自分の誕生日を目前にして考え込む

2010-11-21 12:43:08 | インポート

海援隊の歌ではないけれど、思えば遠くへ来たもんだ、というのは今の実感でもある。まさかこんな変てこ人生が待っていようとは夢にも思っていなかったよ、ほんと。

遥か昔、44歳の若さで死んだ母が経験しなかった年代に達してしまったわけだ。祖母が今の私の年代の頃、子供だった私にとって祖母はたしかにお婆さんに思えたのに、自分がその年代になってみるとあまり年寄りのような気がしないぞ。多少、体に故障は増えても心は若いときとあまり変っていないなあ。

それどころか、まだこれから新しいことに挑戦しなくてはならないと思って武者振いを感じているところだ。ちんまりと歳をとっていられるような状況ではないのである。以下は某SNSのプロフィルに経歴代わりに書いたもの。

・・・記入するほどのものもないので、これまでしてきたことを申し上げます。十代のころから、遠藤周作先生、霜山徳爾先生の影響を受けてきて、初めはプロテスタントの信者だったのですが、20代半ばでやはりどうも違うと感じてカトリックに改宗。
以後、なぜかどうも普通はありそうにもないようなことばかりつづいて、30代半ばから仕方なしに童話や物語のようなものの創作を始め、第一作目の『公園のお風呂ダヌキ』がさるお方のお目にのぼったことなどから、お金にこそ縁がないものの、マスコミの一部では知る人は知っている存在であります。これまで書いたものの一部はgooブログに『私の物置』『ケータイにもにゃん格が・・・マリーさんのお言葉』の二つの中に入れてあります。やんごとない方々にかかわるものは原稿もコピーも事情あって数点しか残っておりませんが、手元に残った物は入れておきました。
それより、今は新しい作品を書くべく準備中です。この時代の物語が書ければよいのですがさてどうなるでしょう。 ・・・

カトリックに改宗して以来、本当にまさかというようなことばかり続いて、いつのまにか還暦を過ぎてしまったという、なんとも奇妙奇天烈人生。まあ、あまりにも人を信用しすぎていたのがよくなかったのかもしれないのだが、三つ子の魂百までで、多分、基本は死ぬまで変らない気がする。

英(はなふさ)師はカトリック教会の危機を語っておいでだが、実のところ、原因は教会の、修道会の内部にあるのにどうして目を向けないのだろう。向けたところでどうにもならないのも確かだが、マスコミも政治家も経済も真実には口をつぐんでいる。最も語ったところで誰が信じるかというような話ではあるが。

でも、ある時期、神はマリア様を通して本当に歴史に介入してくださったのだと思う。ただ、誰もその真実を知らないから、せっかくの平和を作るべき好機を個人のお金儲けやそれぞれの国の利益追求に費やして歴史を悪い方向に向けてしまったのだと思っている。これからの世界の将来はどうも恐ろしい。

しかし、それでも一個人たる私は今自分が出来ることをするしかない。その昔、カトリック市川教会で出会ったファティマのマリアさまのご像が今の状況の全ての始まりである以上、導かれるまま進んでいくしかない。簡単ではない状況だ。まさかそのおかげでまともに会社に勤められなくなるとか、生活保護で暮らす羽目になるなんて誰が思う。チェルノブイリの事故が起こって以来、日本のマスコミがしたのはカトリックの信仰について認識を広める代わりに、個人を巫女だのシャーマンだのと取り上げて、まともな社会生活が出来ないような状況にしてくれただけだった。それに便乗した宗教家もいたものなあ。

何とか、本当の自分をわかってほしいと書き始めた童話や物語がまた予期せぬ成功を生むと、今度は誹謗、中傷があちこちに広まって、とにかく私の存在を消そうとする陰謀ばかり続いて、年月がたって、今や本物のおばはん世代になり、それも客観的に見えるようになってきたところだ。

何がどうなろうとたいしたことではない。良く考えれば若いときの希望の通りになっているじゃないか。お金も名前もいらない。神様の下さるものだけで生きていく神様のこじきになりたい。まさに今やそのようのものになっているのだからすごいよ。文句をいうどころではないのさ。まあ、本来の希望は修道生活、観想生活だったけれど、神様が今私に与えて下さっている生活はこれはこれでいいのかもしれない。今のところ、外部に情報を発信するためにパソコンやケータイにお金の殆どが出て行っているけれど、これもやめるときがくれば、十分食べていけるようになる筈。当分はきついがやれるだけやっていくさ。

とにかく、いまはまず新しい物語を書かなくては・・・それからですなあ。

そういえば、23日にせっかく在世フランシスコ会の総会に訪問者の資格で連れて行ってもらうことになったから、これも物語の中に取り入れてみたい。良く見聞きしてこよう。