物語を書くということ

2010-11-04 17:56:22 | インポート

以下は、bloggerに書き、facebookにリンクしてあるので、そちらからも読めるが、向こうはSNSで、メンバーしか読めないから、こちらにも置いておく。


子供のころから運動は苦手だったが、空想の世界で遊ぶのは大好きだった。現実にそこにあるものも想像力のめがねをかけて見ると、ぜんぜん違うものに変わるのだ。犬や猫は口が利けて話しかけてくるし、木や草花も自分の話を聞かせてくれる。

そんなわけで、空想の世界で見たものでお話を作るのも好き、物語を文章に書いてみるのも好きだった。その延長で祈りながら心に浮かんでくるものを物語の形で書いてみるようになったわけだ。

それが『公園のお風呂ダヌキ』をはじめとしたいくつもの物語だった。ところがどうも不思議なことに、肝心のカトリック教会で、それが読み取れる人が少ないのには驚く。大人でも、子供でも誰にでもわかる形で祈りから生まれたものを書いてみようと始めたのだが、それを見ても、こんなものは誰にだって書けるくらいにしか見えないらしいのだ。がっかり。

わかりやすいように書くのは結構大変なんだぜ、と心の中でぶつくさ言ってみても、わからない人にはわからないらしいということがわかっただけだ。ではと、なるべく難解な話にすると、今度は本当にわからないから面白くないということになる。まったくうんざりしてくる。

もう、今度からは人に見せるためではなくて自分が読みたいもの、面白いと思うものを書いてみようと思う。好きなもの、楽しいものでいくつもりだ。ケータイのマリーさんには改めて登場してもらおう。
一作に準備から最後までだいたい半年以上かかるから、先は長いぞ。


メモ3

2010-11-04 10:22:03 | インポート

 ・・・・・  とにかく、仕事だ、書くための準備だ。

 

 @xxxxxxxxx  人を信用しすぎたのよ、いつものことだけど。

 
  @xxxxxxxxx  なさけない、かなぴい記憶だす。

 
 拓さんとこもなかなか大変なようだ。


無から有を生み出す仕事を簡単に考えないでくれ。

 私は独立した一個の書き手で人にアイディアを提供するために書いているのではない。イエズス会経由で利用されるだけではこちらも現実に困るのだ。犯人は今はもう引っ込んだけれど。
 
 数学の美を書いてみようと思い、アイディアをある人に伝えたら、みごとに別の人に使われてしまった苦い記憶。新潮社よ、あのアイディア、何処から持ってきたのだ?忘れない。 ほかにもあったな。

 読み手の力量も問われる。心の深い人が読むのと、浅く生きている人が読むのとでは語られていることが何を言おうとしているのか理解の度も違ってくる。もはや今回はこれから書くものは誰にでもは見せないだろう。無駄だから。

 一つの新しい創作を書く、新しい物語を生み出す、ということをあまり簡単に考えないで欲しい。書く方は楽々と書いているわけではない。何もないところから材料を集め、構成し、形にしていくのだ。それはプロの方々もアマチュアも変わらない。ひとの心を動かすのは簡単ではない。