ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

ちょっとした迷いでも    菜根譚 前集86

2016-10-31 17:39:00 | 知恵の情報
自分の心が私利私欲に走りそうだと気づいたときは、すぐに正しい道に引きもどさ
なければならない。迷いが起こったらすぐそれに気づき、気づいたらすぐ改める。

こうあってこそ禍を福に転じ、死を生に換えることができるのだ。ちょっとした
迷いだからといって、決して見過ごしてはならない。
(菜根譚 前集86)

■『老子』に、「いかなる難事であろうと、その発端はつねに単純な問題にすぎず、
 いかなる大事であろうと、その発端はつねに些細な事件にすぎない」とある。
 発端のうちにくいとめてこそ、大事を招かずにすむのである。

─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より

これは、以前にも紹介したが、偽我を発見したときと同じ場面である。
偽我というのは、自己本位の自分の姿がでている、他者意識の薄い状態の我
である。これは、反省によって直ちに改めるようにするのである。
「自分のなかの偽我を発見したら、すぐさまそれを反省し、次の機会から、同じ
ような心の状態や行動をなくすのです。」といわれている。
簡単なことのようであり、自分についたくせはなかなか改められない。少しづつ
この反省を繰り返し、善我の自分へ向かおう・・・

功績や学問はなくとも    菜根譚 前集183

2016-10-30 17:25:21 | 知恵の情報
功績を誇り学問をひけらかす人々は、人間としての価値を外面にだけ求めている。
本来そなわっているまことの心さえ失わなければ、たとい功績や学問がなくても、
それだけで立派な人生が送れることを理解していない。
(菜根譚 前集183)
─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より

人は、生涯をかけて晩年にこのことにようやく気がつくのではないか・・・

何が正しい生き方か・・・

2016-10-29 17:24:55 | 知恵の情報
庭の落ち葉をはけ、という住職の命で懸命に箒のあとを立てているものの、はいた
あとから落ち葉は落ちてくる、それに時雨が段々ひどく、いいかげん頭も上着も
ぬれた。この男は医者である。妻子に死なれ無常を感じ僧侶になりたいと頼み
に来たので、住職は断った。しかしたっての頼みに、では、わしの言うことに
絶対服従するか、いたします、というので、いま庭はきを命じられたのである。
医者がずぶぬれになって大ぎそうなので住職はようやく中止を命じた。

そして「わかったか!」とどなった。だが、医者には寒さが肌にしみるだけで何が
何だかわからない。「お前がいくらはいても、落ち葉はあとから、あとからと
落ちてくる。それと同じように、坊主になったからとて、お前の心の塵が清め
られるわけではない。お前は医者だから、我を無にして、人に奉仕することに
生きがいを見出しなさい。寺へはいって鐘をたたいたとて、それで救われると
いうものではない」
といって住職はさとした。医者は成る程とそれに従い、新しい人生を見出した。

神戸に須磨寺といいう大寺院がある。その境内の大師堂の前に句碑が建って
おり、その句は、
「こんな好い月をひとりで見て寝る  放哉」
とある。自由律の俳句で、尾崎放哉の名句の一つである。

明治のむかし、華厳の滝へ投身した哲学青年藤村操は放哉と一高で同じ
クラスであった。放哉は帝大法科を卒業すると、ある保険会社へ就職し、支店
長になった。やがて重役が約束されようとする出世を前にして、彼はウソと
非人情の娑婆にあいそをつかし、藤村操と同じ覚悟で妻子を捨て、無一物
中無尽蔵の境地を俳句に生きた。
「師走の夜の釣鐘鳴らす身となって」彼は寺男で終わった。これも一つの人生。

─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より

どんな場合でもソクラテスが言われるように、「ただ生きるのではなく、よく生きる」
ようにと思う。それをみつめていると、自分の方向性は見えてくるに違いない・・・

ハイエク 人間の知力など頼むに足らない    渡部昇一

2016-10-28 17:04:00 | 知恵の情報
オーストリア生まれの経済学者であるフリードリヒ・A・ハイエク教授(1899~1922年)
がノーベル賞を受賞した時の記念講演があります。そのときのタイトルがThe Pretence
of Knowledg.
Pretenceとは「ふりをすること」で、Knowledgeとは「知っていること」。
要するに分かっているという自負、しったかぶりという題でした。

