ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

異端科学と正統科学

2016-06-16 19:19:45 | 日記
私は、現代の科学を二つに分けてみています。正統科学というのは、現代の
一般的に世間に認められている科学分野のことです。生物、化学、物理学・・・
などと、学会があり、世界の科学者が同じ知識を共有して研究を進めている
ような流れです。

異端科学は、自由に研究するかたちで、学会などで、制限されていない。
方法は、科学的方法を使うが分野は、限定されていない、場合によっては、
邪魔をされ、破壊される、巷の似非評論家に「とんでも」などといわれる科学です。

科学の本を調べて、読んでいると、政治や闇の権力に破壊された科学研究が
出てきます。どうして、人の世のための研究を破壊するのか。調べてみると
お金です。利権に絡んでいるのがわかってきます。理研の小保方さんの
事件もスタップ細胞の特許の問題が絡んでいるようです。小保方さんもなにか
大きな力を感じるようなことを言っていました・・・
人から聞いた話によると、最近すでに米国がその権利を取ったといわれます。

小保方さんは、大きな流れの中に巻き込まれ、犠牲になった方のように
思います。長くやっている研究者は、口には出さないが感ずいているでしょう。
古くは、テスラーが亡くなった時、彼の研究資料はすべて没収されたと
聞きます。日本の研究者でも自分の研究資料が一夜にしてなくなった人も
いると聞きます。
つまり、まだ、研究が未知の段階で、こういった、裏の力の隠蔽、強奪、破壊
などの動きがあるのです。

ですので、異端科学というのは、超先端の研究で、いろいろなものにとらわれて
いない研究で、権力者も注目するので異端ではないかと私は見ています。
世間に認められているな穏やかな方向性のある研究は、正統です。おそらく、
共有されている研究を追随している研究でしょう・・・

★水から取れる画期的エネルギー「ブラウンガス」
★水で走る車がすでに実現している
★電磁波兵器
★すべての病気が完治するライフ博士の技術
★がん細胞だけを殺すことができる周波数の発見
★ウィルスも見える高性能の光学顕微鏡
★軍に悪用された殺人周波数兵器
★常温核融合
★体内原子転換
★腸造血
★フリーエネルギー

私が知っているだけでもこのようなものが出てきます。このようなものは、
隠蔽されたり、破壊されたりしています。
(─『闇の支配者に握りつぶされた世界を救う技術』と<現代編>の二冊より
  ベンジャミン・フルフォード著 イースト・プレス参照)


最近、井出という方がフリーエネルギーの本を出していましたが、不思議なことに
その方にNASAから、招待が来たといいます。まったく、井出氏は、こちらから
連絡したりしていないのです。彼は、善意を信じて米国に行きました。
講演を開いたといううわさを聞いたことがありますが、その後どうなっているのか。
何らかの動きに取り込まれてしまっていないか心配しています。
超先端の研究は、とても危ない気がします。それこそ命を懸けないとならなくなる。
異端科学こそ未来を切り開いていく本当の科学者の仕事だと思っています。





鉄人28号の操縦機を誰が使うのか───科学には徳・仁はない

2016-06-12 18:16:43 | 日記
以前に科学を絶対だと洗脳されたようになっているものがいると、批判したが、科学は
なんども言うが、「方法」であり、そこに使う人間の心が宿っていないといけないと思う。
徳のある人間が使うべきなのだ。鉄人28号は、悪にも善にもなりうるものである。

竹内薫さんがNHKの科学番組で科学者の研究する方向性について話していたときが
ある。悪いとわかっていても研究してしまうだろう、ということをおっしゃっていた。
性(さが)だとも・・・ここに、科学者も普通の人とかわらない、学ばなければいけない
倫理道徳の問題がある。一部の研究に秀でていても何にもならない。
金に目がくらんだり、政治権力におもねることも簡単にやる。そういう人間が科学を
やってはいけない。

