ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

心はどっちにはやっても、ただ一途になってはいけない

2017-07-19 18:28:30 | 知恵の情報
つまり、心はどっちにはやっても、ただ一途になってはいけない。兼好の『徒然草』の
なかに「碁を打つに、勝たんと打つべからず、負けじと打つべし」と書いてあるが、
私からいえば、どちらもいけない。ただ勝敗を超越し度外視して、そのときどきの
現在になって、一挙手・一投足をゆるがせにしないようにしさえすればよいのである。

そしてつねに、強いものは勝ち、弱いものは負ける。粗忽なものは間違いが多く、
怠れば成功しない。いくら達人でも、後ろには眼がない、とかいう「事実唯真」という
ことを、常に自欺や未練なく、認識し覚悟すれば、万事自分の力一杯のことが
できることと思うのであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編 I I 新しい自分で生きる』
 白揚社

●じき【自欺】 の意味
自分の良心に反した言動を、それと知りながらすること。自己欺瞞 (じこぎまん) 。
出典:デジタル大辞泉



世の中の現実を徹底的に見た、あるいはきわめて平凡に見たといっても よい

2017-07-18 18:54:02 | 知恵の情報
たんなる作為的な無念無想では、一つの秘術また隠し芸のようなもので、ただの夢想の
ための夢想、安心立命のための安心立命であってあなんの働きもない。つまり、草木と
どこが違うかといいたくなるわけである。

お釈迦様は、はじめからすでにこのことを観破されたから、偉いではありませんか。
そこでインド国中に、つくべき師匠もなく、ついに山に入って、自力の修業で六年間
を過ごした。
三十五歳でようやく強迫観念が全治し、心機一転して、転迷開悟したのが、
「諸行無常・是生滅法」ということであった。

つまり、これが「あるがまま」ということであって、作為的な無念無想でもなければ、姑息
な安心立命でもない。
世の中の現実を徹底的に見たのでもあれば、あるいはきわめて平凡に見たといっても
よいのである。実に「道は近きにあり、事はやすきにあり」であった。いままではそれを
ことさらに「遠きに求め、難きに求め」ていたのである。

心配事を安心したり、忙しいのを落ち着いたりしようとするのは、それは「難きに求む」
以上のことで、まったく不可能の努力であるのである。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編 I I 新しい自分で生きる』
 白揚社

■お釈迦様の言葉で、心に残っているのは、「弦はなかほどに締めるがよい。」
という言葉だ。これは、中道の元になる考え方だ。弦を締めすぎると切れてしまう。
緩めすぎるとよい音がでない。だから、その「なかほど」をとって音を合わせて
いくという教えだ。
そして、これを思いついたのは、流行り歌で、少女たちが遊びで歌っているのを
耳にしたのを素直に受け止めたときにとらえたといわれている。これは、まさに
お釈迦様があるがままの境地になっていたのではないか・・・

どんな犠牲をはらっても

2017-07-15 17:37:35 | 知恵の情報
われわれはどんな犠牲をはらっても、われわれ自身のために、習慣的にすべての
人を愛するように努めなければならぬ。彼らがそれに値するするかどうかは問うに
及ばない。これを常に正しくきめることは、あまりに困難なわざだからだ。

愛のない時、われわれの人生は、とりわけ青春の日が過ぎ去った後においては、
あまりにも悲しいものとなる。まして憎悪は、まったく死と選ぶところがなくなるほど、
人生を毒する。(『l幸福論』弟一巻「よい習慣」)


始めから余計な心配はしなくてもよい。力というものは、正しく進んでおりさえすれば、
使命の増大につれて、増大してくるものなのだから。

取り越し苦労は絶対にいけない。
まず目的を問い、
それから信念をもって敢行すること、
これが大きな仕事をやりとげるのだ。
(書簡 教育)

─『希望と幸福 ヒルティの言葉』 秋山英夫訳編 現代教養文庫
  社会思想社

人間の内的発展も完全に段階的なもの

2017-07-10 18:58:34 | 知恵の情報
人間の内的発展もまたもとより完全に段階的なものであって、個々の天才的素質を
持った人を除いては、ひとめにつくほど急激な進歩をするものではない。われわれは
むしろ自分自身にたいして忍耐を持つことを学ばねばならない。もしある人が、
自分自身のことを考えたり、すべてのことを知らぬ間に自己の便宜と幸福を目安にし
て判断したりすることを、ごく自然に、なんの努力もなく断念することができて、
むしろ自分をある偉大な理念のしもべとしてのみ見るようになれば、その時、その人は
確実な高みに達しているのである。聖書はそのような人を「神のしもべ」と呼んでいる。
{『眠れぬ夜のために』弟一巻 四月二十五日)