講演の内容は、人間の知力には限りがあるのに、分からないことまで知ったかぶりを
するのが社会主義だというものでしたが、この講演を社会主義に対する批判とだけとらえ
る必要はないと思います。むしろ、私たちにとって大切なのは、ハイエク先生の思想の
基本にある、「常に"知の驕り”を慎む」という謙虚な態度です。先生の思想を言い換えると、
「人間の知力など、頼むに足らない」ということを知った上で、人々は努力しようというもの
なのです。

このハイエク先生の思想の根源には、私は18世紀のイギリスの哲学者・ディビッド・ヒューム
(1711~1776年)の思想があると思います。イギリス最大の哲学者と言ってもいいと
思われるヒュームは、人間の知力にはどこか欠陥があるというところに行き着いた哲学者
です。

ヒュームの話をする前に、ここでギリシャ哲学の時代から思考の命題として出され続け
手いる有名な「ツェノン(ゼェノン)の逆理」を紹介しましょう。ツェノンは紀元前5世紀の
哲学者で、弁証法の祖とも言われる人ですが、これは彼が提示したアキレスと亀の
逆説の話です。中学の数学の時間に習われた人も多いはずです。その命題はこういう
ものです。

「足の速さで有名なアキレスの前を亀がノロノロ歩いている。亀を追い越そうとして、
アキレスが亀のいた地点まで行くと、すでに亀はその前を歩いている。そこでアキレス
がさらに先にいる亀の地点まで行くと、またまた亀はその前を歩いている、以下、アキレス
と亀の距離は分けることができないほど小さな単位になりますが、アキレスが追いついた
と思えば数ミクロンでも亀は先を行っていることになる。つまり、理論的に考えれば アキレス
は永遠に亀に追いつくことができない」という命題です。

このほかにも哲学的な命題はいくつもありますが、ヒュームはこの種の命題を考えに考え
抜いた結果、「人間の知力にはどこか欠けたところがある。頼むに足らず」という結論
に行き着いたわけです。(続きは、次回・・・)

─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)
  「不確定性原理の意味」より・・・

シュヴァイツァー 生まれてきたことへの責任と使命     日野原重明

2016-10-27 17:24:24 | 知恵の情報
 

じぶんが生きていることのありがたさ、かけがえのなさに気づくことができたとき、
ともに生きるすべての人々、生きもの、自然に対しても、ありがたさと愛しさが
あふれてきます。それは人だからこそ味わえる、人として生きることの大いなる
恵みです。

晩年にノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァー医師(1875~
1965)は20代であったある朝、鳥たちのさえずりを聞きながら、ふとこの
幸福感を独り占めしている自分を自覚して、申し訳ないという思いにかられ
ました。すでに神学校教授の職につき、パイプオルガンの名演奏者でも
あった彼はこうして転向を思い立ち、30歳でドイツのストラスブルク大学の
医学部に入学します。38歳で卒業した翌年、赤道直下の、フランスの殖民
地ランバレネに渡り、密林の医師としてその後の生涯を捧げました。
シュバァイツァーは自らの使命を、朝の幸福感への感謝をきっかけにして
見定めた人でした。

生まれてきたことによってかかわりをもったこの世で、私という存在にどんな
意味を与えるか、どんな使命を課すか、という問いを発見できたとき、人生は
本当の奥深さを見せ始めるのだと思います。

はじまりは、命への感謝から、生きていることに感謝できるやわらかな心を
もち続けたいと思います。

─『続生き方上手』日野原重明著 ユーリーグ株式会社刊より

 



(レイナ・エル・カンタルーネ──シュヴァイツァー)

あいさつの声は自分への呼びかけ    日野原重明

2016-10-26 16:30:13 | 知恵の情報
あいさつは人間関係を円滑にしてくれることばですが、それは同時に自分自身への
呼びかけでもあると私は思っています。あいさつをするたびに、自分がこの世に
生まれ、そしていまを生きていることへの感謝の気持ちを呼び覚まされる瞬間に、
私たちは出合うのです。

生きている実感をつねにもち続けていることは誰にもなかなかできません。
健康のありがたみを知るのは、たいてい自分が病気をしてからです。また、
愛する人の死に直面してはじめて、私たちは命のはかなさを知り、同時に、
この世に生をうけていることの奇跡にも近いありがたさに気づくものです。
ところが、一度は知ったはずのそのいのちのありがたみでさえも、ついつい
忘れていくのが私たちの常です。

そのようにいたらない私たちに、あいさつの声は日に何度となく小さな刺激を
送っていると言えるでしょう。すべてのあいさつのことばは、
「生きています。ありがたいことです。」
と翻訳することのできる、自分自身への呼びかけの言葉だと言ってもいいかも
しれません。