キューバ危機のとき、米国は砂糖を悪玉にして、キューバとの砂糖取引をしないようにした。
現代でもその情報が一人歩きして、世界的に砂糖が体に悪いような情報が広がっている。
砂糖は、ブドウ糖であり、脳の唯一の栄養であるというのに。最近糖質ダイエットなどという
のがはやっているが、それは、筋肉から糖分をとってしまい破壊してしまうもので、毎日、
朝、食事を糖質を控えていくと頭はぼーっとしてしまう。素人考えで、もしかしたら、
痴呆症などという老人の病気は糖分を減らして脳の栄養が極端に不足した状態をずっと
続けたからではないかと思うことがある。

原子力発電所も最悪の地球加熱装置である
日本の原発には、沸騰水型と加圧水型と二種類ある。原子炉から出た熱は、高温の
水蒸気をつくって、タービンに送られ、タービンの羽根が回って発電機を動かし、生まれた
電気が送電線で消費地に送られる。この時、熱エネルギー運動エネルギー
電気エネルギーへと変換がおこなわれるので、原子炉で生まれた熱エネルギーの
三分の一しか電気にならないのである。

このあと、水蒸気に残った三分の二の熱を海に捨てている。つまり、海水で水蒸気を
冷やして水に戻し、原子炉に送り返している。発電量の二倍の熱量を捨てなければ
ならないのが原発なのである。この捨てられる熱量を温排水と呼んでいる。そればかりか、
原発は東京や大阪の大消費地から遠方の地域に建設されてきたので、送電線による
エネルギー・ロスが大きく、〆て70%のエネルギーを捨てている。最もエネルギー
効率の悪い発電所である。

温排水によって海に捨てられる熱量はどれぐらいになるだろうか。2010年7月現在、
商業用原子炉54基の合計で4911・2万キロワットの「電気出力」を持っている。
その二倍の約一億キロワットの膨大な熱で加熱しているのが原発だということになる。
この熱量を言い換えると、日本全体では、毎日、広島に投下された原爆100個に
相当する巨大な熱量で海を過熱しているのである。広島の原爆は、一瞬で町を
焼き尽くして、跡形もなく消し、14万人の命を奪ったが、それが毎日100個であれば
どうなるか。これで海の生態系がこわれないはずがない。誰にでもわかることだ。
(『二酸化炭素温暖仮説の崩壊』広瀬隆著 集英社新書より抜粋)

広瀬隆氏の2010年の本から説明を紹介したが、現在は、ほとんど稼動していないが
テレビのコマーシャルでもやっているが四分の一まで政府は稼動しようとしている。
原発はいつ大事故を起こすかわからない危険な発電所であり、さらにこのようなエネル
ギー効率の悪く、海を加熱するとんでもない発電機だ。
人間に、地球に悪いものをどうしてやろうとするのか、科学者の責任である。
必死になって止めない、悪の心が存在している・・・

原発はクリーンではないし、温暖化は火力発電のせいではない。このことも解明できない
のもデクノボーの科学者たちだ。大きな金を稼ごうとする国際的な金融マフィア(そうと
しか複雑なので表現できないが)に科学者たちが自分の命がほしくてしたがって
いる模様。

21世紀は、科学者の倫理の気概が問われる時代だ。
専門になればなるほど、一般の素人は煙に巻かれてしまう。だからこそ科学者が
徳・仁・礼・信・義を持たなくてはならない。自分の分野の研究をオタクのようにやって
いてはいけないのである。なにかの賞をとったってその人の欲望を満たすだけだ。
賞をとった科学者の姿をみてもその人の発言が地球の問題に触れていないときは、ちっと
も喜べない・・・・


同情───それは、普遍的な人間愛のもとになるもの

2016-05-17 18:46:53 | 日記
「いかに世慣れた人でも、他人に同情を持ち得ない限りたいていは、人間を軽蔑するか、
あるいは恐怖することになりやすいものである。そういうことにならないようにわれわれ
を守ってくれるのは、ひとり同情のみであって、理性や愛ではない。

普遍的な人間愛といっても、それは、同情ということにほかならない。
さもなければ、それは、ただ、無害ではあっても、しょせんかなり無関心な心構えを
呼ぶ名称にすぎない。
 