─『希望と幸福 ヒルティの言葉』 秋山英夫訳編 現代教養文庫
  社会思想社

■神の概念を宇宙と理解できるようになると、自然法則従順の意味がわかってくる・・・

法則には秩序がある。法則を発見し、理解し、活用することができる

2017-07-09 17:50:59 | 知恵の情報
法則はどこでも共通しているものであり、永遠のものです。もっとも、まだ、明らかに
なっていない事実がたくさんありますが、「原因と結果の法則」も、いずれは広く
知られるようになるでしょう。新しい発見、新しい真理が知られるにつれて、
「法則というものは美しく、安定しており、最高に優れているのだ」ということを
身近に感じることができるようになるでしょう。

そして、「法則というものは破ることができない。自然界の隅から隅まで行き
渡っている」ということを知るのは、非常にうれしいものです。宇宙の中である
特定の法則はいつも同じように働くので、私たちは法則を発見し、理解し、
活用することができます。だからこそ、法則は確実なものなのです。また、
そこから大きな希望と喜びがうまれます。

しかし、奇跡という考え方は、法則を否定するものです。なぜなら、奇跡とは、
法則に従わず、気まぐれに起こるもののことを指しているからです。

─『「意志」と「人生」の法則』ジェームス・アレン KKベストセラーズ刊

■人間が「自然の法則」を見習った調和の形とはどういうものでしょうか?

  それは、互いに迷惑を掛けない、個人の自由と人格を尊重する。
  感謝を忘れず、必要であれば悪びれずに謝罪をする。つねに誠意と
  義務と責任感を持って対し、互いの和を図る。必要があれば進んで
  助け合う。そしてお互いの望むところ、喜ぶところのものを賢明に
  判断して与え、為す。それが人間としての宇宙や自然にならった
  調和の形であり、愛という捉えがたい言葉であり、観念を正しく
  表現した形なのです。

  このように、人間愛と調和と平和は互いに関連し合っています。
  そして寛容は慈悲の心と切り離すことの出来ないものです。

■■アレンは、奇跡を法則を否定するものと考えているが私は
 ちがっている。それは、人間が自然の法則に従って生きなければ
 ならない、ということだけでは、万物の霊長として最高に発達した頭脳を
 与えられている意味がなくなる。
 私たちは、いくら悲観的になっても、楽天的になっても、また、絶望的
 になっても、動物のように一日をほとんど考えずに過ごすことはできない。
 科学優先の時代だとはいっても、人間は考えることや感じることを
 無視して生活することはできません。それが文学となり、芸術となり、
 宗教となり、神を求める心となるのです。そこには、奇跡をとらえる
 心がある・・・

─『天国の扉』千乃裕子編著 エル・ラファル・ライエル言 たま出版参照



あなたがわたしをいやしめるとき、あなたは私を偉大にしてくれるのだ

2017-07-08 17:21:46 | 知恵の情報
「あなたがわたしをいやしめるとき、あなたは私を偉大にしてくれるのだ。」
この言葉は単に一般的な信用句であるばかりでなく、人生の経験にてらして
全くまちがいのないところである。

真に善い偉大なことでも、その始まりは小さいものなのだ。そうでない場合は
稀だ。しかもたいがいまだその上に、ある種の軽蔑や屈辱がこれに先立つ。
だからわれわれは叩かれたりいやしめられたりするということから、むしろ
確実にそのことがうまく運ぶと推測できることは、ちょうど春の嵐によって
春が近いことを推測するのに似ている。もしあなたが、屈辱のうちに、あとから
それだけ一層多くの善いことを恵もうと目論んでおられる神の手をみとめて、
屈辱を甘受することができるならば、あなたは一歩大きく前進したことになる
のだ。(『眠られぬ夜のために』弟一巻九月十五日)

─『希望と幸福 ヒルティの言葉』 秋山英夫訳編 現代教養文庫
  社会思想社

反対を唱える場合の一番礼節にかなったやり方

2017-07-06 19:01:56 | 知恵の情報
反対を唱える場合の一番礼節にかなったやり方は、修正動議を持ち出すことである。
つまり、一見賛成に見えながら、実は事態の本質をかえるていのものを付け加える
わけである。こういうことに気づく人はあんがいすくないものだ。
 
ことに婦人に対しては、この行き方は驚くべき効果がある。婦人がたは、問題
そのものよりも、自分の言い分が通る形式のほうを重視するものだからである。
(書簡 友情)

