ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

誰もがみなゆるされて生きている

2016-07-30 18:38:01 | 知恵の情報
考えてみれば、私たちはある事柄においてはたしかに自分が被害者であっても、
別の事柄では加害者であるということを数え切れないくらい繰り返しながら生きて
います。

親子や夫婦のあいだで、友人や仕事上の人間関係において、さらには属している
集団と別の集団とのあいだ、国と国のあいだで、自分をかばい自分の利益を
思い、自分のことを正当化する行動をとるうちに、いまこの瞬間にも私たちは知らず
知らず誰かを傷つけてしまっているのです。その不完全な自分に気づくことがで
きたときにはじめて、ゆるしを必要としているのは実は自分であったのだと気づく
ことができます。

ゆるすとは、愛することなのです。それは、中国の思想家・孔子(前551頃~
前479)が人倫の基本としてあげた「恕(じょ)」に通じます。「あなた」を意味
する「如」と、「心」の、2文字からなる「恕」は、自分のことのように相手を思い、
その存在を尊重する心のことです。相手ばかりが憎むべき醜さを持っている
のではなく、自分も同様に弱さも醜い根性をももった人間ではないか。その
自分がこうしてゆるされて生きていることを顧みれば、相手もまたゆるされる
べきだ、感じることのできる心です。そうした「恕」の心をもって憎しみを
ゆるしに変えることができたとき、その人は本当の安堵と喜びが与えられる
のだと思います。

仏教の開祖・釈迦(前463頃~前383頃)もこのようなことばを遺されています。
「怨みに報いるに怨みをもってしたならばついに息(や)むことがない。怨みを
捨ててこそ息む」と。

ゆるすという行動は、妥協やあきらめや後退ではありません。また、単に勘弁
してやるとか、水に流すとか、大目に見るというレベルにとどまるものでも
ありません。憎い相手もまた自分と同じように、この世にただ一度きりの
生を与えられた価値ある存在であることに気づき、それを尊重することです。
ともに生きている意味を知ることです。

ゆるすという、最も人間らしく、最も難しく、そして最も勇気ある行動を選び
とる力をどうか私たちに与えてください、そう私は絶えず心のなかで祈りを
唱えています。

─『続生き方上手』日野原重明著 ユーリーグ株式会社刊より

注)人倫:人の守るべき道義。

「ゆるすとは、愛することなのです」と言い切られたのには、感銘を受けた。
ゆるすと愛のことば同士がつながったように感じました。たしかに自己を犠牲
なくては、ゆるせない。それは、無償の愛です。勇気あるとおっしゃったのは、
人として、ゆるす葛藤がどうしても存在する、それに理性によって自分を調整
していくことだと理解しました。善我の心の状態です。自然にゆるす行動が
できると心のレベルがあがっているのでしょうけど、自然にできなくても
勇気をもってそれにのぞむ。人間には、その行動が’ゆるされて’います。

傷つけられたときこそ、生きかたは試される──日野原重明

2016-07-29 17:46:28 | 知恵の情報
私たちは、他人から受けた傷はいつまでもその痛みとともに忘れることがありません。
傷が深ければ深いほど、加害者である相手に自分が味わったのと同じ苦しみが
与えられることを望む気持ちにもなります。しかも、それが唯一、自分の怒りや憎しみ
を晴らすための正当な手段であると信じて疑いません。歴史上に百年にもわたる戦争が
続いたことがあるのは、恨みや憎しみの感情が根深く、その子孫にまで連鎖していった
からです。

けれども、報復の応酬の行く手に待っているのは、相手への憎しみのとりこになり、
ついには、自分自身の人生をも台無しにしてしまうという悲しい結末です。この
憎しみの連鎖にはまったとき、もはや被害者・加害者の別はなく、そこにあるのは
ただ解決のめどのない悲劇の連続です。

平和の到来を願ったはずの21世紀がその幕開けから血塗られ、世界には大きな
争いがいまなお続いています。私たちはいまこそこの憎しみの連鎖にピリオドを
打たなければなりません。憎い相手をゆるす、という最も勇気ある心と行動を示す
ときなのです

かつて人種差別撤廃をめざし黒人運動を推進したマルティン・ルーサー・キングJr.
牧師(1929~68)は、
「暴力に暴力で報いれば、ただ暴力を倍加させるだけであって、憎しみを消すことは
できない」
と言いました。彼は、さらに「汝の敵を愛せよ」とのキリストの教えは最もその実行
が難しいことであると前置きしたうえで、それでもなお、
「私たちは敵意をなくすことで、敵をなくさなければならない」
と多くの同胞に訴えました。

人を許せるか否かは、人間に与えられた試練だと言わざるをえません。傷つけられた
ときにこそ、私たちは、生き方を試されているのです。相手を憎んだり、仕返しをしたり、
相手が自分の思うとおりに変わることを一方的に望むよりも、まず自分がどれだけ
人間らしい行動を選択できるかが試されているのです。それは、相手から受けた
傷を自分自身の成長の糧に変えられるかどうかということでもあります。

