スズメが 【桜の花を食いちぎる】!
Kyoto Cherry Blossoms Walking Tour Vol.1 京都桜散歩道Vol.1 鴨川→哲学の道
こういうお花見いいな。
【桜満開】目黒川お花見クルーズ【株式会社ジール】Tokyo A canal Cruising.
【桜満開】目黒川お花見クルーズ【株式会社ジール】Tokyo A canal Cruising.
はてなとgooブログ、動画以外は大体一緒に出してきたはずなのだが、どうもあちこちで漏れやら重複やら、違ってしまっている。あんまりいじってもますますわけがわからなくなりそう。
それより話題を少し変えて、久しぶりに科捜研の女と相棒13-1の再放送を見て考えた。
そういえば科捜研の女は女性が中心にいるのにちっとも抵抗を感じないことに気がついたのだ。好きな女優さんだということも大きいが、話の作りも毎回
よく出来ていて面白い。相棒の場合はどうかというと、これはどう考えても普通の女性では相棒の相方は務まるわけがないし、当然、役名は「社美彌子」
この女性以外にないわけで、それではずいぶんご都合主義もいいところの配役ではないかと、テレ朝のやり方に反感を感じたから、もうこの先の相棒は見たくもないと思ったわけだ。以前13-1を見てから、社美彌子イコール隠れスパイと思っていたし、そんな相手と組んでは相棒はいったいどういう流れになるのだとも思っていた。
ところが13-19の結末を考えると、社美彌子が相棒になっても、ミスって捕まるまでは面白い相方が勤まることになるのかもしれないと見えてきた。右京さんが社美彌子の裏をいつまでも見抜けないとは思えないから、その立場での丁々発止のやり取りはこれは面白いことになりそうではないか。ということなら、社美彌子が相棒になるシーズンもいいかもしれない。今後はもう相棒は見たくない、ブログも書かないといったのは取り消す。
それより話題を少し変えて、久しぶりに科捜研の女と相棒13-1の再放送を見て考えた。
そういえば科捜研の女は女性が中心にいるのにちっとも抵抗を感じないことに気がついたのだ。好きな女優さんだということも大きいが、話の作りも毎回
よく出来ていて面白い。相棒の場合はどうかというと、これはどう考えても普通の女性では相棒の相方は務まるわけがないし、当然、役名は「社美彌子」
この女性以外にないわけで、それではずいぶんご都合主義もいいところの配役ではないかと、テレ朝のやり方に反感を感じたから、もうこの先の相棒は見たくもないと思ったわけだ。以前13-1を見てから、社美彌子イコール隠れスパイと思っていたし、そんな相手と組んでは相棒はいったいどういう流れになるのだとも思っていた。
ところが13-19の結末を考えると、社美彌子が相棒になっても、ミスって捕まるまでは面白い相方が勤まることになるのかもしれないと見えてきた。右京さんが社美彌子の裏をいつまでも見抜けないとは思えないから、その立場での丁々発止のやり取りはこれは面白いことになりそうではないか。ということなら、社美彌子が相棒になるシーズンもいいかもしれない。今後はもう相棒は見たくない、ブログも書かないといったのは取り消す。
なんだかよくわからないが、出したつもりがまだ正式に投稿になっていなかったらしい。それとタイトルの見出し、書くたびにいちいち古い分が出てくるのはどうやって削除したらいいんだろう?前はこんなことなかったのに。
これも再掲載
廃線の動画をいくつか見ながらふと思い出したのは、小学生のころの夏休み。当時の我が家は小学校は家のすぐそばにあったものの、もともとが畑の中に人家が2、3軒しかなかったような、ど田舎で小学校に入学するまで年の近い子供とはほとんど遊ぶ機会がなかったような状況。だから夏休みに船橋の母の実家にいくと、いとこのの女の子たちはいるし、お盆のときだったから親類一同が集まってにぎやかで子供心にも楽しく面白い毎日だったわけだ。
