平和をたずねて:描かれなかった惨劇/1 引き返し続けた特攻兵
太平洋戦争末期、陸軍の特攻基地が置かれた鹿児島県知覧町。沖縄に押し寄せる連合国軍艦船に、250キロ爆弾を装着した飛行機もろとも突っ込んで自爆するため、ここから多くの若者が飛び立っていった。その台地に建つ知覧特攻平和会館には、特攻死した1036人の若者の遺影や遺書、日記、手紙などが並ぶ。
4月26日に訪ねると、一般の観光客に交じって制服姿の若い陸上自衛官の一団が、62年前に同世代の若者たちが書き残した文章に目を走らせていた。会館によると年間の入場者は60万人を超え、自衛隊からも部隊ごとに100人単位でよく研修にくるという。
「あんたらも命令されたら特攻に行くんかい」
私の隣にいた自衛官に、突然、そばにいた老人の一人が声をかけた。
20代初めとおぼしき制服の若者は一瞬、虚を突かれた様子で沈黙し「そうならないようにしないといけないと思います」と答えた。
「うまいこと逃げたなあ」
老人たちがはやすと若者は真顔になり、「でも、命令なら行かないといけないでしょうね」と言い直した。
「そうか。やっぱり行くんか」
老人たちは満足げな声を上げた。
250キロ爆弾を抱いた戦闘機「隼(はやぶさ)」で、知覧から北東に50キロ離れた同県隼人町(現霧島市)まで飛び、父母の目前で畑に突っ込んで死んだ特攻兵がいた。しかもその畑には子供を含む4人の女性がいて、そのうち2人が巻き添えになって死んだらしい。そんな話を耳にした私は5月16日、事実を確かめるためJR日豊線の隼人駅に降り立った。
事件が起きたのは昭和20(1945)年5月30日。操縦していたのは同町出身の少尉(当時30歳)で、南西の空から町に飛来した「隼」は、彼が生まれ育った家、卒業した小学校、そして麦刈りに汗を流していた父母の頭上を何度も何度も旋回した。それから急激に高度を下げ、日豊線の線路と並行して走る高圧線に接触して畑に突っ込んだという。
機体はそこにいた2人の女性を巻き込み、土煙を上げながら畑を滑って線路脇の土手に激突し、大破した。抱いていた250キロ爆弾は爆発せず、線路に突き刺さったが、少尉は外に投げ出されて即死した。
特攻兵のもとには親の許しを得ぬまま結婚した妻が東京から訪ねてきており、父親に出撃前の入籍を懇願しては拒絶されていた。何度出撃しても機体の故障を理由に引き返してくる彼は「女に未練を残して死ねない卑怯(ひきょう)者」と非難され、懲罰的な単独出撃を命じられたその日も「脚が引っ込まない」と帰ってきていた。地上では正常に作動するため、その場で試験飛行を命じられ、信管が抜かれた爆弾を抱えたまま飛び立ったという。
「雄々しく美しかったかつての日本人の姿を描いて伝えたい」と、東京都の石原慎太郎知事が製作を指揮した公開中の映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」には、この特攻兵をモデルにした田端紘一少尉という役が登場する。作中、試験飛行を命じられた田端は離陸直後に「隼」のエンジンが停止してそのまま滑走路に墜落、単独で爆死する。しかし事実はそれほど単純ではなかったのである。
「美しい国へ」の中で安倍晋三首相は、知覧から出撃して特攻死した若者の日記を引いてこう書く。
《自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。(中略)死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである》
「大義」に殉じるよう人々が強いられた果てに何が起きたのか。描かれなかった惨劇を追う。【福岡賢正】<次回は13日に掲載予定>