─『続生き方上手』日野原重明著 ユーリーグ株式会社刊より

表立って傷つけられなくても、相手の些細な言葉や、態度ですごく傷つくことが
あります。相手は、残念ながらそれに気づいていないことが多い。
人間のつながりは、この気遣いのなさの連続でしょう。こちらが気を使っても相手は
それに気がつかない。相手が気をつかってくれてもこちらがしらっとしている・・・

こういうときは、やはり、たがいに信じられる行動を工夫して相手に示しつづけると
いうことが大切なのではないでしょうか。相手に傷つけられても日野原さんが
おっしゃるように人間らしい行動をこちらが主体性を持って選択することなのでしょう。
相対的に考えると相手がしてくれないから、やらない。相手にいじめられたから、
相手にしない、いつか仕返ししてやる。負の連鎖です。相手の出方で、自分が動くの
ではなく、自分の人間らしい行動をいつもこころがけて、選択していきたいものです。

「大宇宙、大自然の法則」は、「神の法」であると見極める

2016-07-28 18:37:42 | 知恵の情報
神の法とは、万物を一つに統一して秩序立てている宇宙の法則、宇宙の構成、宇宙
の仕組み─どのようにして宇宙は生成し、発達し、その構成員である約一千億の一千
億倍の星々が(恒星、惑星、衛星など)互いに関連し合って年輪を経ていって、その
中に恵まれた惑星が微生物を誕生させ、それを恒星の光と熱エネルギ-によって
育成し、植物、動物、人類へと進化させる─その大宇宙、大自然の法則─これが
唯一絶対無二の変化しつつ、恒常的であって、つまり形は変わるが、絶対的
存在は変わらない不変のもの─を指すのです。

この(法則を人間世界での)法(ととらえること)によりありとあらゆる現象、物質
および存在は、その意義と役割を説明し得るのです。他にはありません。

その「法」を現代科学や、天文学その他あらゆる学問探究の分野で、一つ一つ
解明していっているのです。

学者は、「神の法」と「自然法則」がつながらない、─科学は、物質の解明、物質
文明を促進するもの。宗教は魂と心の解明に終始するもの─何か別の分野であると
理解されているようですが、そうではありません。
これは、人間が感情と理性を持つ一つの人格であるように、宇宙という大きな
存在のなかに感情が宗教としていままでの歴史を持ち、理性が科学史として代表
されている、一つの大きな存在の解釈が二様に(科学、宗教)分かれていたに
過ぎないのです。
(一部、文を解釈変更あり、歴史的概観など詳しくは本書を参照・・・)
─『天国の証』千乃裕子編著 たま出版より

注:法=(律)法(守らなければならないこと、さだめ)の意味を含んでいる。
  自然界の法則を無視して人間は生きられない、それが道徳的な生き方の
  認識から(律)法ととらえることになる。

このシリーズ本が出ることにより、{高橋信次~千乃裕子}の内容の流れによって、
歴史的に宗教から科学へ自己の認識が変化してきている様子が理解できた。
宗教は、ローカルであり、流派がたくさんできてきて、その教えも人が変わる
たびに変化してきた。17、18、19世紀の科学者たちは、神の存在の証明の
ために科学的思考をし、証明を行ってきた。
その科学を宗教家は、忌み嫌ったが、少しづつ、年月を重ね客観的にとらえる
意識が広がり、今日まできている。世界に先駆けて、日本で、宗教と科学の
一致を、アプローチは違うが本質は同じものをとらえていたのだという公表は、
非常に興味深いものだ。多くの科学者が「大宇宙、大自然の法則」に尊厳を見出し、
驕らない、正しい認識の発言が出てくることを望んでいる・・・

人間が自分自身について無知であるというのは──アレキシス・カレル

2016-07-27 16:40:58 | 知恵の情報
人間が自分自身について無知であるというのは、奇妙な性質である。それは、必要な
情報を得るのが難しいとか、情報が不正確だとか少ないとかいうことで起こったのでは
ない。それどころか反対に、長い年月をかけて人間が蓄積したデ-タが、あまりにも
豊富で乱雑なためである。

また、科学が、人間の肉体と意識を研究しようと努力するあまり、人間をほとんど
無数の部分に分けてしまったことにもよる。この知識は大部分利用されていない。
実際のところ、およそ使い物にならないのである。

─『人間この未知なるもの』渡部昇一訳 三笠文庫


{谷沢永一}
文明がこれほどまで飛躍的に発達しても、ただひとつまったく置き去りにされている
課題がある。ほかのあらゆる考え事とは比較にできない、最も重要な探究目標で
あるにもかかわらず、これだけは手もつけられず等閑にされている。すなわち、
人間性とは、何ぞや、という問題である。