心が病み、すさむときほど、口にするのも億劫なあいさつをこころを込めて
声に出してみてはどうでしょう。たとえ周りにそのあいさつを受け止めて
くれる人がなくとも、目覚めれば「おはよう」と言い、食事の前に「いただきます」
と声にだしてみる。その発声の効用は想像する以上に大きいだろうと思い
ます。声にうながされた行動のおかげで、私たちの頑なな心が解きほぐされ、
感謝の思いが湧いてくることもあるでしょう。

また、ひもじさを知らないいまの子どもたちに、食べられることのありがたさ
を実感させるのは難しいかもしれませんが、「いただきます」と手を合わせる
習慣のなかで子どもたちを育てるならば、子どもたちには「近づく機会」という
ものが与えられ続けます。飢餓に直面している他の国々の様子を折りにふれて
話して聞かせるならば、その何回か何十回かのちのある日、子どもはハット
気づく瞬間に出合うかもしれません。

「世界では、あなたがこうして遊んでいるあいだも、寝ているあいだも、
食べているあいだも、1,2,3・・・と8まで数えるたびごとに、小さな子ども
がまた一人死んでいるの」
と、機会をみつけては子どもたちに語りかけてほしいのです。

─『続生き方上手』日野原重明著 ユーリーグ株式会社刊より

あいさつ一つでもこころは揺れるものだ。
相手が、気づかずあいさつしてくれなかったり、相手がわざと無視してくる
場合もある。そのとき、自分は、どうするか、それもまた、学ぶものがある。
自分を省みるときでもある。
たとえ、自分の評価がどうであっても自分の生き方を貫こう、とする気概の
勇気の確認や、自分の行いが間違っているのかと問いかけてみる、そういう
瞬間のときでもある。
相手に対する自己犠牲を発揮するときでもある。
あいさつ一つだが、人とのふれあいの体験のできるチャンスのときでもある。



反省のできる人、できない人

2016-10-24 18:03:19 | 知恵の情報
自分を反省する人にとっては、体験することのすべてが自分を向上させる栄養剤と
なる。人に責任を転嫁する人にとっては、思ったり考えたりすることがそっくり自分を
傷つける凶器となる。

前者は善に向かう道を開き、後者は悪に走るきっかけを増やす。その違いは、
天と地よりも甚だしい。
(菜根譚 前集147)


■過去のあやまちを反省することによって将来の飛躍を期することができる。
孔子も、「過チテハ則チ改ムルニ憚ルコト勿レ」と述べているし、『小学』にも、
「人ヲ責ムルノ心ヲ以ッテ己ヲ責メヨ」とある。


─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より


当然のことが出ているが改めてこの箴言を通して反省について考えるひととき
をもつことは大切だと思う。
ブッダが悟ったのは、結局、反省、内観によってである。出家をし、苦行をし、悟っている
ものを探し、修業を重ねたが、悟りは得られず、あるとき、川辺で童のはやり歌のようなもの
を聞き、ふと、自分の行いを振り返ったとき、偉大なさとりへの糸口をみつけた。
「弦は中ほどにしめるがよい、しめすぎればよい音はでず、切れてしまう。しめ足りな
ければ音はにごる、弦は中ほどにしめるがよい・・・」というような内容の歌を
聞き、中道を悟った。そして、
「内観=すべての事柄─自分をも含めて一切─を客観的に考え、判断すること─より
出ずる智慧、それがどのように人生の危機に出会うとも切り抜けてゆく術をあなた方
に与え、また心の余裕を与え、正しき判断力を与えるのです。」とおっしゃられている。

反省の方法は、自分で工夫できるが、八正道を正見、正思、正語・・・というように
順番に基準にして自分を省みてみるのもよい。自分は、隠されたものを含め、正しく
ものごとをみているか、思いやりの心をもとに正しく考えているか、愛と慈悲を込めた
語調で語っているか・・・・・というように。

エシュロンによる情報チェック

2016-10-23 15:59:58 | 知恵の情報
地デジ化は、世界政府樹立の告知のためだけではありません。
テレビは、視聴者である私たちが見るだけでなく、私たちの姿を監視するための
カメラにもなるのです。電源をオンにしている間は、すべて監視されるのです。
こうした相互システムは、技術的に可能となっています。

