私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『ヘヴン』 川上未映子

2009-12-10 20:19:26 | 小説(国内女性作家)

「苛められ、暴力をふるわれ、なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」
彼女は言う。苦しみを、弱さを受け入れたわたしたちこそが正義なのだ、と。彼は言う。できごとに良いも悪いもない。すべては結果にすぎないのだ、と。ただあてのない涙がぽろぽろとこぼれ、少年の頬を濡らす。少年の、痛みを抱えた目に映る「世界」に、救いはあるのか――。
出版社:講談社



 『ヘヴン』は、本当にすばらしい小説だ。

ストーリー展開も、登場人物たちの描き方も、テーマ性も、どれもこれも魅力にあふれている。
いくつかの点で作者がねらったほどの効果をあげていない部分はあるけれど、それでも読んでいてずいぶんと心をゆさぶられた。
すばらしいとしか言いようがない。


物語は、斜視のために教室で執拗ないじめにあっている「僕」と、同じようにいじめにあっているコジマという少女が、手紙のやり取りをするようになるところから始まる。

この二人の手紙のやり取りや、二人の会話が非常に魅力的だ。
人間サッカーをはじめとした、いじめのシーンがあまりにひどく残酷だからだろうか、いじめられる側の二人が仲良くなり、互いにとってかけがえのない存在になっていく過程に、読んでいてドキドキしてしまう。

非常階段で自分の標準を語るコジマの言葉は、妙に心に残るし、夏休み最初の日に、二人で電車に乗って会話をするシーンなんかは、こっちまで「うれぱみん」状態になってしまう。
「わたしは、君の目がとてもすき」と「僕」に言うコジマのセリフも、コジマの手に「僕」が初めて触れるシーンもすばらしい。
それ以外にもすてきで、心に響き、胸を震わす場面にいくつも出くわす。

美術館で髪を切るところが、この小説で一番美しいシーンだ、と思う。
そのとき見せる「僕」の優しさに、何ていいやつなんだと思ってしまうし、髪の束を捨てるべきか迷っているコジマの不安そうな、ちょっとした緊張感もたまらなくいい。
別にエロくないけれど、ふしぎとエロティックに感じられる点もすばらしい。

そういった積み重ねもあって、「僕」とコジマに思いっきり共感してしまうのだ。
そして強く共感したからこそ、「僕」の斜視を直す手術の話が出て以降の展開に、打ちのめされ、心をゆさぶられるのだろう。


「僕」の斜視を直す手術のことを聞いて、コジマは「僕」の態度をなじる。
「その目は、君のいちばん大事な部分」で、「本当に君をかたちづくっている大事な大事なこと」だと言って。
けれど、そのコジマの態度はあまりに頑なだ。

その頑なさは、彼女が独自の考えを持っているところに由来している。
実際、彼女は、離れた父親を忘れない「しるし」をつくるため、自ら汚い格好をする、というずいぶん変てこな論理で行動する少女だ。
そしてその汚さのために、同級生からいじめにあっている。

そんな風に自分がいじめられることに対して、それにはきっと意味があるのだ、とコジマ自身は考えている。
そして意味も考えず、自分をいじめようとする同級生たちを可愛そうに思い、彼らの行為を許そうとも考えている。
それはまるで、十字架上のキリストの言葉を思わせて、興味深い。


そんなキリストもどきなコジマの態度と、対照的な位置にいるのが、いじめる側の百瀬だろう。
彼からすれば、「僕」やコジマがいじめられるのは、たまたまであり、たまたまそこに「僕」がいて、たまたまいじめる側の欲求と一致しただけでしかない、と言う。
そして「僕」が感じる世界と、百瀬が感じる世界は、決定的に異なり、まったく無関係なので、罪悪感はないとも語っている。

百瀬の思想は、わかりやすいくらいのニヒリズムだ。あるいはアンチクリスト、ニーチェ的と言うべきか。
ひどいことが起きても、それを受け入れている自分たちこそ強いのだ、と言っているコジマとは当然のことながら差がある。
多分百瀬からすれば、コジマなど、世界の背後を説く者でしかないのだろう。


「僕」は、そんな二人の意見に接するが、どちらの意見にも、距離を置いているきらいがある。
一応コジマの意見に、ある程度のシンパシーを感じているようだけど、その意見に対し、完全に賛同できていない。そして当然ながら、百瀬の意見はもっと受け入れられないでいる。
「僕」は二人の思想の間に立ったまま、どちらかの側にも決定的につけないままだ。

そんな彼の心を、端的に示すのが、雨の中のいじめのシーンだろう。
そのシーンで「僕」は当たり前だけど、二ノ宮たちの言うことを受け入れ、従うわけにはいかなかった。
だけど、「僕」は、復讐するため、あるいは自分の身を守るためとはいえ、どうしても人に対して暴力をふるうことができない人間でもあるのだ。
そしてその思いはコジマを助けたいという瞬間でも、迷いとなって現れている。

それが良いことか、悪いことかは述べない。
だけど、どちらか一方に立つということは、自分を追いつめることでもあるのだろう、という気もしなくはないのだ。
コジマも、百瀬も、少なくとも極端であるという点では共通している。
そしてその極端さのために、コジマは自分の考えに追いつめられている部分があるからだ。
コジマは自分の考えの先に「ヘヴン」を夢見ているが、それだけでは決して救いは訪れそうに見えない。


だがそんな風に迷いながらも、「僕」がコジマのことが好きだ、という気持ちはゆるぎないのだろう、とも思うのだ。

コジマはラスト近くなっても、まだ「僕」のことを恨んだままなのかもしれない。
だが「コジマはたったひとりの、僕の大切な友だちだった」という点は「僕」にとって、まぎれもない事実である。

僕は最後に、「君をかたちづくっている大事な大事なこと」と言われた斜視を直すことを選択する。
それはコジマの期待を決定的に裏切る行為かもしれない。
あるいは、「僕」と、コジマの世界は異なり、それぞれ「ひとつの世界を生きることしかできない」という事実を認めることにつながるのかもしれないだろう。
それに、美しさをその目で見ても、「誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない」という、言うなれば絶対的な孤独を認めることにつながるのかもしれないのだ。

だけど、「僕」がコジマとの記憶を、「忘れたことに気づかないくらい、完璧に忘れる」ことなど、絶対にありえないのだ。

そしてその記憶を抱えたまま、「僕」は「ただの美しさ」かもしれないが、少なくとも美しく、「向こう側」のある世界へと踏み込んでいける。
そんないくらか前向きな気分になれる、「僕」のラストの姿が、心に残って忘れがたい。


と、何か無駄にダラダラ書いたが、それだけ多くのことを語りたい作品ということである。

重ねて言うが、『ヘヴン』は、本当にすばらしい小説だ。
今年読んだ本の中でも、一・二を争うほどの優れた作品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの川上未映子作品感想
 『乳と卵』
 『わたくし率 イン 歯ー、または世界』

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