いや、そのために文藝や哲学やのかたちをとって、それを究めようという努力が
なされたではないか、と答える人が少なくはなかろう。しかし、世界のあらゆる
地方で生み出された文化によって、人間性はより良い方向へ進んだであろうか。
サマセット・モームは『昔も今も』(サマセット・モーム全集13巻・新潮社)の
冒頭に、「変われば変わるほどますます同じだ」という箴言を掲げている。

人間性とは何か、それを教えてくれる文献はない。こればかりは、誰もが体験に
よって一から勉強するしか方法は、見当たらぬようである。

─『古典の知恵 生き方の知恵』古今東西の珠玉のことば2 
  谷沢永一著 PHP研究所より

人間性は、人間の本性のことだと思うがそうなると、文学や哲学だけではだめ
な時代になっていると思う。19世紀に出てきた進化論や、その後の心理学など
客観的であろうとする見方をより使っていかなければ本性は、見えてこないだ
ろうと思う。それにカントのときに霊的世界と、見える現世の世界を切り離して
哲学してしまった。霊的世界をカントは認めていたが考える範囲の外において
しまった。そのためにその後の思想家などは、分けてしまい、霊的世界を
忌み嫌うようになったと思う。現実には、霊をみたり、臨死体験など、まわりに
いろいろなデータがあるにもかかわらず研究しないようになってきた。
最近では、見直されたり、トランスパーソナル心理学など、霊的な部分を
研究されてもいるようだが。今後は、積極的に霊的世界も研究されなければ
ならない。それは、分析的でない科学の研究が期待される。ただし、心をもった
、徳のある人が研究しなくてはいけない。

トルストイへ──人がその自我を捨て去ることはできない

2016-07-24 19:25:01 | 知恵の情報
人がその自我を捨てさるのは、普通考えられているように、父や、息子や、友人や、
親切でやさしい人たちに寄せる愛の結果ではなくて、ただ自己中心の生き方の
むなしさと、自分ひとりの幸福の不可能とを認識したその結果に他ならない。
だから、、人は、自己中心の生活を否定した結果、真の愛を認識し、父や、息子や、
妻や子供や友達を、はじめて、ほんとうに愛することができるようになるのである。

愛とは、自分よりも─自分の動物的な自我よりも、他人をすぐれたものとして
認める心である。

─『人生論』米川和夫訳 角川文庫

{谷沢永一言}
晩年のトルストイはかなり思いつめていたから、自我を捨て去る、というような
はなはだ極端な論法に走った。しかし、この論法はむしろ願望であって、彼が
夢見た境地であるとも言えようか。或いは、比喩に類する説法かもしれない。
およそ人間が自我を捨て去るなんて、考えることもできないのだ。自我あってこそ
その人間なのである。人の世は自我の衝突であると見てとった彼が、自我こそ
人間社会における不幸の根源であると考えたのも無理はない。論理をつきつめ
ればそうなるだろう。

しかし、われわれは現実に即して思案しなければならない。問題は、自我の
衝突を、可能な限り、自我の調和へ導く工夫であろう。己れの欲せざるところは、
人に施すことなかれ(「論語」二百八十章)と、現実主義者の孔子は、諭した。
われわれの自我は、すべての他人をすぐれた者として認めることなどできない。
通常人に可能なのは、他人の自我を尊重して冒さない自我なのではあるまいか。

─『古典の知恵 生き方の知恵』古今東西の珠玉のことば2 
  谷沢永一著 PHP研究所より

ここで以前に紹介した、高橋信次氏の自我の説明を思い出して考えてみると参考
になると思う。谷沢氏と同じように自我は本来の自分であり、なくなるものでは
ないように説明されている。自我の性質が変わるだけである。トルストイは
論理で考え、突き詰めていった。論理の欠点がでる形になった。分析していくだけ
だからそうなった。類比といって他との比較などをしたり、分析を総合させて
全体を俯瞰することをしてみればよかったのではないか・・・
分析して自我を不幸の根源としたから、捨て去ればよいとなってしまった。
いろいろな例を比らべてみていくようにすると高橋氏のように自我のいろいろな
状態が見えて来る。儀我、善我、真我という捉え方だ。
自分中心の生き方は、自我の偽の状態。
自分ひとりの幸福の不可能を認識した状態は、善の我だ。
そして、この他者をすぐれた者として認める先に真我がある。相手と自分が
一つのものと感じる大我とよばれるものだ。
トルストイは、自己中心の生き方のむなしさに気づいた。この段階で、善なる
自我にはめざめたといえよう。




人間の値打ちは何によって判断すべきか──ラ・ロシュフコー

2016-07-23 18:00:54 | 知恵の情報
或る人間の値打ちは、彼の大きな長所によって判断すべきではなく、彼がその
長所をいかに用いているかに従って判断すべきである。


