真実であり、本当であるものは、いつでもどこでも真実であり、本当のものです。
たとえば、敬虔なキリスト教徒と、敬虔な仏教徒に区別はありません。心を
浄化し、生活を信心深いものにし、聖なるものを目指す向上心を持ち、真理を
愛することは、仏教徒もキリスト教徒も同じです。仏教におけるよい行いは、
キリスト教におけるよい行いと変わるところがありません。
罪に対して自責の念を感じ、悪い思考や行動を悲しむのは、キリスト教徒だけ
ではなく、すべての精神的な教えを実践する人の心の中から生まれてくるのです。
どんな教えでも、憐れみが必要だというのは同じように素晴らしいこととされて
います。また、愛が必要だというのも、同じく素晴らしいこととされます。
すべての思想の土台は同じであり、同じ基本的な真理を説いています。しかし、
これらの真理を実践せずに、自分が経験して知らないことについて意見を述べた
り、仮説を立てたりしてしまうと、自分たちの独自の理論をぶつけ合い、お互いに
言い争うようになってしまうのです。
相手を非難することは、相手を迫害することにつながっていきます。「わたしは
正しい。あなたは間違っている」という考え方は、憎しみの種となります。
スペインの異端審問は、この憎しみから生まれました。
不変の真理を見つけたいと思う人は、独りよがりの考えをやめ、憎しみに満ちた
非難をぶつけ合うことをやめなければなりません。心の中から「他の人はみんな
間違っている」という有害な思考を取り除き、「間違っているのはわたしだ」と
言う悟った思考をしなければなりません。
そして、このように考えるようになると、罪を犯すこともなくなり、すべての人に
大して愛と優しさをもっていきることができます。また、分け隔てすることなく、
どんな不和にも加担せず、調停する人となり、派閥を強化することはありません。
こうして慈愛をすべての人に向ける生き方をしていくならば、みんなとともに
生きる人となれます。
そして、このような人は、大宇宙の真理、永遠の真実を理解します。というのも、
分裂を生み出すのは間違った考え方と自分本位の心ですが、逆に真理は
真理そのものを明らかにし、すべての精神的な教えは一つになるからなのです。
─『「意志」と「人生」の法則』ジェームズ・アレン KKベストセラーズ刊
■共存共栄を、当たり前と思ってしまうが、その意味は精神的な教えとなって
いる・・・・
確か、ダライ・ラマがキリスト教と同じ境地であることを語った本があったと
思うそれは、やはり、アレンと同じことを述べていたと思う。
たとえば、敬虔なキリスト教徒と、敬虔な仏教徒に区別はありません。心を
浄化し、生活を信心深いものにし、聖なるものを目指す向上心を持ち、真理を
愛することは、仏教徒もキリスト教徒も同じです。仏教におけるよい行いは、
キリスト教におけるよい行いと変わるところがありません。
罪に対して自責の念を感じ、悪い思考や行動を悲しむのは、キリスト教徒だけ
ではなく、すべての精神的な教えを実践する人の心の中から生まれてくるのです。
どんな教えでも、憐れみが必要だというのは同じように素晴らしいこととされて
います。また、愛が必要だというのも、同じく素晴らしいこととされます。
すべての思想の土台は同じであり、同じ基本的な真理を説いています。しかし、
これらの真理を実践せずに、自分が経験して知らないことについて意見を述べた
り、仮説を立てたりしてしまうと、自分たちの独自の理論をぶつけ合い、お互いに
言い争うようになってしまうのです。
相手を非難することは、相手を迫害することにつながっていきます。「わたしは
正しい。あなたは間違っている」という考え方は、憎しみの種となります。
スペインの異端審問は、この憎しみから生まれました。
不変の真理を見つけたいと思う人は、独りよがりの考えをやめ、憎しみに満ちた
非難をぶつけ合うことをやめなければなりません。心の中から「他の人はみんな
間違っている」という有害な思考を取り除き、「間違っているのはわたしだ」と
言う悟った思考をしなければなりません。
そして、このように考えるようになると、罪を犯すこともなくなり、すべての人に
大して愛と優しさをもっていきることができます。また、分け隔てすることなく、
どんな不和にも加担せず、調停する人となり、派閥を強化することはありません。
こうして慈愛をすべての人に向ける生き方をしていくならば、みんなとともに
生きる人となれます。
そして、このような人は、大宇宙の真理、永遠の真実を理解します。というのも、
分裂を生み出すのは間違った考え方と自分本位の心ですが、逆に真理は
真理そのものを明らかにし、すべての精神的な教えは一つになるからなのです。
─『「意志」と「人生」の法則』ジェームズ・アレン KKベストセラーズ刊
■共存共栄を、当たり前と思ってしまうが、その意味は精神的な教えとなって
いる・・・・
確か、ダライ・ラマがキリスト教と同じ境地であることを語った本があったと
思うそれは、やはり、アレンと同じことを述べていたと思う。