テレビだけではありません。
携帯電話の通話、FAXの送受信、電子メールのやりとり、ネットの書き込みなど
すべてが監視されます。

それを可能とするシステムが、アメリカが中心となって全世界に張り巡らした通信
傍受システム、エシュロンです。

ビジネスの取引メールから、近所の奥さん同士のたわいない会話まで、ありとあらゆる
情報をとりこみ、特定のキーワードを使う頻度が高ければ、危険人物としてマーク
されるのです。たとえば、「アルカイダ」「ブッシュ」「チェイニー」「盗聴」といった言葉
がキーワードです。一度マークされてしまうと、その後は徹底的にチェックされ、
少しでもあやしい行動を起こせば、すぐに当局に取り押さえられます。

まるで戦前の特高警察や、ベルリンの壁が崩れる前の東ヨーロッパ監視社会の
ようですが、技術が進んでいる分、監視の目はより厳しくなり、ささいな言動も
見逃されることはありません。電子の蜘蛛の糸が張り巡らされた社会です。

─『宇宙人と闇の権力の闘いがはじまりました』田村珠芳 ヒカルランドより

ネットのもとが軍事で使っていたネットワークだらから、その発展方向は、こうなる
だろう。身の危険を感じながらどこまで、それを使いたいか、本人の方向性、の
欲望・・・倫理、個人の思考にすべてはある・・・

不確定性原理の意味      知の限界を示した「新たな知の原理」

2016-10-21 17:53:35 | 知恵の情報
■徹底した観測からは間違いが導かれる
近代科学思考に大きなくさびを打ち込んだ大理論に、ドイツの理論物理学者で
ノーベル物理学賞を受賞したハイゼンベルク(1901~1976)の不確定性原理
があります。これは、学会に非常な衝撃を与えた理論であったようです。

アインシュタイン(1879~1955)より少し遅れて生まれたハイゼンベルクは、
量子力学の創始者の一人とも言われますが、彼の不確定性原理を簡単に紹介
しますと、「物質の究極の本質を探ろうとすると最後には観測したものがちがって
いる」、言い換えると、「物質を正確に観測しようとすればするほど間違った情報
が導き出される」というものです。

これはどういうことかといいますと、たとえば物を観測するためにはどうしても
光が必要です。ところが、物質の究極の真実をもとめて素粒子などきわめて
微小な物を観測しようと光をあてると、その光によって物質は光を受ける前の
位置とは変わってしまうものです。これは、大変な指摘なのです。見るための
光が、見ることの邪魔になる事態が生じたのです。つまり、それまでの
近代科学が最も得意とした細かく分析して観察しようという手法が、実は
本当のところを知ろうとする時には通用しないというのです。

この原理は正確には、「電子の位置と運動量は、同時には精密に決めること
ができない」という量子力学の定理なのですが、この理論が物理科学の
世界に投じた波紋は大きかったようです。ハイゼンベルクが量子物理学に
入るきっかけを作ったとも言えるアインシュタインは、「神はサイコロを振らない」
と言って、断固としてこの理論を破ろうとしたことは有名です。
しかし、結局破ることはできませんでした。

その後も、ハイゼンベルクがこの理論を発表した1927年からすでに70年
近くたっているのに、これを破る理論がないどころか、この理論に続けと
ばかり、ニューサイエンスが華やかになっているのが現実です。

近代科学思考の誤謬や限界を指摘する新しい理論の台頭がそれです。
例えば、いま話題の「カオス理論」もそうで、これは簡単に言えば、方程式
で書き表される決定論的なものであっても許容範囲とされるごくわずかな
初期値の違いで結果的には予測不可能な状態になる、つまり、正しい
観測はあり得ないというものです。

こういったきわめて理工学的な、それも学究的な部分だけへの揺さぶり
が、時代とともに自然科学や一般社会の世界にまでボディブロー的に
影響を与えているのです。その結果、細かく、分析して観察すれば分かる
という絶対的な自信を誇った近代科学思考は、足元から崩れ始めて
いるのです。

─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)
  「不確定性原理の意味」より・・・


そうして、この不確定性原理から、ある学者たちは、霊の世界を研究
しだしている・・・

してはならぬこと三つ

2016-10-20 18:28:51 | 知恵の情報
自分の心を見失うな。
他人をしいたげるな。
物を酷使するな。

この三つのことを実行すれば、天地の心にかない、人々の生活を
守り、子孫に幸運をもたらすことができる。
(菜根譚 前集185)

