docomoはどんどん新しくなるなあ

2010-11-08 15:12:33 | インポート


あちこち、ニュースを開いて見ていたら机さんが書いていたdocomoの新機などの話しが出てきた。

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20101108_docomo_tablet/


いいなあ、でもこちら当分このままだわさ。スマホはどうでもいいけど、docomoの新しい高速通信サービスのほうは、今のままだったらなるべく早く取り入れたいよ。といっても諸事情により、来年の夏以降だな。まあ、どうせエイサーもバッテリーは2時間しか保たないし、旧式タブレットも1時間だから、今のままでも何んてことはないといえば何んてこともないけどね。ただ5Gまででその値段なら使いたいと思うじゃないの。

でもそうこう言っているうちにどんどんもっとよいものも出てきそうだし、当分マリーさんに働いてもらって、時を待ちましょうね。それよりこちらの状況をもうちょっと何とかするのが先だもの。とにかくこちらも今をがんばらなくっちゃー!!


日本では真夜中のヨーロッパで

2010-11-08 11:48:28 | インポート

※ 昨日の日記です。WagaMaga以来の交友関係のSNSから再録。

土曜日は寝坊した割りに朝から一日中結構忙しかったから、夜は聖歌隊の練習が終わったらさっさと帰って早く寝るつもりだったのにとんだ番狂わせで、けっきょく寝たのは今朝の5時近く。勿論本日も大寝坊で、目が覚めた時はお昼過ぎ。今日こそはちゃんと時間調整して早く寝て明日は普通に早起きしなくては。

 何故そういうことになったかといえば、twitterとフェイスブックで、ヨーロッパからの興味深いニュースが流れてきていたためです。向こうとこちらはだいたい七、八時間の差があるので、うっかり引き込まれると夜が明けてしまいます。ところが日本時間の昨日の夜中にはカトリック教会の最高責任者、ローマ教皇ベネディクト十六世が、スペインを訪問していて、現地からの立派なミサの生中継をカトリックのネット経由で流しているのをフランスにいる方が日本に紹介してくださり、つい長々と最後まで見てしまったのでした。何と言ってもこのベネディクト十六世こそは、バチカンをユーチューブや、フェイスブック、ツィッターでどんどん紹介するようにした教皇様です。保守派の神学者として知られていたこの方が実は教会の宣教方法には時代の最先端を取り入れているのですから驚きです。
 

そんなわけでヨーロッパのこの季節に付き物の食べ物を教えていただくと、ドイツにいる知人は聖マルチンのお祝いに欠かせないガチョウ料理を紹介してくれました。日本でガチョウ食べられるところなんてあったかしら?
 

そして、最近は日本でも簡単に手に入るようになったクリスマスのお菓子、シュトーレン。今年はどこの店のも小型のものばかり見かけています。 .


昨日のはなし

2010-11-07 01:28:01 | インポート
昨日は11月の初めの土曜日。朝、目が覚めるとすでに9時過ぎで、いつもならこの時間に出かける時間だから、あわてても間に合うわけがない。さっさとあきらめて聖書の集いに行くのは休むことにした。 先日の漏洩騒ぎ以来、それが関係しているのかどうかは知らないがずっと込み合っていてなかなかアクセスできなかったtwitterを開いてみると今朝はまあまあ大丈夫。知人たちと挨拶していると、大阪教区の神父様のところで、ある末期ガンの方のことで、その方の様子を見て神父様までいたたまれなくなっておいでのようだった。もっと生きていて教会のために働きたいとおっしゃっているのだとか。 非常にお気の毒ではあるのだけれど、永遠の生命を信じるというからは、この世で教会のために働くばかりでなくて別の形で働くこともあるのではないかと思う。人間のレベルでは全体の一部分しか見えないから、自分のやってきた仕事をもっと実らせたいとか、いろいろ考えるけれど、たぶん上のほうから見るとすでに全体の構図が見えていて、その方のこの世での与えられた役割はきちんと終わっていて、次にそれを引き継ぐべき登場人物が決まっているのかもしれないとも思える。 人間は神様のなさることの意味を、本当に何も知らないし、わからない。ただ、それはその人にとって一番よいことだからそうなるのだと信じることはできる。アンデルセンの童話に、一人の母親が双子の赤ちゃんを残して死ななければ成らないのを悲しんでいるのを見て、死の天使が神様のお言いつけに背いてその母親を助けようとして地上に落とされ人間の世界で暮らしながら、母親の子供たちがどのように成長していったかを自分の目でみて、神様のみ摂理をやっと悟り、天井に戻っていくという話しがあったのを思い出す。 神様はその人のために一番よいことをなさるのではないだろうか。その出来事を通して回りの人たちにも何かを語りかけているのではないか、何かを教えたいのではないか、と思えてくるのだ。 それからまた、次は別のはなしで、聖イグナチオ教会でもしばらく働いてくださっていた、インドネシア人のバンバン・ルディアント師からの、インドネシアの自然災害で受けた大きな被害の状況の知らせを、知人のSNSのページ、またブログでも見て驚いてしまった。世界のあちらこちらで大きな地震や噴火や津波がいくつも起こっているために、つい鈍感になっていたのだが、インドネシアの状況はだいぶひどいことになっているようだ。バンバン師を覚えている方々、何かできそうなことがあったらどうか手を貸してほしいと願うばかりだ。 そんなこんなで夕方のミサの聖歌隊の練習に出かけた。今日は月に一度の新垣先生の指導の日で、前練習から本番、後練習までしっかりと新垣先生の聖歌についての考え方もうかがうことが出来た。マンモス教会の聖歌隊は各ミサの時間帯でそれぞれ別の聖歌隊が受け持っているから、ばらばらにならないように聖歌隊の代表が集まって歌を決めて統一しているわけだが、そのとき、やはりどうしても歌の祈り、歌の心を深く見て決めるというより、時間内に間に合うようにということが結構あって、今日もクリスマスの歌の内容のことで先生がこれはちょっととおっしゃっていたのだが、今年はすでに変えられるわけがないから、来年の代表はクリスマスの歌を決めるときせっかくの新垣先生の指摘を誰か、聖歌隊の指導司祭なり、オルガニストなりに伝えて考えていただきたいものだと思う。 一週間は長い。けれど一日は短い。朝からあっという間にこんな時間だ。繰り返しになるけれど、神様のなさることはそのとき意味がわからなくても、その人にとって一番よいことだからそうなるのだと思う。だから私も当分はそれ以上文句は言わずに自分にできる仕事、書くことに力を入れるつもりだ。