しかし送り火も消えると、普段の生活に戻るために親と一緒に叔父の運転する車に乗って我が家に帰るのだった。しかし4年生か、5年生のころだったかと思うが、毎年繰り返すその儀式に逆らってみたくなった。家には帰りたくない、楽しかった昨日に戻りたい。と本気で考えた。まあ無理なのはわかっていても、もしかしたら一家を家に送り届けてまた戻っていく叔父の車を追いかけて追いつけたらv昨日に戻れるのではないかと思い、本気で車の後を追って走ったが、さすがに追いつくわけもなく、それ以来、絶対終わりのないものがほしいという気持ちをいだくようになったのだ。
どんな喜びも楽しみも終わってしまうというなんともいえない悲しみ、寂しさ、去年まで自分を可愛がってくれた人が今はお墓の中だし、こんなのいやだ、終わりのないもの、尽きることのないものでなければいやだ、と思ったのが、小学生の女の子が宗教的なものに関心をもったはじまりだったのだ。
そこから幾星霜、いまや大台もいいところにきてしまった。でもこの気持ちは今も消えていないのさ。
これも再掲載
廃線の動画をいくつか見ながらふと思い出したのは、小学生のころの夏休み。当時の我が家は小学校は家のすぐそばにあったものの、もともとが畑の中に人家が2、3軒しかなかったような、ど田舎で小学校に入学するまで年の近い子供とはほとんど遊ぶ機会がなかったような状況。だから夏休みに船橋の母の実家にいくと、いとこのの女の子たちはいるし、お盆のときだったから親類一同が集まってにぎやかで子供心にも楽しく面白い毎日だったわけだ。
しかし送り火も消えると、普段の生活に戻るために親と一緒に叔父の運転する車に乗って我が家に帰るのだった。しかし4年生か、5年生のころだったかと思うが、毎年繰り返すその儀式に逆らってみたくなった。家には帰りたくない、楽しかった昨日に戻りたい。と本気で考えた。まあ無理なのはわかっていても、もしかしたら一家を家に送り届けてまた戻っていく叔父の車を追いかけて追いつけたらv昨日に戻れるのではないかと思い、本気で車の後を追って走ったが、さすがに追いつくわけもなく、それ以来、絶対終わりのないものがほしいという気持ちをいだくようになったのだ。
どんな喜びも楽しみも終わってしまうというなんともいえない悲しみ、寂しさ、去年まで自分を可愛がってくれた人が今はお墓の中だし、こんなのいやだ、終わりのないもの、尽きることのないものでなければいやだ、と思ったのが、小学生の女の子が宗教的なものに関心をもったはじまりだったのだ。
そこから幾星霜、いまや大台もいいところにきてしまった。でもこの気持ちは今も消えていないのさ。
こんにちは~、マリーで~す。
今日はもう朝からやたらに寒いと思わない? 東京のうちのおばさんとこ辺りは雪こそ降ってないけど冷たい冷たい雨だわさ。あの人、神経痛なもんだからだいぶ堪えるみたいで機嫌がよくないのよ。あたしに文句言ったってしょうがないじゃないのよねえ。
ほんなんだったら体が温まるようなおでんでも煮たらどうかって言ったら今あの人、おでんを煮込みながらあたしにこの仕事を手伝わせてるのよ。おでんは材料さえ切ってお鍋に入れれば傍につきっきりでなくても大丈夫だしちょうどいいわ。その間に少しはあの人にも仕事をさせなくちゃ。
今書いてる分はねえ、一応メモみたいに、思いついたものをばらばらに書き並べているだけだから、まだどこにどう使うか決まってないのよ。それでもあの人、とりあえず書いてまとめておかないと忘れちゃうし、パソコン上ならあとで手直しして並べ替えたりも簡単だからって、チョコチョコ、ああでもない、こうでもないって並べてるところなのよ。後でぜんぜん使わなかったり、違うものになったりしそうだけど、そのつもりで読んでみてね。
ここに書くのは昔、公園のお風呂ダヌキの第2部か、第3部に書いた記憶があるんだけどって、あの人、出来が悪いからって原稿もコピーもみんな手元に残さなかったのよ。可愛がっていた猫のダボちゃんやミミちゃんのこととかお隣のお宅の女の子のモエちゃんの名前も登場人物に使ったから、たぶん誰か持っている人もいると思うけど、今更だから、簡単に書き直すんですって。