同情のみが、力強い、あたたかい、活動的な感情である。それは、傲慢に上から
見下ろすような気持ちでもなければ、また、他人の不幸を見てよろこぶような不純な
気持ちでは絶対にない。とういうのは同情とはまさに「苦しみを共にする」ことだから
である。

他人の苦しみを自分の苦しみと感じることから、他人に救いの手をさしのべようと
いう本当の衝動がわいてくるのであって、そういうことがなければ、せっかくの
気持ちの張りもあまりに微力な心のはずみに終わってしまうであろう。

ある美しい回教の物語に次のような話が語られている。
ある男が、とある深い泉で渇きをいやして上ってくると、そこに一匹の犬がいて、
のどから舌を垂れさげているのに気がついた。この時、この男は自分にこう言って
きかせた、「この犬は、さきほどの私と同じ苦しいおもいをしているのだ」と。
男はもういちど泉へ下りていき、長靴に水を一杯入れて、歯で長靴の口をおさえ
ながら、上へ上がってきて、その犬に飲ませてやった。」

「すべての生物に対して平和の心(同情)をもって生活をするならば、その心の持ち主
には、おびただしい平和がもたらされる。」

─『希望と幸福』ヒルティ 秋山英夫編 現代教養文庫 社会思想社より


「同情するなら金をくれ」というドラマの言葉が心に残っている。
あのドラマは、強烈だった。逆説的な主人公の救いへの叫びがあのような
表現になったのだと思うが粗い言い方である。
同情しないでくれ、などと否定的な使い方もよくする。
しかし、この行為の本当の力は、人に対する愛情を育てるものだ。
子供のころに遊びを通して学んだり、日常、人間の感情を共感するとても
美しい、人間として大事な行為の一つだろう。相手の立場に立つときにやさしく、
同情する心を持って接したい。 

(エル・ピラッテラ─ダンテ─ミルトン─ヒルティ)

 

原爆の詩

2016-05-07 18:15:21 | 日記
  

仮繃帯所にて

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいてもことばになる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のようにふさいだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう

焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこなめにあわねばならねのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思ってる
あなたたちはおもってる
今朝がたまでの父を母を妹を
(いま遭ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きご飯をたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の後さえわからない)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を


   ─『原爆詩集』 峠 三吉 より 
     この作品は、高校生の教科書に載ったもの

ジプシーキングスと鬼平犯科帳

2016-05-04 18:53:16 | 日記
 

池波正太郎の作品「鬼平」は有名で今もテレビで、再放送をやっている。
中村吉右衛門の演技が見事に合っていて、面白くみられる。
私が、今日お話したいのは、番組の最後に流される曲がジプシーキングスの曲でラテンなのに
それが妙に時代劇に合っているという感動のことなのです。なぜなのだろう。番組
最後の映像は、日本の江戸の四季をイメージしたものでそのバックにジプシーキングスの
音楽が流れてくる・・・劇の結末が人間の悲哀を表し、それをみるものが思い返して味わう
ように、流れてくる。ギター曲の激しさとその中に人生はこういうものだと俯瞰するような、そして、
哀れさを受け止めるような表情・・・劇を見終わって、ぼーっとその曲を聴いているとなにか
気持ちが和んでくる・・・
ジプシーキングスの「インスピレーション」という曲だが、聴くたびに、映像とぴったりして感動
している。日本人もラテン系の人も心の喜怒哀楽の心持は、同じなんだな、と感じさせる。
時代劇が嫌いな人も一度「鬼平」の最後のところだけでも見て味わってほしいと思います。
こういうものを味わうと大衆の映像芸術だな、という感じがします。
   
 