物語を書くということ

2010-11-04 17:56:22 | インポート

以下は、bloggerに書き、facebookにリンクしてあるので、そちらからも読めるが、向こうはSNSで、メンバーしか読めないから、こちらにも置いておく。


子供のころから運動は苦手だったが、空想の世界で遊ぶのは大好きだった。現実にそこにあるものも想像力のめがねをかけて見ると、ぜんぜん違うものに変わるのだ。犬や猫は口が利けて話しかけてくるし、木や草花も自分の話を聞かせてくれる。

そんなわけで、空想の世界で見たものでお話を作るのも好き、物語を文章に書いてみるのも好きだった。その延長で祈りながら心に浮かんでくるものを物語の形で書いてみるようになったわけだ。

それが『公園のお風呂ダヌキ』をはじめとしたいくつもの物語だった。ところがどうも不思議なことに、肝心のカトリック教会で、それが読み取れる人が少ないのには驚く。大人でも、子供でも誰にでもわかる形で祈りから生まれたものを書いてみようと始めたのだが、それを見ても、こんなものは誰にだって書けるくらいにしか見えないらしいのだ。がっかり。

わかりやすいように書くのは結構大変なんだぜ、と心の中でぶつくさ言ってみても、わからない人にはわからないらしいということがわかっただけだ。ではと、なるべく難解な話にすると、今度は本当にわからないから面白くないということになる。まったくうんざりしてくる。

もう、今度からは人に見せるためではなくて自分が読みたいもの、面白いと思うものを書いてみようと思う。好きなもの、楽しいものでいくつもりだ。ケータイのマリーさんには改めて登場してもらおう。
一作に準備から最後までだいたい半年以上かかるから、先は長いぞ。


メモ3

2010-11-04 10:22:03 | インポート

 ・・・・・  とにかく、仕事だ、書くための準備だ。

 

 @xxxxxxxxx  人を信用しすぎたのよ、いつものことだけど。

 
  @xxxxxxxxx  なさけない、かなぴい記憶だす。

 
 拓さんとこもなかなか大変なようだ。


無から有を生み出す仕事を簡単に考えないでくれ。

 私は独立した一個の書き手で人にアイディアを提供するために書いているのではない。イエズス会経由で利用されるだけではこちらも現実に困るのだ。犯人は今はもう引っ込んだけれど。
 
 数学の美を書いてみようと思い、アイディアをある人に伝えたら、みごとに別の人に使われてしまった苦い記憶。新潮社よ、あのアイディア、何処から持ってきたのだ?忘れない。 ほかにもあったな。

 読み手の力量も問われる。心の深い人が読むのと、浅く生きている人が読むのとでは語られていることが何を言おうとしているのか理解の度も違ってくる。もはや今回はこれから書くものは誰にでもは見せないだろう。無駄だから。

 一つの新しい創作を書く、新しい物語を生み出す、ということをあまり簡単に考えないで欲しい。書く方は楽々と書いているわけではない。何もないところから材料を集め、構成し、形にしていくのだ。それはプロの方々もアマチュアも変わらない。ひとの心を動かすのは簡単ではない。

 


状況が少し変わった

2010-11-02 14:37:24 | インポート

当分、ここは休業にするつもりだったのが、uhuruのSNSがついに末期状態になってきたので、あちらに書いてきた分をどこに持っていくかと考えると、どうもここしかなさそう。twitterにメモったものもまとめておいて置く場所としてはここしかなさそう。

bloggerは知り合いがご夫婦でtwitterをはじめ、ご亭主殿がまたbloggerとfacebookも使っているので、お付き合いで読者になってしまったため、あまり個人的な話をあちらには置けない感じ。結局、本当にここやgooのように押入れや物置にしておける場所は限られていると思う。仕方がない。

