、人間の姿を(皮肉混じりに)描いているように感じられた。
その解釈の正しさはともかくも、この作品には、いろんな読み解き方が可能だということなのだろう。
そして、トータルの内容を、自分なりの解釈で書くとしたら、以下のように僕は受け止める。
それは本作が、自分の存在(実存)について苦しみ、その重たさに悩んでいる人間を描いているということである。
だが、存在について考えても答えはなく、その答えのなさゆえ、人間は結果的に狂気へと追いやられてしまう。
ゴドーとは、そんな実存の重たさから救ってくれるもの(神という言葉は使いたくない)の暗喩なのだろう、と感じた。あるいは、いつ来るともしれない抽象的な希望とも言えるのかもしれない。
だがゴドー、つまり希望のようなものは、いつ来るともしれず、ことによると永遠に来ないものかもしれない。
だけども、人は、自分がここに存在しているという重たさから逃れるために、来るともしれない希望を待たざるをえないし、待っていたいと願う生き物でもある。
そして人は、それと気づかぬうちに無為に時間を過ごさざるを得なくなる。
そういう事実を、本書は象徴的に描いたものだと受け取った。それが正しいかどうかは、知らないけれど。
本書はそのメタファーの多さから、深い意味を隠し持った作品だ、と言えるかもしれない。
見た目以上に物語構造は大きく、優れたつくりである、とも言えるのかもしれない。
だけど、だ。そこまで考えて、僕ははたと考えてしまうのだ。
で、だから何だというのだ、と。
この本を読者が読み、この作品はもっと深いものだと考え、想像力を駆使して、この作品の解答を求め、これはこれこれこうなのだろうな、と思ったとする。
だが、そこに何の意味があるのだろう、という気もしなくはない。
作者がどのようなことを言いたかったか知らないが、もっと別の形で言うことはできなかったのだろうか。
僕はこの作品のテーマを自分なりに受け取り、そのテーマ自体は(合っているかは別として)、すてきだと思った。全編に漂う絶望の空気も悪くないとも思う。
だがそのテーマを、俺の作品を知りたければ頭を使え、とでも強要するかのようなスタイルで語って、何が楽しいのだろう、という気もしなくはない。
こんなのはただの自己満足じゃないのか?
おまえの趣味の問題だと言われれば、そうだね、としか答えようがないけれど、読み終わった後、僕には何も届いてこなかった。
あるいは読んでいる間、これは頭のいい人のための読み物だ、と感じたことが大きかったのかもしれない。
かなり感情的だが、頭の悪い僕は、そのいかにもって感じのインテリ臭が癇に障った。
うん、何にしろ、やっぱり僕はこの作品がこのようなスタイルである意義を理解できないのだ。
読み終えて日が浅いから、冷静な判断がでてきていないのかもしれない。
だが、理性的ではない、感情的で、生理的な感性を優先して語るならば、やっぱり僕は、『ゴドーを待ちながら』はつまらない作品と思うのである。
評価:★★(満点は★★★★★)
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