─『箴言と省察』市原豊太、平岡昇訳「世界教養全集2」平凡社より

人の気持ちを察するというのも長所、短所があるだろう。すぐに相手の気持ちが
わかる人と、どうしてもわからず、違った話になったり、そこへ集中できない人もいる。
察することのできる人は、先生や医者になったり、カウンセラー、なってほしいもので
ある。
父がかかっていた医者で、薬をあまりに多く出すので、それを相談したら、「じゃもう
私は見ないぞ来なくていい」と脅してきた医者がいた。私は、あきれてしまった。
実際に薬は多いし、医原病という問題もある。先の記事で紹介した先生は、薬の飲みす
ぎを心配している。当然、減らすなり、うまく、説得するなりが必要なのにそうではなかった。
これは、この医者が医者になる資質があってもその長所を生かしていないという
ことだ。医者になれたのは、やはり、その方の長所があったからだろう。しかし、人間
性を養うことができていない状態のままだった。

短所、長所は、どちらも、自分の個性であり、短所もうまく、使えば長所になると
言う教えもある。
たとえば、自分が何事にも心配性で、びくびくしているとする。車の運転を考えて
みると、堂々と自分の運転に自信をもつことより、この欠点の心配性をうまく使って
車は、凶器にもなる、だからたえず、人を傷つけないか、気おつけるようにびくびく
する気持ちを人への安全のために向けていく。自分の欠点を責任においてすると
変えていけるのではないか。私の場合、車に乗るときは、緊張している。人を
傷つけないか、事故をおこさないか、いつも念頭にある。車が大好きな人にとっては
なにいっているんだ、と憤慨するかもしれないが。

谷沢永一氏は、吉田松陰を例に出して、彼は、謙遜家でありながら強烈な自尊心の
持ち主であり、それが無類の人へ感化力を発揮できたといい、「長所を生かす方途の
手探りが人生の秘訣であろうか」とおっしゃっている。




絶対に比較できない美しさ──丸山応挙

2016-07-22 18:09:07 | 知恵の情報
 

四条派の画祖丸山応挙のところへ、ある富豪の隠居が訪ねて来て絵を依頼した。
それは子孫へつたえる家宝の名画にしたいので、世の中で一番美しいと見られる
構図や色彩にしてくれ、というのである。

応挙は熟考の上引き受けることにし、老人の急ぐまま絵の完成を、三ヶ月と期限を
決めた。その約束の三ヶ月が来たので老人は絵ができているものと思って応挙を
訪ねると、絵はまだ主題も構図も決まっていなかった。なお三ヶ月の猶予が求め
られた。しかし次の三ヶ月が来ても絵は出来ず、さらに三ヶ月延期されたが絵はでき
ない。老人はついに怒りだした。

「私は本年七十八歳になります。もはや余命いくばくもないのに、生きている内に
絵が見られないようでは困る」と強硬な申し入れをした。応挙はなだめて、あと
三ヶ月待ってくれ、必ず仕上げる、と固い約束で、老人はようやく帰った。

依頼してからちょうど一年ぶりでその名画ができた。老人は応挙からそれを見せ
られたとき、自らの目をうたぐった。その絵は色彩も平凡だし決して美しい、という
絵ではなかったからである。柿の木の下の石に腰かけた百姓の女房が、子どもに
胸をはだけて乳をのませている、という構図なのである。

応挙は、老人の不満な顔色をすばやく読みとると、絵の意図を説明した。美しさ
というものは、比較するものがあるから美しいので、今美しくてもそれ以上に
比較される美しさが出れば美しくなくなる。そこで絶対に比較できない美しさ
として、仕事着姿で乳を飲ませている母親、母性愛を描いたのであるといった。
老人は、この説明に満足した。近代彫刻の巨匠ロダンに「労働している女性
ぐらい美しいものはない」という意味のことばがあるが、全く美を見る眼は
東西相通ずるものがある。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より

絵のテーマというのも名画が出来上がるのに重要だろう。不変な人間の喜怒哀楽の
生き様は永遠のテーマにちがいない。
現代絵画は、抽象の中にテーマを求めるが昔は、人の生き様がテーマであった。
私は、ムンクの絵は、ほとんど好きではない。異常ではないかと思う。そうずっと
思っていたがあるとき一枚の絵に衝撃を受けた。
その絵が心に残り離れなかった。人間の生き様が素直に捉えられていたからだと
思う。
その絵は、結核で命がもうないベッドにいる娘(姉)のそばで母が首を垂れている。
娘のことを悲しんでいる姿を写しとったような絵だ。絵の技術もうまくない、でも
静かに眺めてその状況を思うときその悲しみが伝わってくる・・・
自分の気持ちを悲しみをただ無心に表現しているようだ。
彼の生い立ちをみれば生き方、作品の奇妙さはある程度同情できる。
不安と狂気のなかに生きたが後半は元気にもなっている。でも、そのころの絵も
私は好きではないが、この「病める子」の一枚は、今も私の心に残る作品だ。

 