「春のワルツ」に癒される

2016-04-30 17:40:13 | 日記
 

「冬のソナタ」のチェ・ジウとパク・ソルミさんのことを書いたら、「春のワルツ」がみたくなり、
ビデオを見直してみた。タイトルバックの音楽がなにか、癒される感じがした。同じユン・ソクホ監督の作品だ。
彼の四部作は有名だが、私は、この「春のワルツ」が好きだ。出てくる人物が多くなく、また、自然の
中に役柄が入り込んでいるような感じがする。島で育った貧しい環境の幼馴染が幼い恋心を持ちながら
心臓病の少女の手術のことからある事件が起こり、別れてしまう。何年もたって、偶然に出会って、
その事件の真相がわかる。そして、そこに恋愛が絡んでいく。

ユン・ソクホ氏の才能だと思うが、人物をながめているカメラが映す空気のようなものが情緒として
感じられる。静かなカメラの捕らえ方のせいなのだろうか。
島の屋根の色など、カメラに入る風景に現れるものは、自分の感覚で選んだ色に塗り替えたしている。
部屋の色の配置を観察してみると、確かに、バランスをとって色を選んでいるのがわかる。
地味な感じの場面でもその色の構成のせいか、すっきりした感じがする。
風景に主人公たちの感情をのせるように写して表現するというのを以前に淀川長治氏が本に書いていた。
確か、例として、北野武監督の作品「あの夏、いちばん静かな海。」の波への感情移入のようなことだったと
思う。ユン・ソクホ監督の作品にもそれがあるような気がする。この作品を見直していると気持ちが
安らぐ気がする。「トンイ」を演じたヒロインのハン・ヒョジュさんの自然な穏やかな魅力もあるだろう。
作品の内容は、主人公たちの感情の変化を描いているが、見慣れてくると、それを冷静に見つめながら、
画面全体を気を休めながら見ている・・・

騒がしい町の出来事ではなく、どこか、ローカルな地方の地域で起きている、静かなドラマだ。
私は、その雰囲気が味わいたくて、時々この「春のワルツ」を見直したくなる。

    


 山村暮鳥 いちめんのなのはな 

2016-04-25 16:55:57 | 日記
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな


─風景 純金もざいく 山村暮鳥 弟二連より
 
この詩は、出会ったときにとても印象的な感じだった。ひらがなの言葉なのにそれが
菜の花に見えた。字面を追っていくたびに菜の花がみえてくる・・・
面白い作り方だ。彼の思いつきなのか、言葉の写生の極致なのだろうか・・・
これは、絵だ。


春の河

たっぷりと
春の河は
ながれているのか 
いないのか
ういている
藁くづのうごくので
それとしられる

─「雲」より





おうい 雲よ
ゆうゆうと
ばかに のんきそうじゃないか
どこまで ゆくんだ
ずっと 磐城平のほうまで ゆくんか

─「雲」より









ユダの思い違いについて───フランコ・ゼフェレリの「ナザレのイエス」より

2016-04-23 18:57:35 | 日記
「ナザレのイエス」は、長い映画だが、この中で、ゼフェレリのユダについての解釈にとても
興味がわいたのを覚えている。そこから、少し考えてみたい・・・

弟子のなかでも優れて理性的であり、ペトロと並ぶリーダー格の存在であったとも言われる
ユダは、決してイエスを憎んでいたわけではなかった。師としてとらえていたのだ。
彼は、イエスの奇跡や、話など、弟子として、その教えに感動していた。そのため、イエスを
多くの人に知らしめたいと思っていた。しかし、師の説く愛に不満もあった。
それで、ある演出を考えていたのだ。ユダが、時のローマの管理者に密告すれば、たとえ捕まっ
ても、師イエスは、その偉大な力を持ってそこから逃れるだろう。そうなれば、それこそ、
世界にその威厳を知らしめることができる。ユダは、そう考えた。そうして、その計画を実行した。

最後の晩餐のとき、ユダはその考えにとらわれていた。そのため、うつろな自分だけの世界に
入り、イエスが、「私と同じ器から、食べた者が裏切る」と話していて、つぎつぎに弟子が
「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出したが、ユダが「あなただ」といわれても
それを信用しない様子で、気づいていなかった。
ゼフェレリは、気づいていない、その映像をなにかが掛け違っているような、不思議な感じで、
表現していた。(ダ・ヴィンチをはじめ多くの画家がこの場面の表現しているのは、圧巻である
それをうまく取り入れていた。)
そうして、イエスは、ユダのせいで貼り付けになった。ユダは、自分の思惑と違った事態になり、
イエスが罪に定められたのみて、後悔し、金を返したが、結局、首をつった。

