獄に繋がれたサド侯爵を待ちつづけ、庇いつづけて老いた貞淑な妻ルネを突然離婚に駆りたてたものは何か?――悪徳の名を負うて天国の裏階段をのぼったサド侯爵を六人の女性に語らせ、人間性にひそむ不可思議な謎を描いた『サド公爵夫人』。独裁政権誕生前夜の運命的な数日間を再現し、狂気と権力の構造を浮き彫りにした『わが友ヒットラー』。三島戯曲の代表作二編を収める。
出版社:新潮社(新潮文庫)
常識的に見て、まちがったこと、ゆがんだこと、悪いこととは知っているけれどついやってしまうこと、大仰な言葉を使うなら、悪もしくは背徳に惹かれる人は少なからずいる。
程度の大小や、事象の種類にこだわらなければ、ある程度の人はそういう感情を持っていると思う。
少なくとも、そういったことを想像するくらいならたいていの人はする。
だが人が悪や背徳に惹かれるのは何に依るのだろうか。
背徳的な行為そのものに惹かれるのか、それとも道徳からはずれた自分自身に惹かれているのだろうか。それとも背徳を行なう人物に惹かれ、自分もその世界に踏み込むのか。
そんないろいろなことを本作を読むと考えてしまう。
表題作『サド公爵夫人』はサディズムの語源にもなった、マルキ・ド・サドを妻や姑たちの視点から描いた物語だ。
内容は最後こそ文学的でやや小難しいが、物語としてはなかなか楽しい。
サド公爵夫人ルネをはじめとして女性たちは鬼気迫るものがあるし、感情のぶつかり合いは恐ろしく、そのこわさがおもしろい。
特にルネの存在が印象的だ。
ルネは夫が退廃的であることは重々承知している。
自分という妻の存在がありながら、夫が妹と逃亡していることも知っているし、それを容認もしている。また後年にはサドの、文字通りサディスティックな行為も受け入れている。
しかし表向き、彼女はあくまで貞淑な妻なのだ。その二面性が少しこわい。
「おまえが貞淑というと妙にみだらにきこえる」と母親が言うのも当然だと思う。
だが人間は常に多面的な存在でもある。その恐ろしい二面性もまた人の真実だろう。
だから、貞淑を体現しながら、同時に背徳に惹かれているのは、人間のあり方とは自然だろうし、業であるのかもしれない。
そして同時に、貞淑をやたらに強調するのは、貞淑であるほどそんな自分の背徳的行為が際立つから、行なっているのかもしれないなとも思えてしまう。
そんなルネの姿は、見ようによっては、自己陶酔の側面が強いよな、なんて思う。
特にラストのサドに対する賛美の言葉はその思いを強くさせる。
彼女はその場面で、背徳を突き詰めて、独自の世界に至るサドを絶賛している。
だがそれは実際の生身のサドそのものに対する賛美ではないのだ。ルネが淫しているのは、背徳という行為の概念にすぎないのではないだろうか。
そしてそれは裏返すと、背徳という行為に走り、それに惹かれる己自身に対する自己愛なのではないか、と僕には見えてならない。
そしてそんな彼女の姿もまた、人、という存在そのものなのかもしれない。
ともあれ文学的香気に満ちた、優れた戯曲である。
※
もう一方の表題作、『わが友ヒットラー』は、「長いナイフの夜」と呼ばれるナチスヒトラーによる粛清事件を背景に描いた戯曲だ。
そこで描かれるヒトラーをめぐる人物たちの各人の思惑がおもしろい。
政敵であるシュトラッサーに、ヒトラーの友人にしてだんだん疎ましい存在になりつつあるレーム、ナチスに取り入るべきか判断を留保している死の商人クルップなど、それぞれの思惑と権力闘争の様がおもしろい。
個人的にはレームが強く印象に残った。
彼は粗暴な性質もあり、自己顕示欲も強く、自分の軍隊を大きくしようと考えるあまり、大局も読めていない。それでも友人を無邪気に信じる側面もある。
基本的に彼は純粋なのだろうな、という風に感じる。
そしてそれゆえ、子どもじみた態度を取り、ときに愚かしい結末を迎えるに至るのだ。それがとても悲しい。
ヒトラー自身、レームを殺すことには迷いがあったことはうかがえる。
だけど権力という装置の中心にいる彼にも、そういったレームを排除する動きを止めることはできないのだろう。
最後の言葉はだからこそ、恐ろしいまでの皮肉を感じざるをえない。
「政治は中道を行かなければなりません」と言ったヒトラーは、その後、中道とは真逆の極論へ走ることとなる。
そういった狂気じみた政策を推し進めたのは、ヒトラー個人の思考によるものではある。
だが同時に、それを推し進めていくのは、権力という装置の悪魔的な側面によるところが大きかったのかもしれない。
そう読み終えた後に感じた次第だ。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
そのほかの三島由紀夫作品感想
『春の雪 豊饒の海(一)』
『奔馬 豊饒の海(二)』
『暁の寺 豊饒の海(三)』
『天人五衰 豊饒の海(四)』
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