うちのおばはんが小さい頃から、おばはんのお父さんが何かっていうとたびたび言っていたのが「闇の夜に 鳴かぬ鴉の声聞けば 生まれぬさきの 父母ぞ恋しき」って言う言葉だったの。何言ってるんだかさっぱりわからない、意味不明よね。でもあの人、小さい頃から何度も聞いてるからすっかり覚えこんでしまって、どういう意味なんだろうって思ってたの。闇の夜に鳴かない鴉の声ってなにこれ?そんなもの聞こえるわけないじゃない。生まれぬ先の、つまり生まれてくる前だわさ。この世に生まれてくる前のってことは、きっとこれは仏教的な観念が関係してるんだろうなあってことくらいはだんだんわかるようになったけど、やっぱり意味不明のまんまだったのよ。
あの人がプロテスタントの教会で洗礼を受けてしばらくして、お父さんが再婚したから、あの人も就職することにしたの。当時だからとりあえず和文タイプを習ってタイピストになったのよ。で、勤めるようになった会社が御茶ノ水だったから、いろいろ考えて教会を通いやすい家の近くの同じ教派の教会に転籍したわけよ。今はかなり大きい教会になってるけど、うちのおばはんが通っていた頃、その教会は普通の民家を一軒借りて集会を開いている伝道所だったの。
ある日曜日の朝、礼拝に行くと、ちょうどみんなが賛美歌を歌ってたのよ。それが、うろ覚えなんだけど、「すべての創造られしものよ、神を讃えよ、」とかって感じの歌詞の歌だったの。それを聞いたとたんにあの人、あ、そうか、自分も造られたものなんだ、この世に生まれてくる前はどこにもいなかったんだ、映画評論家の淀川長治さんじゃないけど、空気だったんだ、無だったんだって急にわかったの。それと一緒に、いつもお父さんが言っている「闇の夜に 鳴かぬ鴉の声聞けば 生まれぬさきの 父母ぞ恋しき」の意味も、あれもこのことを言っているんだ、私も無から呼び出されて生まれてきたんだってわかったんだっていうのよ。
だってあの人にすればちっちゃい時から何度も聞かされてきて、ずっとどういう意味だろう、どういう意味だろうって考えていたんだから、キリスト教の世界にきてやっと答えが見つかったって感じだったのよ。だけど、カトリック教会でこれを言ったら、あるスペイン人の神父様に、あなたは自分を実際より大きく見せようとしているなんて言われちゃってちょんよ。もっと深く教えてほしいのに。
その神父様なんて、うちのおばはんがシスターになりたいんですけどって言ったら、召しだしは次の世代に現れるってそれではなしはおしまい。次の世代ったって、うちのおばはんの家は仏教だったけど、今から思えば、お父さんがやたら抹香くさいところがあったのも、本当のお祖父さんがお坊さんだったことに遡るのだったら、うちのおばはんだって宗教的な面では三代目よ。まあ、とやかく言ったってあの人もさすがに足腰に故障の出た65歳となるとそれどころじゃないけどね。
このごろの日本のカトリック教会ってほんとに深みがないのよねえ。ただわかりやすくすればいいってもんじゃないと思うけどな、あれって改訂すれば買いなおさなければならないから売り上げが多少は増えるとかってどこかの誰かが考えたのと違うかしら。
別にラテン語やグレゴリオ聖歌ならなんでもいいともおもわないけど、なんだか全般に安っぽくてがっかりしちゃうなんて、あの人はぶつくさ言ってるわよ。あれは年とってきて懐古趣味に走ってるだけなのかしら。なんかあたしにはよくわからないわ。
そんなわけで本日はこのへんでおしまいよ。ほんじゃまたね。
今日はもう朝からやたらに寒いと思わない? 東京のうちのおばさんとこ辺りは雪こそ降ってないけど冷たい冷たい雨だわさ。あの人、神経痛なもんだからだいぶ堪えるみたいで機嫌がよくないのよ。あたしに文句言ったってしょうがないじゃないのよねえ。
ほんなんだったら体が温まるようなおでんでも煮たらどうかって言ったら今あの人、おでんを煮込みながらあたしにこの仕事を手伝わせてるのよ。おでんは材料さえ切ってお鍋に入れれば傍につきっきりでなくても大丈夫だしちょうどいいわ。その間に少しはあの人にも仕事をさせなくちゃ。
今書いてる分はねえ、一応メモみたいに、思いついたものをばらばらに書き並べているだけだから、まだどこにどう使うか決まってないのよ。それでもあの人、とりあえず書いてまとめておかないと忘れちゃうし、パソコン上ならあとで手直しして並べ替えたりも簡単だからって、チョコチョコ、ああでもない、こうでもないって並べてるところなのよ。後でぜんぜん使わなかったり、違うものになったりしそうだけど、そのつもりで読んでみてね。