この、ユダの思い違い、というものは、自分たちの生活のうえでもあることだと思う。
この場合、「人間のあり方」というものに目を向けていないといえないだろうか。

イエスは、個人個人の救いのために出てこられたのであり、有名になるためにでてきたのではない。
一見、有名になり、多くの人が知り、イエスの教えが伝わる機会がふえる、とてもよいことでは
ないか、となるだろう・・・
しかし、そこには、ユダの心には、サタンに入られたとしても、有名にさせようという虚栄心がある。
また、イエスの説くことを理解せず、なんとか、広めたいという欲望、執着がありはしないか。
イエスがおっしゃる「隣人愛のもたらすもの以外の感情をとりさらなければ、天国からの使いも
神もみることは、できない」ということをなしていない。心の清い人たちのやるべきでない
ことをユダはしてしまった。


心のうちに打ち立てられた 確信

2016-04-12 16:54:42 | 日記
愛するということと信じるということは同じ一つのものからでています。
愛は感情ではなく最上の理性のあらわれであるように、信じるということは
無条件の服従を意味せず、心のうちにうち立てられた確信をいうのです。

信じることにより人は苦悩や懊悩から逃れることができ、また、信義(うそを
言わず正しい道をまもること)により互いを守り、保護することもできます。
信義は、苦悩や懊悩を超え、害や悪を打ち負かすための防壁でもあり、
建設的な考えをもつ者の精神なのです。

信じるというのは、、内にこもるものではなく、それだけで外に向かって
出ざるを得ないものです。愛がその人を善へと駆り立てるように、
信もまた人を義(人がふみ行うべき正しい道理)へと走らせるのです。

       ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
 
人を信じることとは、その人の可能性を信じ同じ思いを知るものとして
対することです。時には、歪むことがあっても、その心の中に飛び込む
気持ちで忠告をすれば、必ず正しい道に戻ります。

人を信じることは、やさしい心と同じ、寛容な態度でその全人格、言葉や
行いを受け入れ、また、正しい方向に向くまで待つことです。勿論、
忠告をして待つので、その人の反省すべき点を指摘せずに待つことは
無意味です。

賢明な人には、穏やかに言葉を選び、はっきりと言わなければならぬ人には、
はっきりと。

しかし、忠告や助言に対して、反発心しかわかず、素直に受け入れがたい
独善的な人は、それ以上の向上は望めず、放置しておくしか仕方がありません。
プライドの高すぎる人も同じです。助言に柔軟に応じる人は、ますます人格が
幅広く円熟し、磨かれたものとなるのは言うまでもないでしょう。しかし、
勿論、柔軟なjだけでいつまでも賢明になれぬ者は、助言を真に受け入れたとは
言えません。

また、人を信じるとは、疑いながらその言葉を聞くのではなく、真直ぐな心で
受け入れることなのです。

人が偽りを言い、あざむこうとする時、それに気づくのは、遅くても構いません。
他の証言を得、あらゆる点から見て、あなたに真実を語らぬと分析的に証明
し得た時、はじめてあなたはその者を悪と断じ拒否すればよいのです。
その場合には、毅然として譲らずに。関係をたつことに未練を残さずに。
それまでは、お互いの善我を信じ、許しあいましょう。

─エル・ラファエルライエル参照、参考

このお話で、愛と信が同じものからでている、そして、心のうちに打ち立てられた
確信であるというのは、読んでいてはっとした。私は、そういう思いで、相手を
信じていただろうか・・・
相手の可能性を信じ、同じ思いを知るものとして対するというのも大切なことだと思う。




セザンヌを通して20世紀絵画がわかる

2016-04-05 17:15:05 | 日記
 
 

