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トルストイへ──人がその自我を捨て去ることはできない

2016-07-24 19:25:01 | 知恵の情報
人がその自我を捨てさるのは、普通考えられているように、父や、息子や、友人や、
親切でやさしい人たちに寄せる愛の結果ではなくて、ただ自己中心の生き方の
むなしさと、自分ひとりの幸福の不可能とを認識したその結果に他ならない。
だから、、人は、自己中心の生活を否定した結果、真の愛を認識し、父や、息子や、
妻や子供や友達を、はじめて、ほんとうに愛することができるようになるのである。

愛とは、自分よりも─自分の動物的な自我よりも、他人をすぐれたものとして
認める心である。

─『人生論』米川和夫訳 角川文庫

{谷沢永一言}
晩年のトルストイはかなり思いつめていたから、自我を捨て去る、というような
はなはだ極端な論法に走った。しかし、この論法はむしろ願望であって、彼が
夢見た境地であるとも言えようか。或いは、比喩に類する説法かもしれない。
およそ人間が自我を捨て去るなんて、考えることもできないのだ。自我あってこそ
その人間なのである。人の世は自我の衝突であると見てとった彼が、自我こそ
人間社会における不幸の根源であると考えたのも無理はない。論理をつきつめ
ればそうなるだろう。

しかし、われわれは現実に即して思案しなければならない。問題は、自我の
衝突を、可能な限り、自我の調和へ導く工夫であろう。己れの欲せざるところは、
人に施すことなかれ(「論語」二百八十章)と、現実主義者の孔子は、諭した。
われわれの自我は、すべての他人をすぐれた者として認めることなどできない。
通常人に可能なのは、他人の自我を尊重して冒さない自我なのではあるまいか。

─『古典の知恵 生き方の知恵』古今東西の珠玉のことば2 
  谷沢永一著 PHP研究所より

ここで以前に紹介した、高橋信次氏の自我の説明を思い出して考えてみると参考
になると思う。谷沢氏と同じように自我は本来の自分であり、なくなるものでは
ないように説明されている。自我の性質が変わるだけである。トルストイは
論理で考え、突き詰めていった。論理の欠点がでる形になった。分析していくだけ
だからそうなった。類比といって他との比較などをしたり、分析を総合させて
全体を俯瞰することをしてみればよかったのではないか・・・
分析して自我を不幸の根源としたから、捨て去ればよいとなってしまった。
いろいろな例を比らべてみていくようにすると高橋氏のように自我のいろいろな
状態が見えて来る。儀我、善我、真我という捉え方だ。
自分中心の生き方は、自我の偽の状態。
自分ひとりの幸福の不可能を認識した状態は、善の我だ。
そして、この他者をすぐれた者として認める先に真我がある。相手と自分が
一つのものと感じる大我とよばれるものだ。
トルストイは、自己中心の生き方のむなしさに気づいた。この段階で、善なる
自我にはめざめたといえよう。