■すべての人、すべての物には、それぞれに価値があり、それぞれに
役割がある。それを認めてやることが、天の意志にかなう道なのである。
使い捨ては許されない。

─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より

自分にいつも、このような箴言を思い描いておく。
八正道、中庸の概念、山上の垂訓、あるべき人の姿なども・・・

ターミネーター種子が地球を覆いつくす      食料と情報による徹底管理

2016-10-19 18:23:15 | 知恵の情報
「生活にプロテインを」というスローガンで、カーギル、ネスレ、クラフトフーズなどの
食品大手企業が大豆プロテインを宣伝しています。

肉や乳製品の代替品として、大豆プロテインがきわめて健康にいい食品だと、
熱心にPRしています。

イラクは長い歴史を持つ農業国で、小麦の優れた品種の種子を生み出してきた
国です。

そこにアメリカが乗り込み、文化財を奪っただけでなく、小麦の貴重な種子を
すべて遺伝子組み換え種子に変えてしまいました。

イラクの前農務大臣は賢明な人物で、近隣のシリアに種子貯蔵バンクを設立し、
予備の種子を保管していたのです。そのおかげで、貴重な小麦の種子が守られて
います。しかし、シリアがアメリカに屈したら、せっかくの努力も水の泡です。
貴重な種子もなくなってしまうでしょう。

そして、ターミネーター種子が地球を覆いつくします。
ターミネーター種子とは、地中に植えて作物が実っても、種を再生産しない種子
です。毎年、種子を手に入れないといけません。農業を続けたいなら、権力者
に屈するしかないのです。

殺精子コーンも開発されました。遺伝子組み換えでトウモロコシに抗精子剤を
加えたもので、これを食べると妊娠しません。そんなものは口にしたくないと
思っても、他に食料がなく飢えた人は、食べるしかないでしょう。

遺伝子組み換え食品は、どこまで神の領域を侵食していくのでしょうか。

─『宇宙人と闇の権力の闘いがはじまりました』田村珠芳 ヒカルランドより

世界の中の一パーセントの金融を中心とした裏権力者連中は、地球上の
人口増加を一般の人間にわからないように自然災害を演出したり、自然に起きた
と思わせた戦争で減らしたり、また、病気を作って減らしたり、遺伝作物で抑制
しようとしているのだが、異星人の情報によるとまだ、まだ、地球は人間の
人口増加は大丈夫だと言っている。
たしか、200~300億人以上の許容があったと思う・・・
19世紀に出たマルサスの人口論などに影響されてはまずい。
もっと人を活かす、行動をしなくては・・・火星への移住もそうだろうが異星人との
交流も早くやるべきだろう・・・多くの人間の移動には、地球の科学だけでは
無理だ。共存共栄を考えずして、人間の将来はない。

至るところに楽しみ

2016-10-18 18:20:45 | 知恵の情報
人は誰でも大慈大悲の物心を持っている。維摩居士のような立派な人物であろうと、
人のような卑しい人間であろうと、その点では変わりない。

この地上には、至るところに人生の楽しみがある。立派な邸宅に住もうと粗末な
あばら屋に住もうと、その点では、まったく変わりない。

ただ、欲望や感情に心をくらまされて、すぐ近くにあるものも見えなくなってしまうのだ。
(菜根譚 前集45)

─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より


大慈大悲(だいじ‐だいひ)
仏語。一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲。特に、
観世音菩薩 (ぼさつ) の広大な慈悲。また、観世音菩薩。

維摩居士(ゆいまこじ)
Skt:Vimala-kiirti、ヴィマラ・キールティー、音写:毘摩羅詰、維摩詰、漢訳:浄名(旧訳)、
無垢称(新訳)、生没年未詳)は、古代インドの商人で、釈迦の在家の弟子(居士とは
在家の弟子のこと)。

古代インド毘舎離城(ヴァイシャリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと
前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に
達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。無生忍という境地を得た法身の
大居士といわれる。

参考
「人間の自由を奪うものは、人間の欲望と虚栄心と執着なのです。」
(エル・ラファルライエル)

あなたの「おかえり」の声は、家族を明るく迎えていますか     日野原重明

2016-10-15 18:43:16 | 知恵の情報
朝一番の爽やかな「おはよう」のあいさつや、食事の前に「いただきます」と自然に
手を合わせる習慣は時代が変わっても大事にしたいと思いますが、最近はどうなの
でしょう。

私の父は牧師でしたから、食事を囲むと、まず家族でお祈りをしてから食事をいた
だくのがつねでした。食事の前にお祈りをする人はむしろ少ないということを私は
学校に行くようになって知り、急に気恥ずかしさを覚えるようになって、家の外では
食事の前に周囲にそれとわからぬようにテーブルの陰で手を合わせ、随分早口
のお祈りですませていた時期もありました。