セザンヌの偉大さ

彼が考えた、自然のなかに円錐形と球形と円筒形をみいださなければならない。
セザンヌ作品の持つ真実感、存在感。
セザンヌが試みた色彩と調子の徹底した分析や、色彩をフォルムの根源的な
表現のために用いようとした考えは、今日の具象絵画を考えるとき、
おおいに参考になることだ。
セザンヌは、色彩が豊かになればなるほど、それにつれて、フォルムが充実して
くるといっている。
セザンヌは自然の触発から受けたさまざまな色彩感覚を整理し、秩序のあるかたちや
構成にまとめあげて、堅固で永久なる真実の存在物としての絵を作りあげた。
─日野耕之祐氏の産経新聞・夕刊の記事(1986・10・3)から


私が記憶している、面白いエピソードは、その時代の評論家がセザンヌは、
「レンブラントの再来だ」(共通のものを持っている、輪廻転生)、といっていたことだ。
果たして、どの観点からそう述べていたのか・・・
また、セザンヌは、ジャポニズムに影響されていないといっていたが、彼の焦点のずれた
構図などは、たとえば、道の流れのとらえかたと木々や家の配置、日本の版画の
富士山のような、山の入れ方、現代になって『芸術新潮』が特集していたことがあるが、
私は、影響されていたと思う。彼の頑固な性格が相手の指摘に妥協できなかったのだろう。

日本人の印象派の一番人気は、ゴッホであるという。日本にあこがれたゴッホは
きっと本望だろう。総体に日本人は印象派が好きだ。
後期印象派と呼ばれる人にゴッホのほかに、セザンヌがいる。私は、セザンヌの
プリズム的なタッチが好きだ、それが、だんだん極まってくると形が出来上がってくる
感じだ。それを画面で想像しながら眺めていると、感動がわいてくる。
自然の一部をそのまま写すものではなく、自然を材料にして、絵画という
一つの新しい秩序と調和をめざし、画面の組み立てを考えた。そのため、
風景でも人物でも、静物でも、自由にその一部を省略したり、変形したりした。
このような考え方がその後の絵画に大きな影響を与えたことがわかる、
セザンヌを知ることで、20世紀絵画の姿がみえてくる。

天からの使命があるのだろうか───宗教にかかわる人へ

2016-03-31 19:01:40 | 日記
何らかの宗教宗派に関わっている人はたくさんいるでしょう。
では、その方の使命はなんでしょうか。
自分の流派を広げ流布することでしょうか。

イスラムの一部の人は、全世界をイスラムの教えにすると語っている人も
います。子供もそれを自分の夢として、勉強しています。
キリスト教も植民地政策と同時にまず、教えを流布して、その教えによって
その国の質が変わったところで、政治的行動をする。たとえば、隣人愛で
その国の人の意識が変わると、強圧的にでても受け入れてくれる、という
ことが、あったでしょう。それを自分の優位の形で、使ってしまう。そのために
広めようとする・・・

聖書時代から、今日へ、時代が移り、科学というものの見方が
発達してきた。客観的にものをとらえ、論理(つなげてものごとを考え、
原因を探り、解決する形をだす)で考えていける人間の姿勢が
でてきた。より一般的に(多くの人に)通用する考え方、行動が受け入れられる
世の中になりました。

その欠点もあります。たとえば、ある、科学理論が認められると
それを元に次の研究の土台にしていく・・・。いったん認められた理論は肯定されて、
それを否定するものを排斥するということがおこります。しかし、それにめげないで
戦い、その理論を凌駕していく、気概があり、勇気のある科学者が今日を
開いてきたといえるのかもしれません。

多くの情報を日々、見て考えている人なら、一つの宗教宗派の考え方では、
足りないとに気づくことがあるのでは、ないでしょうか。
そこに、使命がでてきます。
つまり、たくさんの流派で、あり方を教えていますが、共通のものがあるはずです。
それを考え、探し出し、自分の流派から、一つの共通のさとり、境地へ移行する・・・