─『希望と幸福 ヒルティの言葉』 秋山英夫訳編 現代教養文庫
  社会思想社

最良の友とは、いつでも、苦しいときに友を見捨てない人のことである

2017-07-05 19:16:07 | 知恵の情報
最良の友とは、いつでも、苦しいときに友を見捨てない人のことである。しかし、やや
厭世的なことわざにもある通り、苦しいときには「友人一ダースは半オンスの目方にも
あたらない」(金の切れ目が縁の切れ目)のが普通である。

不幸な時に遠ざかるどころか、もし近づいてくる人があれば、それはその人の性格が
善良で信頼するにたることを示す一番いいしるしである。

ところが逆に、友人が不幸になるとさっさと背をむけて、なに、あれはただの「知人」だと
格下げしてしまうような、まことにあつかましいやり口をとる抜け目のない人がないでは
ない。こういう連中にかぎって、旭日昇天のいきおいで友人に運が向いてくると、たちまち
また押しかけてくるのだ。こういう連中を、そのとき、はねつけてやることは、われわれの
義務である。(書簡 友情)

─『希望と幸福 ヒルティの言葉』 秋山英夫訳編 現代教養文庫
  社会思想社

■以前に紹介したがまた、友情について考えてみたくなり、読みなおしている。
友を見捨てないというのは、けっきょく他者に対する個人の姿勢によるものだと
思う。まず、自分が他者意識がどのくらいあるかによって、友情の感情も
現れてくるのだと思う・・・共存共栄を体得したい・・・

人間そのものになりきった ありさま、「事実唯真(じじつゆいしん)」である

2017-07-04 19:15:06 | 知恵の情報
本当の大悟徹底は、恐るべきを恐れ、逃げるべきをにげ、落ち着くべきを落ち着くので、
臨機応変ピッタリと人生に適応し、あてはまっていくのをいい、人間そのものになりきった
ありさまを言うのである。

心悸亢進でも、梅毒恐怖でも、当然おそるべきを恐れ、注意し、用心すべきをするのが
「事実唯真(じじつゆいしん)」である。恐るべきを恐れてならないというのを「思想の矛盾」
といいい、悪智といい、それは決して人間の心情の事実ではないのである。

不道徳をすれば、将来罰をうける。その恐怖がどうしてなくなったか。つまり、泥棒を
すれば、監獄にいく。食べ過ぎれば、下痢をする。ゴロ寝をすれば風邪をひく。事実唯真。
どうにもしかたがない。ただ事実に服従する。しかたがないから往生する。というだけのことで、
強迫観念が治る。泥棒をしてつかまらないようにしよう、いか物食いをして下痢しないでおこう
と思うから、強迫観念になるのである。しかしこれはこのことが会得され、覚悟し、体験
して、はじめてわかることで、「もし強迫観念の苦痛が、そんな簡単なことで治るなら、
自分もこれから、そうしよう」という理屈や工夫では治らない。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編II 新しい自分で生きる』
 生活の発見会 白揚社より

法則は私たちを救うもの

2017-07-03 19:08:49 | 知恵の情報
「他の人のためなら、悪いことをしても許される」という考え方は、「誤った行動やウソは、
不幸や苦悩や死よりも小さな悪である」という前提に基づいています。しかし、精神性を
高めようとする人は、謝った行動もウソも、大きな悪となることを知っています。だから、
たとえ自分の命、他の人の命が危険にさらされたとしても、決して過ちを犯したり、ウソ
をついたりはしないのです。

余裕のあるとき、ものごとがうまくいっているときなら、法則をしっかりと守ろうと決心
するのはたやすいことです。しかし、苦しみに襲われたとき、不幸という闇がのしかかって
きたとき、周囲の状況の圧力に取り巻かれたとき─それこそ試練のときであり、試される
ときなのです。そのとき、自我に執着しているのか、それとも真理をしっかりと守って
いるのかが明らかになります。

法則は、必要になったときにわたしたちを救うためにあります。そのときに法則を手放して
しまったら、わたしたちは、自我の誘惑や苦しみからどうやって救われるというのでしょうか。

もし良心に反してあやまちを犯し、目先の苦しみや突然の苦しみを避けようと考えるならば、
苦しみや悪事を増大させるだけです。正しくものを考える人は、苦しみを避けることよりも、
過ちを犯さないように気を配ります。

幸福が脅かされているとき、永久に保護してくれる法則をわざわざ手放していては、
叡智も得られず、安全もあったものではありません。快楽のために真実を手放すなら、
快楽も真実もどちらも失ってしまいます。しかし、真実のために快楽を手放すならば、
真の平安が悲しみを取り除いてくれることでしょう。