幸運を招く力をいかに呼び込むか──日野原重明

2016-07-21 18:17:14 | 知恵の情報
東京大学名誉教授の小柴昌俊さん、島津製作所の田中耕一さんノーベル賞受賞は、
久しぶりに聞く明るいニュースでした。2000年度から3年連続となった自然科学の
分野での日本人受賞者の「発見」「発明」にいたるストーリーは、いずれも痛快で、
どことなくユーモラスで、心をひかれます。

2000年度受賞者の白川英樹さんの発見は、触媒の濃度をまちがえた失敗作から
生まれたといいます。その翌年度の野依良治さんの場合は、専門とは別の分野の
実験中に起きた偶然の発見であったそうですし、「寝耳に水」の受賞とおっしゃった
田中耕一さんも、専門家からは非常識とされる研究を失敗のうえに失敗を重ねた
末に大発見できたと聞きました。

いずれも偶然の賜物です。大発見につながる偶然に出会えたのは、受賞者たちが
だれにもまして運がよかったからでしょうか。もちろん運も大いに味方したでしょうが、
彼らには「セレンディピティ」(serendipity)があったのです。

セレンディピティとは、「求めずして思いがけない発見をする能力」とか「掘り出しもの
上手」のことです。英米では以前から知識人のあいだで使われていたことばですが、
最近は、日本でも科学者たちの談話のなかに聞く機会が多くなりました。

セレンディピティは、古くペルシャに伝わる「セレンディップの三王子」の物語を読んだ
18世紀の英国の作家ホレス・ウォルポール(1717~97)が、「予期せぬ幸運」を
言い表すのにつかい始めたことばとされています。セレンディップとは長らくセイロン
と呼ばれた現在のスリランカの国の名で、この童話は、セレンディップの王子たちが
旅をしながら、偶然と彼らの明敏さによってさまざまな困難を乗り越え、多くの発見を
し、船出の時には予想もしなかった貴重な体験を載せて帰国したというストーリー
です。

科学の大発見の裏には、いつもセレンディピティが隠されています。

ペニシリンという抗生物質は、実験中に培養基に混入した青カビに、英国の細菌
学者フレミング(1881~1955)がふっと目を留めたからこその発見でした。カビ
の生えた培養基はおそらく彼が目に留めるまで、実験の失敗の一つとして多くの
研究者によって、またフレミング自身によっても数知れずただ洗い流されていたこと
でしょう。

また、ニュートン(1642~1727)の発見にしても、リンゴが木から落ちる様子を
目撃した人は数え切れないはずですが、そこから万有引力の法則を導きだせたのは
彼だけです。

フランスの細菌学者パスツール(1822~95)が
「幸福は備えある人にだけ恵む」
と言っているように、準備のないところに幸運な偶然は現れません。「ひらめき」
ということばや、「棚からぼた餅」ということわざの裏には、大事な偶然を見逃さない
アンテナとそれを待ち受ける受け皿であるレセプターの用意が欠かせないという
メッセージが実は隠されているのです。幸運な偶然を招き寄せる力には、やはり
周到な準備が必要なのです。

─『続生き方上手』日野原重明著 ユーリーグ株式会社刊より

「予期せぬ幸運」は科学者だけでなく、ごく普通の人にもあると思う。
そんな、大げさなことではなくとも、自分にはっとする出来事だ。
自分がわからなかった、考え方がふっとわかるときがきたり、あのときに人に
迷惑をかけていたことがどうしてか、ふっとわかったり。日野原先生は、周到な
準備が必要、とおっしゃっているが、生き方がやはり、大事だと思う。
人生に対して真摯な生き方をしていなくてはならないだろう・・・

自然の法則を見習う生き方

2016-07-20 19:07:32 | 知恵の情報
人間が自然の法則を見習った調和の形とはどういうものでしょうか
それは、互いに迷惑を掛けない、個人の自由と人格を尊重する。
感謝を忘れず、必要であれば悪びれずに謝罪をする。
つねに誠意と義務と責任感を持って対し、互いの和を図る。
必要があれば進んで助け合う。
そして、お互いの望むところ、喜ぶところのものを賢明に判断して与え、なす。

それが人間としての宇宙や自然に習った調和の形であり、愛という捉え
難い言葉であり、観念を正しく表現した形なのです。

─『天国の扉』たま出版(エル・ラファルライエルより)


宇宙の一部である人間は、お互いに助けあい、身を供して他のものを生かしている
植物や動物、あるいは、恒星と惑星間のつながりにもみられる大自然の法則を
無視して勝手な行動に出るのは許されないという意識。

また、ブッダがおっしゃっている、宇宙と個人は同じものである。同じ法則に従った
生まれ変わりを永遠に繰り返すものである。科学では、物質不滅、質量保存の法則
という。これを魂を物質にみるとあてはまり、これを転生輪廻とする。