進化の現在、達しているのは、共存しているという意識でしょう。
動物も、本当は、棲み分けをしています。それは、本能に動かされてでしょう。
人間の場合は、おそらく、客観という見方を手に入れている。脳の働きが二つある、ということも
影響していると思える。本能に動かされながら、それを抑制しようという、葛藤の中に
存在しているように思います。万物の霊長というのは、本能をある程度制御できる
進化の体制に入っているから、つけられていると思います。
人間は、自然法則をいじることができるようになっているということです。
もちろん、自然法則にかなわない行動をすると、おそらく、死滅していくでしょう。(原子力
の無謀な使い方、あらゆる汚染、共存共栄をしない生き方・・・)
それがまた、大法則のおきてであると思います。

さあ、こういった科学の時代に宗教人がなさなければならないことは、なんでしょうか。
流派のなかで、こうしなければならないということに固執しますか。
医者や、看護士さんの役割を考えてみてください。人を救う仕事です。
彼らは、人の善悪や、人間性の良し悪しなど考えません。とにかく、命の
存続のために、自分の身を犠牲にされています。宗教の人もこころを救うなら、
何にもとらわれない境地で、人を救う必要があるのではないか。
もしその相手が自分の流派を認められない人なら、どうやってその人の悩み、苦しみを
解決してあげられますか・・・
ここに、天から与えられた宗教の人の使命が存在します。
相手の立場にたつには、どうすればよいか、という課題がつきつけられています。




もう少し、金子みすず

2016-03-25 17:01:13 | 日記
 

蜂と神さま

蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
世界は神さまのなかに。

そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂のなかに。





お花が散って、
実が熟れて、

その実が落ちて、
葉が落ちて、

それから芽が出て、
花が咲く。

そうして何べん
回ったら、
この木は御用が
すむかしら。



蓮と鶏

泥のなかから
蓮が咲く。

それをするのは、
蓮じゃない。

卵のなかから
鶏が出る。

それをするのは
鶏じゃない。
 
それに私は
気がついた。

それも私の
せいじゃない。

金子みすずのやさしさ

2016-03-24 17:59:09 | 日記
  


  雀のかあさん


  子供が
  子雀
  つかまえた。

  その子の
  かあさん笑ってた。

  雀の
  かあさん
  それみてた。

  お屋根で
  鳴かずに
  それみてた。




  こだまでしょうか

  
  「遊ぼう」っていうと
  「遊ばない」っていう。

  「馬鹿」っていうと
  「馬鹿」っていう。

  「もう遊ばない」っていうと
  「遊ばない」っていう。

  そうして、あとで
  さみしくなって、

  「ごめんね」っていうと
  「ごめんね」っていう。

  こだまでしょうか、
  いいえ誰でも。




この二編覚えていますか。これは、2011年の東日本大震災、津波が起こったとき、
テレビの放送で新しい情報が出てくるまでの間に、広告機構が流していた詩です。
私は、このとき、初めて、金子みすずさんの存在に気づきました。
なんで、このとき、広告機構がこれを流していたのか、その理由は、わかりませんが。
非常時のときに流すものとして用意していたものと思われます。
それは、ともかく、彼女の繊細な感性に大変感動しました。その後、『金子みすず 童揺集』
(ハルキ文庫 角川春樹事務所刊)を手に入れました。
テレビでも生涯を描いたものが放映されたこともありました。最後は、かわいそうな形で
亡くなっています。
人間のエゴというか、宇宙の一部という意識も弱く、身を供して他のものを生かしている
植物、動物などに気づかない、大自然の法則を無視している人とは、まったく違い、繊細な、
暖かい心で生きとし生けるものに目を向けていると切に感じています。なにが大切なのかが
わかっていた方です。

イエス・キリスト、ゴータマ・ブッダの伝えたかったこと

2016-03-23 18:50:58 | 日記
イエス、ブッダの教えは、宇宙の「法則」を悟ってそれを前提にして生き方を説いているように思います。
教えを考えていくことによって、その「法則」の重大性についてわかってくるように思うのです。
最近では、この「法則」と呼ぶものを「サムシング グレイト」と表す科学者がいます。
イエス、ブッダの考え方を倫理参考書を使って少し見てみましょう・・・