毎日新聞 2007年6月6日 西部朝刊
平和をたずねて:描かれなかった惨劇/2 特攻機に母を殺されて
昭和20(1945)年5月30日、10歳だった前平民子さん(72)は鹿児島県隼人町(現霧島市)の麦畑で、母親のヒデさん(当時38歳)とともに刈った麦をひっくり返す作業をしていた。爆弾を抱いた戦闘機「隼(はやぶさ)」はそこに現れた。
民子さんは振り返る。
「上をぐるぐるぐるぐる回るんよ。それから急に高度を下げてこっちに向かってきた。父が2年前にニューギニアで戦死しとったから、母は笠(かさ)を手に取って大きく振りながら、『仇(かたき)を討ってくれー』と飛行機に向かって走り出したんよ。そしたら電線に当たった飛行機が、あーっちゅう間に落ちてきて。うちは土手に伏せたんよ。そんまま気絶したんかなあ、目が覚めた時は兵隊さんに抱きかかえられとった」
ヒデさんが走っていった隣の畑では、竹原田信子さん(当時18歳)と8歳の妹が空豆を摘んでいた。戦闘機を怖がって逃げた妹は間一髪で難を免れたが、信子さんとヒデさんは機体に直撃された。
ヒデさんには民子さんのほか、3人の息子がいた。13歳だった長男の和真さん(75)は裏山から木を切り出す勤労奉仕中に飛行機が落ちるのを見て、現場に走った。
「近くまで行くと、うちの畑の横じゃなかね。お母はんは、と思って捜すと、まだ生きとった」
ヒデさんの下半身は肉片となって砕け散っていたが、腰から上は形をとどめていた。
「目をまん丸にこう、見開くだけ見開いてね。うちをにらんでいるみたいだった。髪の毛はパーッと立っとった。子供だからお母はんにすがりつきたいわけよ。でも下半身がなかろうが。抱きつきもできんで。うちはもう頭の中が真っ白になってしもうて」
そのまま意識を失って倒れたのか、和真さんにはそれ以後の記憶が全くない。それから1カ月余りを、夢遊病者のようになって過ごした。学校から家に帰る道も分からず、友だちに送ってもらっていたという。
「思い出すと、頭が痛くなるんよ」
そう言いながら、和真さんは頭の後ろに手をやった。そして「ごめんね」と謝りながら、座っていた椅子の上で斜めに体を伸ばし、背もたれに後頭部を押しあててマッサージを始めた。
「笑顔がでないんよ、今でも。時々意識が離れていって、自分が何をしているのか分からなくなるの。1時間ぐらいボーッとしていたり、気が付いたら変なことをしていたり」
枯れたミカンの木を切っているつもりが、気付いたら元気な木まで切ってしまっていたこともある。嫁いだ娘の家に行った時、服を着たまま風呂につかっていたこともあるという。
和真さんの状態を知り合いの精神科医に話すと、明らかに心に打撃を受けた後遺症とした上で「ひょっとしたら事件の後、泣いておられないのではないか」と言い添えた。電話で和真さんに尋ねると、確かに泣いていないという。
「涙も出ないということが本当にあるんよ。すがりつけなかったし、頭の中が真っ白になってね。正気に戻ってからは生きていくのに精いっぱいだったから」
悲しみ、怒り、絶望、不安……。そんな感情を涙で洗い流すこともできず、未消化のまま胸に抱えて生きてきた62年だったのだ。
「自分が自分で分からなくなるんよ。不安よお。こんなふうだから人からはいろいろ言われてる。でもうちは何を言われても言い返さんの。言い返せんもん。ひょっとしたら何かしたかもしれんわけだから」
そう言うと和真さんは小さな声でつけ加えた。
「もう治らんのよ」
国に死を強制された特攻兵が、苦悩の果てに引き起こした惨事。その現場で少年が目に焼き付けてしまった母親の断末魔の姿は、はるかな歳月を経てもなお、その人の心と体をえぐり続けていた。【福岡賢正】<次回は20日に掲載予定>
毎日新聞 2007年6月13日 西部朝刊