ここに書くのは昔、公園のお風呂ダヌキの第2部か、第3部に書いた記憶があるんだけどって、あの人、出来が悪いからって原稿もコピーもみんな手元に残さなかったのよ。可愛がっていた猫のダボちゃんやミミちゃんのこととかお隣のお宅の女の子のモエちゃんの名前も登場人物に使ったから、たぶん誰か持っている人もいると思うけど、今更だから、簡単に書き直すんですって。
うちのおばはんが小さい頃から、おばはんのお父さんが何かっていうとたびたび言っていたのが「闇の夜に 鳴かぬ鴉の声聞けば 生まれぬさきの 父母ぞ恋しき」って言う言葉だったの。何言ってるんだかさっぱりわからない、意味不明よね。でもあの人、小さい頃から何度も聞いてるからすっかり覚えこんでしまって、どういう意味なんだろうって思ってたの。闇の夜に鳴かない鴉の声ってなにこれ?そんなもの聞こえるわけないじゃない。生まれぬ先の、つまり生まれてくる前だわさ。この世に生まれてくる前のってことは、きっとこれは仏教的な観念が関係してるんだろうなあってことくらいはだんだんわかるようになったけど、やっぱり意味不明のまんまだったのよ。
あの人がプロテスタントの教会で洗礼を受けてしばらくして、お父さんが再婚したから、あの人も就職することにしたの。当時だからとりあえず和文タイプを習ってタイピストになったのよ。で、勤めるようになった会社が御茶ノ水だったから、いろいろ考えて教会を通いやすい家の近くの同じ教派の教会に転籍したわけよ。今はかなり大きい教会になってるけど、うちのおばはんが通っていた頃、その教会は普通の民家を一軒借りて集会を開いている伝道所だったの。
ある日曜日の朝、礼拝に行くと、ちょうどみんなが賛美歌を歌ってたのよ。それが、うろ覚えなんだけど、「すべての創造られしものよ、神を讃えよ、」とかって感じの歌詞の歌だったの。それを聞いたとたんにあの人、あ、そうか、自分も造られたものなんだ、この世に生まれてくる前はどこにもいなかったんだ、映画評論家の淀川長治さんじゃないけど、空気だったんだ、無だったんだって急にわかったの。それと一緒に、いつもお父さんが言っている「闇の夜に 鳴かぬ鴉の声聞けば 生まれぬさきの 父母ぞ恋しき」の意味も、あれもこのことを言っているんだ、私も無から呼び出されて生まれてきたんだってわかったんだっていうのよ。
だってあの人にすればちっちゃい時から何度も聞かされてきて、ずっとどういう意味だろう、どういう意味だろうって考えていたんだから、キリスト教の世界にきてやっと答えが見つかったって感じだったのよ。だけど、カトリック教会でこれを言ったら、あるスペイン人の神父様に、あなたは自分を実際より大きく見せようとしているなんて言われちゃってちょんよ。もっと深く教えてほしいのに。
その神父様なんて、うちのおばはんがシスターになりたいんですけどって言ったら、召しだしは次の世代に現れるってそれではなしはおしまい。次の世代ったって、うちのおばはんの家は仏教だったけど、今から思えば、お父さんがやたら抹香くさいところがあったのも、本当のお祖父さんがお坊さんだったことに遡るのだったら、うちのおばはんだって宗教的な面では三代目よ。まあ、とやかく言ったってあの人もさすがに足腰に故障の出た65歳となるとそれどころじゃないけどね。
このごろの日本のカトリック教会ってほんとに深みがないのよねえ。ただわかりやすくすればいいってもんじゃないと思うけどな、あれって改訂すれば買いなおさなければならないから売り上げが多少は増えるとかってどこかの誰かが考えたのと違うかしら。
別にラテン語やグレゴリオ聖歌ならなんでもいいともおもわないけど、なんだか全般に安っぽくてがっかりしちゃうなんて、あの人はぶつくさ言ってるわよ。あれは年とってきて懐古趣味に走ってるだけなのかしら。なんかあたしにはよくわからないわ。
そんなわけで本日はこのへんでおしまいよ。ほんじゃまたね。
これは去年の3月の話だ。今年も売ってるかなあ
早期に発見された緑内障で、症状も大体安定しているので今は定期的に眼科に通院し、目薬と半年から1年間隔の視野検査で様子を見ている状況だ。そんなわけで今日は久しぶりに千駄木の病院に視野検査に行ってきた。今度の月曜日には午前中の定期検診があるので本当は同じ日でもよいのだが、午前中の検査は忙しくてかなわないので別の日にということで今日になったのだ。