ゴータマ・ブッダ
ブッタの悟った真理=法は縁起の法であり、これは、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静(ニルバーナ)と
いう四法印を根本的特徴とする。
悟りへの道として四諦、八正道が説かれる。
縁起についての無知が我執(一切の煩悩の根本)を生む。
さらにブッダは、生きとし生けるものすべて(一切衆生)に対する慈悲の心を説いて人間の理想の姿の実現に
努めた。

イエス・キリスト
神の愛は無差別・無償の愛とし、永遠の愛であるとした。
神は人間に対し、神への愛と隣人愛を命じたとする。
使途パウロは、イエスの贖罪によって原罪にけがされた人類は、救われたとし、律法の行いによってではなく、
信仰によって人は義とされると説く。


この両者は、ブッダ=客観的とらえ方、イエス=主観的とらえ方といえるように思います。
しかし、「人間のあり方」として、同じ方向を見ているのです。
仏教では、絶対者=宇宙の根源としています。イエスは、人格神を設定していますがそれは、仏教の
絶対者と同じです。

ここで、神=霊の問題が出てきます。霊の存在自体は、最近のいろいろな情報の事例を見れば
否定はできません。仮死状態での臨死体験など、実にリアルです。これを脳の物質による仮想のものだと
する人もいますが、それは、研究が足りません。最近では、脳のシルビウス溝に電気刺激を与えると
幽体離脱することが起こり、それをカナダの大学では、体験させることをしているところがあるそうです。
自分も高校生のときに幽体離脱の経験がありますから、肉体と魂が別にあり、つながっている感覚があります。
霊魂と体の二重の形で人間は存在しているのです。霊などの別次元の世界があるのではないかということは、
量子力学がでてから、科学者も探求しだしているものがいます。

イエスが高次の霊から指示を受けたことは、あると認めるとして、では、なにが大切かというと、
「人間のあり方」なのです。
どうあるべきか、
イエスは、
「人その友のために命を棄つること。これより大いなる愛はなし。
 たがいに僕となること。
 己のごとく汝の隣り人を愛せよ。」
と説きました。

ブッダは、
「自分の心のなかにある善の自分、それこそが人間の心のすべてであり、永遠不滅の生命の根本である。
 心が善我だけならば心は、すがすがしく浄化され、何の苦しみも起こらない。
 善我とは、他人のために尽くし、愛を分け与えるということである。」
と説きます。

両者を見て、考えてみると、「共存共栄」の法則が見えてくるのです。

太陽系・第3惑星、地球人としての心得は「共存・共栄」

2016-03-22 19:05:33 | 日記
自然、人間、動物、植物を問わず、ありとあらゆるもの、ならびに現象は宇宙にその源をたどるものであり、
宇宙は、万物を一つに統一していように見える。
つまり、
宇宙は、宇宙の構成、宇宙の仕組み、変化しつつ、恒常的であって形は変わるが絶対的存在は、
変わらない不変のもの。そのあらゆることがらや現象を産み出したものと見做される。
これは、宇宙は、「法則」(決まった条件のもとで常に成立する関係)に従っていると推察される。
だから、人間はこれを神と同じものと定義すべきものではないか。

人類が残した先人の優れた考えを見てみると、四大宗教を始め先人の優れた、教えは、あまねく、
「同じ法則」に従うものであるといえそうだ。(大宇宙、大自然の法則と呼べるのではないか・・・)
「共存共栄」はこの法則をわかりやすくとらえた真理だと思う。
従って、宇宙の一部である人間は、お互いに助け合い、身を供して他のものを生かしている植物や動物、
あるいは、恒星と惑星間のつながりにも見られる大自然の法則を無視して勝手な行動にでるのは、
許されないことになる。

「共存共栄」の意識を上手に使い地球に生きるものとして気概を持って生きたい・・・