太陽があらゆる物に変わりなくその光と恵みを与えるように人間の心も慈悲の心で
満たすべきだと悟る。

自然の法則から、人間は階級の差別をなくすために、人々はお互いを尊敬し合って
正しい判断のもとに中庸の心で生きていくべきである。

万物の霊長である人間は、自然界で行われている相互保存、共存共栄の法則を
破壊してはならない、むしろその範となるべく、人間間の相互保存、共存共栄を
もう一度考えて見なければならない。

こういったことをふまえた結果上記の自然法則に見習う調和の形を出している。 


交際を長続きさせるための工夫をする人はほとんどいない──ラ・ロシュフコー

2016-07-19 19:01:23 | 知恵の情報
交際というものがいかに人間に必要なものかは言うまでもあるまい。
誰もがそれを望み、それを求めているからだ。しかし、交際を楽しいものにし、
長続きのするものにしようと色々工夫する人は殆どいない。
(『箴言と省察』市原豊太 平岡昇訳「世界教養全集2」平凡社)

  ★   ★   ★   ★   ★   ★   ★

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間関係をひとくちに交際と呼ぶとするなら、世にはいかにも交際上手なタイプも
あれば、見ていて気の毒に思えるほどの交際下手も少なくない。この場合、交際
下手はほとんど必ず臆病である。相手になにか言おうといちおう心を動かしても、
いやこんな平凡な話をして哂われはしないかと案じて口を閉ざす。

この窮地から脱出する方法はただひとつ。哂われてもよいと覚悟を決める決断
である。人間は恥をかくごとに成長するものだという鉄則を忘れてはならない。
口惜しい思いを何回も経てこそ、人は一応の交際家になれるのだと、腹を決めて
かかったら気が楽になる。

─『古典の知恵 生き方の知恵』古今東西の珠玉のことば2 
  谷沢永一著 PHP研究所より


人は、自分のことしか考えていないのが普通であり、こちらから、いろいろ工夫しても
相手が合わせてくれないのが当然に思える。たまに、時間があき、お互いに
会ってもいいかなという状態がでてきたとき会えるようだ。仕事などの用事の必要性
からは、いくらでも会うことは、できるが、こころをかよわせるような会い方はなかなか
できるものではない。そこに友達というものが存在するのだろう。イエス・キリスト
は、その友の状態の人間関係をとらえ、「その友のために命を捨つ、これより大いなる
愛はなし」と説いた。親子の愛でなく、男女の愛でなく、「友の愛」の関係性を重要視
した。友の関係性は、どういうものだろう。感情、知性、理性の調和した状態か・・・


真の哲人とは、人類に対して最後の愛を蔵している人──メーテルリンク

2016-07-18 19:53:18 | 知恵の情報
物を知っているという人でも、愛の力が自分のものになっていない限り、その人は
何も知っていないと同然である。しかし、真の哲人なるものは、物を見る人間では
なくて、最も遠いところは見ながらも、つねに人類に対して最後の愛を蔵している
人なのである。愛なくして物を見る人は闇の裡に目を見張っているに過ぎない。
(『智慧と運命』メーテルリンク 鷲尾浩訳 『メーテルリンク全集第一巻』)

メーテルの名前にアニメの銀河鉄道999を思い出してしまう。
999も面白かったが、 ここでの愛は、当然、無償の愛だ。
宮沢賢治の銀河鉄道の夜のテーマもカンパネルラがザネリの死をとおしながらこの愛、
自己犠牲の愛に気がつくかどうかということが書かれている。銀河鉄道の旅の途中で
それに気がつき天上界へ旅立つことになる・・・

  ★  ★  ★  ★

参考(http://hirabayashi.wondernotes.jp 雑学界の権威・平林純の考える科学より)
実は、カムパネルラ(トンマーゾ・カンパネッラ)の名前は、ジョバン・ドメーニコ・
カンパネッラ Giovan Domenico Campanella でした。トンマーゾというのは、後に
修道士になった時に付けた聖職者名です。つまり、カムパネルラの名前はジョバン(ニ)で、
ジョバンニは、カムパネルラでもあったのです。

宮澤賢治「銀河鉄道の夜」は、「少年ジョバンニ*が、灯籠流しが行われた夜に丘の上
から銀河鉄道に乗り、級友カムパネルラと天空の旅をする。丘の上でジョバンニが
ひとり気づくと、カムパネルラは川で人を助けた後に行方不明になったということを知る」と
いう話です。

 主人公の級友であり、(亡くなった時に)主人公と銀河鉄道を共に旅をしたカムパネ
ルラの名前は、イタリア・ルネッサンス時代の哲学者「トンマーゾ・カンパネッラ**
Tommaso Campanella」からとられている、と言われています。宮澤賢治が盛岡中学(現
・盛岡第一高等学校)と盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に在学していた頃、
大西 祝 著「西洋哲学史」(初版は明治36年)を読み、そこに書かれていた「カンパ
ネッラ」に強く惹かれ、銀河鉄道の夜の「主人公と別れ・亡くなった級友」の名前をカ
ムパネルラとした、というのです。