低級なもののために高級なものを手放せば、虚しさと苦悩に襲われます。永遠のものを
放棄してしまったなら、どこに確かな拠りどころがあるというのでしょうか。しかし、高級な
もののために低級なものを手放すなら、高級なものの満足が残り、喜びに満たされます。
そして、人生の悪事や悲しみから逃れて、安らぐことのできるしっかりとした拠りどころを
見つけることになるのです。

いつも変化している人生のなかで変わらないものを見つけること。そして、それを見つけ
たら、どんな状況にあってもしっかりと守ること─これこそが本当の幸福であり、これこそが
救済、永遠の平和なのです。

─『「意志」と「人生」の法則』ジェームス・アレン KKベストセラーズ刊

相対性原理から幸福を考えてみる

2017-06-29 18:51:51 | 知恵の情報
労苦のあるところ、至るところに幸福がある。それは、幸福と労苦と、相対的である
からである。相対性原理に、絶対速度のないように、幸福にも、一定不変の存在は
ない。上が高ければ、いよいよ下が深く、歓楽がいよいよ多ければ、ますます
哀情が強い。親から受けた富や門地は、本人のためには、中性である。幸福の
実感はない。

宝丹の語に、身家盛衰・循環の図というものがある。富足・驕慢・奢侈・淫暴・禍変・
困窮・悔悟・勤苦・節倹・貯積・富足・驕慢・・・・・・と多かれ少なかれ、常に循環して、
とまるところがないのである。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編II 新しい自分で生きる』
 生活の発見会 白揚社より

■身家盛衰循環図系(シンケセイスイジュンカンノズ)
大正と元号が改まった時、安田善次郎が家族に遺し示した教えです。
人間が陥りやすい落とし穴と進むべき道を監事二文字の言葉で表し、それを線で結ん
で分かりやすくフローチャートのようにまとめられています。

 まず“困窮”の中にいる人間は、“発奮”するか“挫折”するかに分かれる。
“挫折”した者は前には進めないが、“発奮”した者は“勤倹”を旨として生活し、
やがて“富足”の状況となる。ここで分かれ道が待っている。“修養”の道を選んだ者は
“喩義”(真理の追求)に進み、“清吾”(教養のある趣味)を楽しみながら“安楽”の境地へと
至る。ところが、“富足”の段階で“傲奢”な生活を選んだ者は、“喩利”(利益の追求)に走り、
“煩悶”し、やがては最初の“困窮”の状態に戻ってきてしまう。

素質、才能、善良さ、偉大さは、因果の長期に渡る連鎖の結果です

2017-06-28 17:29:02 | 知恵の情報
植物の成長は目に見えてわかりますが、精神の成長は、目に付くものではありません。
たとえ見た目にわからなくても、私たちの中で、成長の過程は進行しているものです。

精神の成長過程が目に見えないというのは、一般的にわかりにくいという意味です。
聖人のレベルとまではいかなくても、真実をよく理解している人には、手にとるように、
その過程がわかるものです。

自然科学者が自然現象の因果関係に精通するように、聖人は、精神界の因果関係を
熟知しています。

聖人は、人格の成長過程を、植物が成長する姿のように促えています。

才能や善良な性格の開花が現れたとき、かれには、それがどのような種子から生じた
ものなのかがわかります。

みごとに開いた花のそこに至るまでの長い成長過程が、かれには計り知ることができる
のです。


既成のものは、何一つありません。
つねに、変化、成長、生成の過程があります。


─『アレンの言葉 366日』ジェームス・アレン 葉月イオ訳 PHP

人類にとって貴重な人間とは

2017-06-26 18:37:57 | 知恵の情報
人生を歩んだ人で、弱くなった時間や時期を持たなかったためしはない。真に気高く、
志操の高い、人類にとって貴重な人間とは、そのような時を全然ないしはごくわずか
しか持たなかった人々ではなくて──それは、通常、意気地のない気性のせいだ─
そのような時に屈せず、それを見事に克服した人々のことである。彼らはそのような
戦いと勝利を重ねるたびにいよいよ気高く、いよいよ練達となり、その国民全体
も、また一般に地上での善の仕事も益をこうむったのである。
(『幸福論』第三巻「高さ」より)