それでも昔は、「いただきます」と少し頭を垂れてから食事を始める人を街の食堂
でも見かけましたが、いまは目にすることがあまりありません。照れくさく思うので
しょうか。食べられるのが当たり前の豊かな時代になって、そんなふるまいそのもの
が忘れ去られたのでしょうか。

「ありがとう」「ごめんなさい」「ただいま」「おかえり」「ごちそうさま」・・・・・・・。
声に出せば実に短い、ささやかなあいさつのことばにすぎませんが、声音や
調子にこれほどその人の心の内が映し出されることばもないように思います。

あなたの「おかえり」の声は、いまも明るく弾んで家族を迎えていますか。家族
と長い年月をともにするうちに、だんだん「おかえり」の声のトーンが低くくもって
帰宅した家族に思わず、
「いま帰って来てはまずかっただろうか」
と思わせてしまうようなことがなければよいと思います。あなたにお孫さんがある
なら、孫に呼びかける「おかえり」の、あの明るく1オクターブ高いトーンの声と比べ
てみるといいかもしれません。

─『続生き方上手』日野原重明著 ユーリーグ株式会社刊より

お釈迦様の八正道のなかの正語の説明を見てみると、
「正語(しょうご)正しくものを語る。正しく語るというのは、愛と慈悲のある言葉を
語る、愛と慈悲をこめた語調で語るというものです。正しく語れば、調和をつくり
出せます。」
とあります。ここで、私が気づいたのは、「愛と慈悲をこめた語調で語る」という
所でした。「語調で語る」というのは、あくまで自分が調整するということです。
なりいきのままでなく、自分が冷静になり、行動することが読み取れます。
さとりの状態にあるがままというのがありますが、それは、わがままとはちがい、
自然体でこの調整能力が身についているものだと思います。
子供の姿には、うれしさだけの純粋な気持ちであいさつをしてくるでしょう。
それを見ると大人になった自分は、日ごろの悩みを抱えて、あいさつができない、
でも「語調で語る」ということは、できるはず。ひとつの訓練であるかもしれない。
そういうことを繰り返しながら、自然体の自分を取り戻し、自然法則に従順な自分を
湧き出させるということはできるのではないかと思う。

運命を切り開く

2016-10-14 18:03:24 | 知恵の情報
運命は耐え忍ぶにおよばぬ。たとえば偶然に、山から石が落ちてきたときに
死ぬときは死ぬ。助かるときは助かる。耐え忍んでも、忍ばなくとも、結局は
同様である。われわれはただ運命を切り開いていくべきである。正岡子規は、
肺結核と脊椎カリエスで、長い年数、仰臥のままであった。そして、運命を
耐え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。苦痛の激しいときは、泣き叫びながら、
それでも、歌や俳句や、随筆を書かずにはいられなかった。その病中に
書かれたものは、ずいぶんの大部であり、それが生活の資にもなった。
子規は、不幸のどん底にありながら、運命を耐え忍ばずに、実に運命を
切り開いていったということは、できないであろうか。これが安心立命で
あるまいか。

─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社

「原因は自分の意志でつくるもの、その結果が運命となる。」と
ジェームズ・アレンが書いているが、自分の意志の強さがやはり、運命を
切り開く。正岡子規の意志が彼の文芸での重要な役割を果たしたと考えるとき、
運命を切り開いている感じが伝わってくる・・・


心にわだかまりなし    菜根譚 前集174

2016-10-13 18:26:58 | 知恵の情報
人間の心は宇宙と同じようなもの、そのなかに、すべての宇宙現象が生起している。
すなわち、喜びの心は瑞祥(ずいしょう:めでたいしるし)を下す星や雲、怒りの心は
雷鳴や豪雨、思いやりの心はそよ風や甘露、きびしい心は炎天や霜にあたる。

人間の心に起こるこれらの現象も、起こったかと思えば消え、からりとしてわだかまり
を遺してはならない。そうすれば、宇宙の現象とそっくり合致することができる。
(『菜根譚』前集174)

─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より

自分の心の状態を宇宙の自然現象に置き換え捉えるという視点がすばらしい。
現代は、マクロの世界とミクロの世界の共通性を見出している。菜根譚の時代に
それを感覚的にとらえて生き方を見抜いているのはすごい見識である。
自分の心の解決を自然法則の性質から見抜き、手本にしている。まさに、私の
手本とするところだ。