*ジョバンニという名前は、宮澤賢治の「ひのきとひなげし」にも「セントジョバンニ」として
登場しています。
**カンパネッラは強い信仰と自然に学ぶ科学を指向する矛盾を抱え、宮澤賢治自身を
彷彿させます。ちなみに、カンパネッラは71年の人生中の32年を監禁・幽閉で過ごし
ました。その中のいくばくかは、第2次ガリレオ裁判でガリレオの弁護をしたため、
という人です。(平林純)

  ★  ★  ★  ★

ジョバンニとカンパネルラが同じ人だったというのは、面白いエピソードだと思う。
宮沢賢治は霊的に目覚めていた人だったので、なんらかのイデア世界からの示唆を
受けたのかもしれない・・・

生涯の一瞬間にすぎない思想──ロマン・ロラン

2016-07-17 19:43:38 | 知恵の情報
われわれの思想のおのおのは、生涯の一瞬間にすぎない。
もし、生きるということが、自分の誤りを正し、偏見を征服し、思想と心とを
日々に拡大するというためでないならば、それは、われわれに何の役に
たとう。待ってもらいたい。たとえわれわれに誤りがあろうとも、しばらく
許してもらいたい。われわれは、自分で誤りがあるべきことを知っている。
そして自分の間違いを認めるときには、諸君よりも、もっときびしくそれを
とがめるであろう。われわれは毎日多少なりとも、さらに真理に近づこうと
勤めているのだ。(ジャン・クリストフ)

ロマン・ロラン(1866~1944)文学者。第一次大戦当時から反戦
主義を守りとおし、自由の友として多くの小説、評論を書いた。
代表作『魅せられたる魂』

─『一日一言 -人類の知恵ー』桑原武夫編 岩波新書から

しっかりした小説は、作者の哲学が入り、難しい哲学書を読むより
参考になる。主人公や、物語を自分のものとして仮想現実のなかで
考えてみることができるから。

反省の目的

2016-07-16 18:34:39 | 知恵の情報
反省は自己を見つめる内向的な作業です。内向的な作業を急に徹底させようと
しますと、神経が緊張し、主観的にも客観的にも暗くなる傾向が出てくるでしょう。
ことに、ふだんから内向的な人は、神経が鋭敏になり、日常の行動をいちいち
チェックするようになり、動きが取れなくなってくるでしょう。そこで、こういう方は、
楽な気持ちで、ゆっくりと、三日に一度とか、週に一回まとめて一週間のできごと
を振り返るのもいいし、また、一つのテーマにしぼり、反省するようにしてはと
思います。

また、反省して気持ちが暗くなったり、行動が消極的になるのは、調和の理念
をまだほんとうに理解していないからであり、また、練習不足であったり、自分
では気づかないが、心のどこかに、あせりや欲望、ものに執着する何かがある
からであります。これは良いことだと考え、それに執着し、そのことしか頭に
ない、というのも狂信、盲信につながってくるでしょう。

反省の目的は、まず、ものの真実を知ることです。ものの真実がわからないから
迷いや苦しみがついてまわるわけです。したがって、ものの真実を知る努力を
するのに、どうして気分が悪くなったり、行動が消極的になるのでしょうか。
そういうことは本来、あり得ないことです。しかし、実際にはそういうことが多い、
ということは反省の目的がちがっており、なにかの欲望に心がとらわれている
からといえるでしょう。
もう少し、気を楽に持って反省してください。
─『心の対話』高橋信次著 三宝出版抜粋、参照

自分のなかの偽我を発見したら、すぐさまそれを反省し、次の機会から、同じ
ような心の状態や行動をなくすのです。つねに行為において、反省し、改める
こと。
─『天国の扉』たま出版 高橋信次の章より参照

反省するときに八正道の項目をチェックリストにするとよいのではないか。
正見、正思、正語、正業、正命、正進、正念、正定、という項目を一つ一つ自分の
行為は、どうだったか、当たってみる。必ずどこかにひっかかって見えて
来るものがあると思う。自分中心だったか、他人のことを考えたか、
思いつく原因をとらえていくことからがいいのではないか・・・


知性が単独で意志につながると、冷酷な人間になる──自我の自覚

2016-07-15 18:22:55 | 知恵の情報
自我という言葉は非常に抽象的で誤解をまねきやすい。したがって、これを
偽我、善我、真我の三つに区分して考えた方が理解が早いようです。
しかし、その前に、通常、自我といわれる意識は、他の対象と区別して意識される
自己であります。つまり、他人と自分の関係の中で、はじめて自分が意識される
自分です。その意味で、生まれたばかりの赤ん坊は、まだ自我の意識にめざめ
ていません。三月、半年とたって、はじめて親と自分、つまり、周囲の対象の
なかで、自分の存在を自覚するわけです。