─『希望と幸福 ヒルティの言葉』 秋山英夫訳編 現代教養文庫
  社会思想社

悟りの境涯は「明鏡止水」に

2017-06-24 17:51:23 | 知恵の情報
なお注意すべきは、われわれの心は、良きも悪しきも、正も邪も、反対観念もヒネクレた
心も、時と場合とに応じて、出没極まりなく、さまざまに変化して、決して自分の意の
ごとくならぬものであるからその起こるがままに起こし、心の流れるままに流して
いけば、いわゆる「明鏡止水」というふうに、心が自由自在の働きができるようになり
「悟り」の境涯にもなるものであります。そのわれわれの心がさまざまにヒネクレ、ネジケル
のは、たとえば、松の木が必ずしもまっすぐに伸びず、曲がりくねるのと同様です。
これについて、一休禅師の話があります。あるとき、一休が、「この松を誰かまっすぐに
見ることのできるものがあるか」という問いに対し、ある人が「この松は曲がりくねって
いる」と答えたとのことです。すなわちその松を、あるがままに正しくまっすぐに見て、
正直に表現したのであります。曲がった松を直ぐに見直そうとし、ヒネクレタ心を単純に
取り直し、思い曲げようとするところに、種々の強迫観念や、妄想煩悶が生起する
のであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編II 新しい自分で生きる』
 生活の発見会 白揚社より



境涯:きょうがい ;人がこの世に生きてゆく上での立場。境遇。身の上。

明鏡止水
【読み】 めいきょうしすい
【意味】 明鏡止水とは、邪念が無く、静かに落ち着いて澄みきった心の状態のたとえ。
【明鏡止水の解説】
「明鏡」は、一点の曇りもない、よく映る鏡のことで、「けいめい」とも読む。
「止水」とは、流れずに静かにとどまって、澄んだ水面のこと。
 曇りの無い鏡と澄んだ水面のように、安らかに落ち着いた心境をいう。
『荘子・徳充符』にある「明鏡」と「止水」の二つの言葉を合わせてできた句。
「明鏡」は、甲徒嘉のことば「鑑明らかなれば則ち塵垢止まらず、止まれば則ち明らかならざるなり
(鏡が きちんと磨かれていれば塵は付かない、塵が付くのは鏡が曇っているからだ)」から。
「止水」は、孔子のことば「人は流水に鑑みること莫くして、止水に鑑みる。唯止まるもののみ能く
衆衆の 止まらんとするものを止む(人は流水を鏡として使うことはなく、静止した水を鏡とする。   
ただ不動の心を得た者のみ、心の安らぎを求める者に対して、それを与えることができる)」から。
【出典】 『荘子』
【注意】 「名鏡止水」と書くのは誤り。
【類義】 虚心坦懐/光風霽月
<故事ことわざ辞典より>

正しく自覚・認識さえすれば、そのままでよい

2017-06-22 17:18:37 | 知恵の情報
親鸞聖人は「自分は悪人である、罪人である」と決めた。ソクラテスは「自分はなんにも
知らない。ただ何も知らないということだけを知っている」といった。その自覚・自認だけで
よい。

そこでちょっと思い違えて「だから、善人にならなくてはならない」「知者にならなくては
・・・・・・」ということになると、脱線して迷路に陥ることになる。ここが、「思想の矛盾」と
いうことの私の説明を理解しない人には、ちょっと難しいところであります。

ちょっと一口説明してみれば、その考え方は、事々物々に当たり、絶えずあれも知りたい、
これもなしたい、という向上一路心はなくなって、自分は人から、知者善人と思われたい、
先生の前で、悠然と見せかけたいというふうに、いたずらにごまかしと照れ隠しとに、
日もこれ足りないというふうになるからであります。

この「正しく自覚・認識さえすれば、そのままでよい」ということは、体験しなければ、
単なる理屈では、決してわからない。これは、ここの治療法で、素直に規定どおりに
実行しさえすれば、成績のよい人は、四十日以内で、体験することのできることで、
容易といえば、はなはだ容易なことであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編II 新しい自分で生きる』
 生活の発見会 白揚社より


思想の矛盾
この火を冷たくし、死を恐ろしくないようにしようかというのを、「思想の矛盾」という。
矛盾とはアベコベになることである。恐れをなくしようとすればするほど、かえって
ますます、アベコベに恐ろしくなる。早く眠ろうとすれば、かえってますます眠れ
なくなる。これに反して、恐れるべきものを、当然恐れれば、恐れまいとする考え
はなくなり、考えがなくなれば、すぐおそろしくなる。つまり、当然あるべき事実を、
そうでないようにと、無理に人為的に、作為しようとするのが、僕のいわゆる
「思想の矛盾」である。この「思想の矛盾」と言う言葉は、僕の思いついたことであるが、
面白い言葉とは思いませんか、これを禅の方で、悪智というのではないかと
思います。(『現代に生きる森田正馬のことば  生活の発見会編 I 悩みには
意味がある』白揚社より)