種々、考えを巡らす

2010-11-27 10:24:33 | インポート
ここは押入れというくらいで、半分物置のようなものだ。まだ当分寝かしておく材料や、昔のことなど、何でもかんでもごた混ぜにおいてある。読む方は判断に苦しむかもしれないが、深く考えないで読み飛ばしていただきたい。

それは良いとして、今回新しい話を書くつもりなのだが、考えて見るとここに一緒に入れておいてはこちらとしてもまずいかもしれないと気がついた。普通に一般に公開するのはまだ先にしたいと思う。

というわけで、もう一箇所、これはあまり誰でもは読めない形で場所を作ろうと思っている。まとまった話にするにはそのほうが落ち着いて書けるからだ。自分で全体を読み返しながら書き直したりしていくための場所で公開用ではないものが必要だと感じるためだ。ご理解願いたい。

その話はそれとして、次もあまり一般的ではない話になる。ごめんなさい。

実は先だって、六本木で開かれた在世フランシスコ会の総会に参加させていただき、そこでうかがった谷崎神父さまのお話で、やっと吉祥寺で山口神父さまがこのところ取り上げていた、リヴォトルトの意味がわかってあっと思ったからだ。

自分の心の中にあるものを見ていくと、カルメル会も嫌いではない。中学生のときから知っている幼きイエズスの聖テレジアの考え方は今でも大好きだ。十字架の聖ヨハネの祈りの生活もすばらしい。けれど、自分にとって一番ピンと来るのはというと、どうも聖フランシスコの神様だけに頼る生き方のようなのだ。それはまた幼きイエズスの聖テレジアの道にもつながっている。

そして現実に自分が直接見る機会を与えられたのは。昔の、まだ観想会のひとつだったころのイエズスの小さき姉妹の友愛会の生活で、そこで一番心を惹かれたのは世俗の真っ只中での観想生活というテーマだったのだ。

なぜか、とんでもないことばかり起こって修道生活どころかえらい大変な状況になっている現状なのだが、心の中心にあるものは変わらない。どんな形であれ、神様と他の人のために生きたいものだと思う。どういう風に、と思うとき、フランシスコのリヴォトルトの生活は、昔の小さい姉妹会の世俗の真っ只中での観想生活に通じるものではないかと今回思い当たったわけだ。

この先どうなるのかはまるでわからないが、当分、在世会には行ってみるつもりだ。今の状況のままだとその先には進めそうもないのが情けないが、時機を待つしかない事だってあるのだ。仕方がない。