さて、そこで、自我のなかの偽我は、対象のなかの自分をより強く意識し、
このため自己本位に流れ、自分中心に生活してしまう自分であります。俗に、
エゴともいい、他人の幸を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分
です。小さな自分しかわからないと、不安動揺が絶えず、心の中は苦しみ
に満ちてきます。なぜなら、心が小さければ小さいほど、ものがよく見えず、
ものの判断が自由にできないから、いつも問題にぶち当たり、悩みます。

善我というのは、、この世の中は自分一人では生きてはいけない、みんなと
手をとり合い、愛に生きなければならない。各人めいめいが勝手なことをいって
生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の相互作用の
関係の中で生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首を自分
がしめてしまうことがわかります。助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方
こそ、自分を生かし、みんなを生かすことだと理解する自我です。すべからく
人は、こうした愛にめざめ、相互関係のなかで、他を生かしてゆくことです。
これからはずれると、そのはずれた分量だけ自分が苦しむようになって
います。

真我は、こうした相対の関係から離れて、人と自分とは本来一つのもので、
別々ではない、現われの世界では別々でも、神(宇宙)の子としての心は一つ
であり、そうして、すべての万物は、神(宇宙)の心の中で生かされ、生きている、
という自覚の自我です。この場合の自我は、大我というものであり、
慈悲と愛一筋に生きるものです。宇宙即我、それは、真我の現われです。

さて、それでは、これらの自我は、心の領域のどの部分に当たるのでしょう。
心の領域である本能、感情、知性、理性の機能が、単独で意志につながる
時、偽我にとなって現れます。

感情が単独で意志につながれば、たとえば怒りに燃えた感情が爆発し
行動となって現れるため、破壊につながってゆきます。


知性が意志につながると、冷酷な人間になります。

善我の自我は、反省によって自覚されます。そうなれば、各人の想念の
動きは、感情から意志につながる単独行動とはならず、想念は各領域に
万遍なく作用し、愛の行為として現われます。ですから、まず、私たち
の心は、反省によって偽我から善我に移行すれば、正しい生活が約束
されてきます。つまり、安らぎのある生活ができてくるわけです。
まず、あなたも、善我の自分に目覚めるよう努力してください。

─『心の対話』高橋信次著 三宝出版抜粋、参照

知り合いで離れていった人の中に「冷たい人だな」という感じを受けたことがありますが
やはり、知性を重視している人でした。論理的な考えを基準においているようで
科学を絶対視しているように見えました。ずいぶん科学を勉強してきたのでしょう。
しかし、科学の論理自体に愛情などないのですから、それを自分の信条にしていれば
当然冷たくなります。ここでは、「反省」が一方づく意志の方向を防ぐと言っています。
その方も、仕事が終わり、自分を取り戻したとき反省をしてみてほしい・・・
人間の一番大切なことは、「信」だと思います。人を信じることは、論理ではでき
ません。そこには、自分を犠牲にする愛がなければなんともなりません。


宇宙が人間をおしつぶすときも、人間は彼を殺すものよりも高貴で あろう──パスカル

2016-07-14 18:18:42 | 知恵の情報
人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最も弱い葦にすぎない。
しかし、それは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する
必要はない。ひとつの毒気、一滴の水も、これを殺すに十分である。
しかし、宇宙が人間をおしつぶすときも、人間は彼を殺すものよりも高貴で
あろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことを、宇宙が力において自分にまさる
ことを、知っているからである。宇宙はそれを知らない。だから、われわれの
品位はひとしく、考えるということにある。・・・それゆえよく考えることに
努めよう。そこに道徳の原理があるのだ。(パンセ)

─パスカル(1623~1662)フランスの哲学者。人間存在の矛盾を解決
 しうるものはキリスト教のみと覚って、学問を捨てて修道院に入った。
 実存主義の祖とされる。
 『一日一言 -人間の知恵ー』桑原武夫著 岩波新書より

この世がすべて自然法則の中に収められている。それを知りえるのは
人間のように進化した生物だけだろう。また、同じように進化した宇宙人にも
同じレベルのものがいるにちがいない・・・
自分の限界を知りながらそれについて考えることができる。相当のレベル
まで人間は進化しているのだろう。しかし、共存共栄の厳粛さを生きる
基本にすべきなのだ、という自覚までは、至っていない。
至っていれば、地球上の争いや、自然破壊などはないはずであるから。
ここでは、パスカルは一つの提起をしていると思う。
人間は自然法則に従わなければならないが、ただ従っているだけでなく、
考えることができる、といっているのだ。それは、限界を感じながらも
まだ、自然法則について考えつづけていけるということである。
どうとらえて、どう利用していくか、それは、無限の工夫ができるはずだ。
自然法則に支配されていると思っているだけでは、人間の発達してきた
意義がなくなるとイデア界のある方は、そうアドバイスしている・・・





(エル・ビルナビルカンタルーネ─イエス・キリスト─パスカル─ホイヘンス/
 アンドレ・ジイド)