今日、明日は夕方のミサが歌ミサで合同聖歌隊だからそちらに参加する予定だ。
ちょっと話が変わるが、twitterのカトリッククラスタを見ていたら気になるはなしが出ていた。聖イグナチオ教会で1962年ミサを(当然、赤羽教会でしたような、古典的グレゴリオ聖歌付でたぶん、小田憲二さんとかいう方が指揮してでしょうね)やってほしいと希望を出して断られたので、その筋に訴えたのだとか。ローマに訴えたとなるとこれはどうなるのかなあ。
ついでに、オダケンジの正しい文字を確認しようと調べたらこんなのがあった。
日時:10月31日(日)14時~16時 場所:カトリック大阪司教館1階集会室 講師:小田賢二(教会音楽家・国立音楽大学講師) 費用:無料 主催:大阪教区典礼委員会 ※終了後オルガン担当者 ...
大阪の大司教さまはイエズス会の池長師だけど、池長師は承認してるのかしら。一介の平信徒のこちらは決められたことに従うだけだけど、なんか変なのねえ。
ちょっと見のさまざまな予兆からすると、たぶんこれからまたラテン語復活の傾向に向かうのかもしれないけど、人口の1%しかキリスト教徒のいない国でそれはどういう意味があるんじゃろか?まあ、まだ当分様子見かなあ。ただの聖歌隊の歌決めではあるまいし、なんとも不安なものがあるんだけど。
とにかく、今日は諸聖人の祝日で、明日は死者の日。11月は死者の月で、我が誕生月でもあるのだ。
あっという間に1年が経っていく。だが、どうも様子を見ているとこちらの正しい状況は伝わっていない感じで、さすがに少々焦るではないか。いや、それならそれでもよいが、それならそれなりにこちらも事態に対処していかねばならぬ。上のかたがたはご自分たちが老人だからわかっていないのだとおもう。
年をとっても丈夫で頑健、比較的活動的な方が、ご自分を基準に他者を判断していられては困るではないか。こちらは元々体質で足腰が丈夫でなかったのが、最近は足元はよろよろ、腰元はふらふら、杖や、車付きのキャリーバッグが手放せなくなってきているのだ。
一見、白髪が少ないから若く見えても現実はしっかりとオババ化してきているのだ。そちらが何も手を打たず放っておくつもりなら、こちらはこちらで今後のために本気で何とかしないと困るのは私自身なのだ。
お金がなければないなりに、しかし、自分の生き甲斐、意味、目的につながる出費は削らないで、生活できるように考えていかねばならないと思う。それこそ、昨日の生活保護を受けられてもそこから逃げ出すホームレスのはなしが教えている通りだと思うからだ。なければないなりに、しかし、人間としての最低限の必要、存在の意味を感じさせない生活はごめんだ。
これまでの状況を考え、今のままでいたいとは断じて思わない。責任をとる気がないなら、これまで黙って我慢してきたことをはっきりさせていくだけのこと。法テラスはあなたの問題はただの負債処理などではないからうちでは引き受けられないから、一般相談に行くようにと言っているし、本当にどうしようもなさそうならこちらもそうするしかないと思っている。
神は愛なり。しかし、愛のうちには正義と公平も含まれているはずだ。ちゃんと人の話を聞こうとしないで、なにがわかるというのか。
以上、誕生月にあたって、これだけは言っておきたいと思ったので。