まあ、当分は本当にメモくらいになる見込みだ。

 

 


メモ2

2010-11-01 15:11:02 | インポート
 
というわけで、しばらく新しい話の創作を考えようと思う。エネルギーの量は一定なので、さほど能力のあるわけでもない当方、一度にいくつものことはできない。ひとつのものを生み出すのには集中しないととても無理だと思う。当分、ブログはあまり書かないと思う。
 
 
 
 それこそ、せっかくのネットブックが生かせるよ。ネットにつながないで、書き物用に使うんだ。まあ、とにかく、アイディアを探せや、すべてはそれからだね。

 人が読んで面白いと思うものは、お前だって書いていて面白いもの、楽しいもののはず。新しいアイディアの泉を掘るんだね。足腰の弱いあんたには書くことしかないじゃないか。がんばってみろっちゃ。

 だいたい、人を信用しすぎたから大事な原稿を盗まれちゃったんじゃないか。これはちゃんとパソコンで公開しているものと別に新しい作品を書くしかないだろう。このご時世だし、まずは自分でがんばってみるんだね、お前。

 うーむ、文句を言っているより、自分の生活のための書き物をしたほうが実際的かもしれない。読みたければお金を払ってもらえるようなもの、どうしたらよいか? 少し本気で考えよう。

 


今日は諸聖人の祝日

2010-11-01 12:53:51 | インポート

今日、明日は夕方のミサが歌ミサで合同聖歌隊だからそちらに参加する予定だ。


ちょっと話が変わるが、twitterのカトリッククラスタを見ていたら気になるはなしが出ていた。聖イグナチオ教会で1962年ミサを(当然、赤羽教会でしたような、古典的グレゴリオ聖歌付でたぶん、小田憲二さんとかいう方が指揮してでしょうね)やってほしいと希望を出して断られたので、その筋に訴えたのだとか。ローマに訴えたとなるとこれはどうなるのかなあ。

ついでに、オダケンジの正しい文字を確認しようと調べたらこんなのがあった。

日時:10月31日(日)14時~16時 場所:カトリック大阪司教館1階集会室 講師:小田賢二(教会音楽家・国立音楽大学講師) 費用:無料 主催:大阪教区典礼委員会 ※終了後オルガン担当者 ...

大阪の大司教さまはイエズス会の池長師だけど、池長師は承認してるのかしら。一介の平信徒のこちらは決められたことに従うだけだけど、なんか変なのねえ。

ちょっと見のさまざまな予兆からすると、たぶんこれからまたラテン語復活の傾向に向かうのかもしれないけど、人口の1%しかキリスト教徒のいない国でそれはどういう意味があるんじゃろか?まあ、まだ当分様子見かなあ。ただの聖歌隊の歌決めではあるまいし、なんとも不安なものがあるんだけど。


 とにかく、今日は諸聖人の祝日で、明日は死者の日。11月は死者の月で、我が誕生月でもあるのだ。

あっという間に1年が経っていく。だが、どうも様子を見ているとこちらの正しい状況は伝わっていない感じで、さすがに少々焦るではないか。いや、それならそれでもよいが、それならそれなりにこちらも事態に対処していかねばならぬ。上のかたがたはご自分たちが老人だからわかっていないのだとおもう。

年をとっても丈夫で頑健、比較的活動的な方が、ご自分を基準に他者を判断していられては困るではないか。こちらは元々体質で足腰が丈夫でなかったのが、最近は足元はよろよろ、腰元はふらふら、杖や、車付きのキャリーバッグが手放せなくなってきているのだ。

一見、白髪が少ないから若く見えても現実はしっかりとオババ化してきているのだ。そちらが何も手を打たず放っておくつもりなら、こちらはこちらで今後のために本気で何とかしないと困るのは私自身なのだ。

お金がなければないなりに、しかし、自分の生き甲斐、意味、目的につながる出費は削らないで、生活できるように考えていかねばならないと思う。それこそ、昨日の生活保護を受けられてもそこから逃げ出すホームレスのはなしが教えている通りだと思うからだ。なければないなりに、しかし、人間としての最低限の必要、存在の意味を感じさせない生活はごめんだ。

これまでの状況を考え、今のままでいたいとは断じて思わない。責任をとる気がないなら、これまで黙って我慢してきたことをはっきりさせていくだけのこと。法テラスはあなたの問題はただの負債処理などではないからうちでは引き受けられないから、一般相談に行くようにと言っているし、本当にどうしようもなさそうならこちらもそうするしかないと思っている。

神は愛なり。しかし、愛のうちには正義と公平も含まれているはずだ。ちゃんと人の話を聞こうとしないで、なにがわかるというのか。

以上、誕生月にあたって、これだけは言っておきたいと思ったので。