さすがに目だけは見えなくなっては困るからまじめに薬を毎朝、毎晩点眼して定期的な検査も受けている。子供のころからめがねをかけていたほどの近視で、そういう人は時々ちゃんと眼科で調べたほうがよいといわれていたので、老眼鏡の必要が出てきたとき、ちゃんとした眼科で検眼を受けたところで発見された。でもちょうど知人が緑内障では先輩だったから、彼女に言われたことをしっかり守って今日まできている。
で、病院はいいとして、帰りに普段は縁のない土地をぶらついて、あちこちの店を覗いていて見つけたのがなんだか変てこな野菜。モロッコインゲンに似ているけれど鞘の外見がレース飾り付になっていてはじめてみたものだ。
お店の人に聞いてみると、ウリズンという沖縄の野菜だというので、とにかく2袋ほど買ってきた。予定外の雨も降ってきて、これは四谷に行くのは止めにして、そのまま検査と買い物だけで家に帰ってきてしまったのだった。
ウリズン豆というらしい。シカクマメの仲間だそうだが、シカクマメというのもウリズン豆というのも話には聞いていたけれど今日はじめて実物を見た。沖縄で夏の野菜不足を補うために栽培され始めたというから、普通に豆野菜の感覚で使っても大丈夫なのだろうと思う。とりあえずゆでて3回分に分けて冷蔵庫にいれてある、茹でて酵素が働かなくしてしまえば新鮮なままで使えるし、しかも調理時間も短くてすむと思ったからだが、味はなにしろ初めて食べるので無難な汁の実やマヨネーズあえにしておくか。
モロッコインゲンだって亡父が再婚して、初めて新潟の継母の里に行くまで存在も知らなかった野菜だったのを思い出す。ウリズンも食べ慣れれば、それこそ便利な野菜のひとつになりそうな感じだ。
今、バッグの底を見たら、本日のほかの獲物も出てきた。うっかり買ったものを奥のほうに押し込んで忘れるところだった。
早期に発見された緑内障で、症状も大体安定しているので今は定期的に眼科に通院し、目薬と半年から1年間隔の視野検査で様子を見ている状況だ。そんなわけで今日は久しぶりに千駄木の病院に視野検査に行ってきた。今度の月曜日には午前中の定期検診があるので本当は同じ日でもよいのだが、午前中の検査は忙しくてかなわないので別の日にということで今日になったのだ。
さすがに目だけは見えなくなっては困るからまじめに薬を毎朝、毎晩点眼して定期的な検査も受けている。子供のころからめがねをかけていたほどの近視で、そういう人は時々ちゃんと眼科で調べたほうがよいといわれていたので、老眼鏡の必要が出てきたとき、ちゃんとした眼科で検眼を受けたところで発見された。でもちょうど知人が緑内障では先輩だったから、彼女に言われたことをしっかり守って今日まできている。
で、病院はいいとして、帰りに普段は縁のない土地をぶらついて、あちこちの店を覗いていて見つけたのがなんだか変てこな野菜。モロッコインゲンに似ているけれど鞘の外見がレース飾り付になっていてはじめてみたものだ。
お店の人に聞いてみると、ウリズンという沖縄の野菜だというので、とにかく2袋ほど買ってきた。予定外の雨も降ってきて、これは四谷に行くのは止めにして、そのまま検査と買い物だけで家に帰ってきてしまったのだった。
ウリズン豆というらしい。シカクマメの仲間だそうだが、シカクマメというのもウリズン豆というのも話には聞いていたけれど今日はじめて実物を見た。沖縄で夏の野菜不足を補うために栽培され始めたというから、普通に豆野菜の感覚で使っても大丈夫なのだろうと思う。とりあえずゆでて3回分に分けて冷蔵庫にいれてある、茹でて酵素が働かなくしてしまえば新鮮なままで使えるし、しかも調理時間も短くてすむと思ったからだが、味はなにしろ初めて食べるので無難な汁の実やマヨネーズあえにしておくか。
モロッコインゲンだって亡父が再婚して、初めて新潟の継母の里に行くまで存在も知らなかった野菜だったのを思い出す。ウリズンも食べ慣れれば、それこそ便利な野菜のひとつになりそうな感じだ。
今、バッグの底を見たら、本日のほかの獲物も出てきた。うっかり買ったものを奥のほうに押し込んで忘れるところだった。