ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

知性が単独で意志につながると、冷酷な人間になる──自我の自覚

2016-07-15 18:22:55 | 知恵の情報
自我という言葉は非常に抽象的で誤解をまねきやすい。したがって、これを
偽我、善我、真我の三つに区分して考えた方が理解が早いようです。
しかし、その前に、通常、自我といわれる意識は、他の対象と区別して意識される
自己であります。つまり、他人と自分の関係の中で、はじめて自分が意識される
自分です。その意味で、生まれたばかりの赤ん坊は、まだ自我の意識にめざめ
ていません。三月、半年とたって、はじめて親と自分、つまり、周囲の対象の
なかで、自分の存在を自覚するわけです。

さて、そこで、自我のなかの偽我は、対象のなかの自分をより強く意識し、
このため自己本位に流れ、自分中心に生活してしまう自分であります。俗に、
エゴともいい、他人の幸を考えず、自分だけのことしか思わない、小さな自分
です。小さな自分しかわからないと、不安動揺が絶えず、心の中は苦しみ
に満ちてきます。なぜなら、心が小さければ小さいほど、ものがよく見えず、
ものの判断が自由にできないから、いつも問題にぶち当たり、悩みます。

善我というのは、、この世の中は自分一人では生きてはいけない、みんなと
手をとり合い、愛に生きなければならない。各人めいめいが勝手なことをいって
生活しているが、ものの裏側を覗くと、実は各人は、人々の相互作用の
関係の中で生きており、自分本位に生きることは、結局は自分の首を自分
がしめてしまうことがわかります。助け合い、補い合い、話し合う愛の生き方
こそ、自分を生かし、みんなを生かすことだと理解する自我です。すべからく
人は、こうした愛にめざめ、相互関係のなかで、他を生かしてゆくことです。
これからはずれると、そのはずれた分量だけ自分が苦しむようになって
います。

真我は、こうした相対の関係から離れて、人と自分とは本来一つのもので、
別々ではない、現われの世界では別々でも、神(宇宙)の子としての心は一つ
であり、そうして、すべての万物は、神(宇宙)の心の中で生かされ、生きている、
という自覚の自我です。この場合の自我は、大我というものであり、
慈悲と愛一筋に生きるものです。宇宙即我、それは、真我の現われです。

さて、それでは、これらの自我は、心の領域のどの部分に当たるのでしょう。
心の領域である本能、感情、知性、理性の機能が、単独で意志につながる
時、偽我にとなって現れます。

感情が単独で意志につながれば、たとえば怒りに燃えた感情が爆発し
行動となって現れるため、破壊につながってゆきます。


知性が意志につながると、冷酷な人間になります。

善我の自我は、反省によって自覚されます。そうなれば、各人の想念の
動きは、感情から意志につながる単独行動とはならず、想念は各領域に
万遍なく作用し、愛の行為として現われます。ですから、まず、私たち
の心は、反省によって偽我から善我に移行すれば、正しい生活が約束
されてきます。つまり、安らぎのある生活ができてくるわけです。
まず、あなたも、善我の自分に目覚めるよう努力してください。

─『心の対話』高橋信次著 三宝出版抜粋、参照

知り合いで離れていった人の中に「冷たい人だな」という感じを受けたことがありますが
やはり、知性を重視している人でした。論理的な考えを基準においているようで
科学を絶対視しているように見えました。ずいぶん科学を勉強してきたのでしょう。
しかし、科学の論理自体に愛情などないのですから、それを自分の信条にしていれば
当然冷たくなります。ここでは、「反省」が一方づく意志の方向を防ぐと言っています。
その方も、仕事が終わり、自分を取り戻したとき反省をしてみてほしい・・・
人間の一番大切なことは、「信」だと思います。人を信じることは、論理ではでき
ません。そこには、自分を犠牲にする愛がなければなんともなりません。


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