平和をたずねて:描かれなかった惨劇/3 罪作りな時代だった
62年前の5月30日、鹿児島県隼人町(現霧島市)の畑に突っ込んだ特攻機に直撃され、前平ヒデさん(当時38歳)とともに死んだ竹原田信子さん(同18歳)には、7人の兄妹がいた。その妹の1人、川越愛子さん(75)が存命だと聞き、自宅を訪ねた。
生家近くの小さな家に1人で暮らす愛子さんの両目は、一見しただけで瞳の色が薄いのが分かる。9歳の時から眼病に苦しんできたと言い、惨劇が起きた13歳のその日も家にいた。
「私は目が悪いもんだからねえ。学校にもあまり行ってないんよ。でも姉の信子は賢いやつでね。看護婦になっとったの。それが指宿の結核病院だったから、親が結核を怖がってね。連れて帰ってきたんよ。それであんな目に遭ってねえ」
愛子さんはゆったりと話し始めた。
ヒデさんは上半身が形をとどめていて、それが長男の心に深い傷を残したが、信子さんの体はプロペラに巻き込まれたのか、全く原形をとどめていなかった。
「バラバラやがな。姿がないんよ。みんなで散らばった肉を拾ってね、肌が若いならうちんげ、そうじゃないなら前平さんげと分けたんだと。20歳違えば分かるわね。そうやって、モッコにムシロと布団を敷いたものに乗せて父が連れて帰ってきましたよ。『これがうちの信子や』言うてね。体を傾けて、寂しそうに帰ってきましたよ」
それから日を置かぬうちに、追い打ちをかけるような悲報が竹原田家に舞い込んだ。フィリピンに出征していた26歳の次兄が、敵の飛行機の攻撃を受けて死んだというのだ。戦死の日付は5月12日となっていた。
「同じ月ですよ。ひと月に2人も。すごいショックですよ。兄はアメリカの飛行機、姉は日本の飛行機にやられたんですがね。母は血圧がはね上がって、寝込んでしまいましたよ」
それでも大っぴらに悲しむことは許されなかった。お国のために死ぬことが「大義」であり「名誉」とされていた時代である。
「ほんと、罪つくりですよお」
愛子さんは思いを吐き出すようにそう言った。
「たくさんおった兄や姉や妹たちは、もうみんな死んでしまいました。主人も9年前にね。結局、私一人残って。姉の信子が生きていたら、今80歳でしょ。どんな人生送ったんかな思うと、涙が出ますよ」
戦後、愛子さんの長兄は妻と3人の子を次々に失い、東京で再婚したが、やがてその伴侶も亡くして帰郷した。体を壊したその兄の世話をし、最期を看取(みと)ったのも愛子さんである。
家の中に上がり込み、そんな話に耳を傾けていると、突然子供の声が響いた。
「あいこー。達者でやってるかい」
驚いて声の主を捜していると、愛子さんがニヤニヤしながら「人形ですよ」と棚の上を指さした。
「家の中に1人でいると寂しいんよ。誰ともしゃべれないでしょ。だからおもちゃを買ってね。ポコちゃんって名前つけたんよ。話しかけるといろんな言葉を返してくれるんよ。時間が来ると、もう眠いわとか、おやすみとか言ってくれるし。かわいいよお」
そう言うと愛子さんは人形をギュッと抱きしめた。
愛子さんはポコちゃんのために毛糸で座布団を編んでいた。よく見ると人形の服も帽子も手編みだ。
「学校行ってないから、こんなことしかできんがね」
ポコちゃんを編みかけの座布団に座らせながら、愛子さんは笑った。
不自由な目をかばいながら懸命に生き抜いて、病の兄や夫を看取り、老いて残された今は人形のために編み棒を動かす。それは国のために玉と砕け散ることを強いる「大義」からははるかに遠い。けれども彼女の生き方は、切ないくらいに美しい。【福岡賢正】
毎日新聞 2007年6月20日 西部朝刊
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