

平成28年度・芦東山記念館館長講座の第5回が、平成29年(2017)2月15日(水)13:00~14:30時、芦東山記念館(岩手県一関市大東町渋民字伊勢堂71-17)で開催されました。
テーマは、盛岡藩家老席日記『雑書』にみる歴史~庶民も名字・御国風を守る・環境衛生に注意など~ 講師は、芦東山記念館館長・細井 計(ほそい・かずゆ)氏。






今回は、講師の細井 計氏の著書『雑書の世界~盛岡藩家老席日記を読む』(2016年、岩手復興書店発行)にも書かれているものの中から、「盛岡藩家老席日記『雑書』にみる歴史」と題して幾つか話していただきました。

『雑書』について:寛永21年(1644、12/16改元「正保元年」)~天保11年(1840)まで、197年間分で190冊。3代藩主・重有公が参勤発駕(3/14)のときより起筆。このうち欠本14年分[特に寛文4年と貞享3年の欠本が惜しまれる。寛文4年(1664)、3代藩主・南部重直死去に伴う御家騒動。貞享3年(1686)巌鷲山噴火。]
記録内容:盛岡藩領の出来事が中心であるが、時には、将軍家をはじめとする他藩の記事も散見する。各年度ともに正月の儀式から始まり、5節句[人日(じんじつ・1/7)、上巳(じょうし・3/3)、端午(5/5)、七夕(7/7)、重陽(ちょうよう・9/9)]を経て歳暮に至っているが、その間に領内に起こった政治、経済、社会、文化など(例えば、参勤交代、藩主の鷹狩、幕府へ献上の鷹・白鳥・鶴・菱喰・鮭・鱈・薯蕷 (山芋)、城内での能興行と大般若執行、役人の人事異動・休暇願、藩士の家督相続・婚姻・嫡子願、神社仏閣の祭礼、社寺参詣、繋・鶯宿・台・鹿角大湯・湯瀬などへの湯治、打首獄門、他領追放、抜参り、逃亡、火事、風水害、酒値段の公布、飢饉など)、あらゆる面に亘る出来事が記録されている。[盛岡藩政史の研究を進める上での最も基本的な史料となっている。]




翻刻出版:『盛岡藩雑書』(第1~15巻、熊谷印刷出版部)、『盛岡藩家老席日記雑書』(第16巻~、東洋書院)、平成28年11月現在、第40巻[文化5年(1808)~文化7年(1810)]まで刊行済み。第41巻は近刊予定。(第4巻からは責任校閲:細井計)。[第1巻の刊行は昭和61年(1986)。平成28年で30年間、全体の約5分の4を翻刻出版し、完結まで後5年ほど。]
『雑書』の記述から:
1.上の橋、紙町の橋
イ、享保8年(1723)6月24日条 上の橋御普請奉行 御者頭 織笠庄助。
下奉行 達曾部三郎右衛門 紙町橋懸け直し仰せ付けられ、右両人へ御家老席に於いて、 (中野)筑後これを申し渡す、
ロ、享保8年6月15日条 紙町の橋懸け直し取り付け吉日、名26日、午ノ刻吉時の旨、永福寺考え上げ候に付き、御普請奉行へ御目付どもより申し渡す、
[なお、星川正甫『盛岡砂子』には、「世俗、この橋を紙丁の橋とばかり云う、上・紙訓同じなる故に、上の橋と云う事を知らざる者多し、中・下の橋を含めて(中津川)三橋と云う」とある。]
ハ、中津川の上の橋の擬宝珠(ぎぼし)銘 [山菜の「ウルイ」は、ギボウシ]
慶長14己酉年(1609)10月吉日、中津川上之橋、源朝臣利直
ニ、中津川の擬宝珠の由緒
慶長14己酉年中津川三橋御由緒、太祖光行公より12代の後胤六郎政行公、後光厳院(北朝)の御宇京都御在番の頃、応安年中(北朝年号、1368~1370)の春、北野叡山辺にて鹿の鳴こと止まず、叡聞に達し、時ならぬ春鹿の鳴こと奇怪なり、洛中洛外を触れて歌伏にせよと、綸言(りんげん、天皇の言葉)にて鹿と言う題を出され、政行公敷島の道を学び、夢庵老翁に伝授なり、一首を詠じ献じ給う、 春霞秋たつ霧にまがいせば、おもい忘れて鹿や鳴らん
此の歌、叡覧に備うる処、叡感斜めならず、殊に鹿の鳴き声止みしとなり、宣旨(せんじ、天皇の命を伝える公文書)に因って、政行公参内有り、辺土の武士歌道に心を寄せ、名歌を詠ぜし事神妙の旨、勅定にて即ち従五位下(じゅごいのげ)に叙し、遠江守に任じ給う、且つ松蔭の御硯を拝台戴、今に御宝蔵にこれ有り、また都に増さる歌人なれば、何ぞ帝都の模様を在所へ移すべき旨、勅宣にて、加茂川の橋の擬宝珠を勅許有り、在番ゆえ明年御下向有りて、三戸の城下熊原川の橋に擬宝珠を付けさせられ、欄干に金銀をちりばめて其の由来を彫り付け、程なく橋の造立成就せしかば、隣国近遠郷よりも老若男女群集して是を見物し、金銀を以ってちりばめ、其の美なるが為に、世の人是を称して黄金(きがね)橋と唱うると云々、…
従四位下(じゅしいのげ)信濃守利直公の御、慶長年中(1596~1615)今の盛岡御城御普請の節、中津川へ右の由緒を以って擬宝珠を御移し、熊原川の擬宝珠へ足し銅成られ、鋳直し、右橋へ御造立成らると、
中津川上の橋御普請は、慶長14年(1609)なり(己酉年十月渡り初め)、大奉行三千石七戸隼人正直時(毛馬内靫負直時)、普請奉行二百石野田弥右衛門、弓鉄炮同心頭三百石目時左馬助、杖突役歩行の衆数人、大工美松長門、同年橋造立成就、橋渡り初め米内村大豆門の権現通り、その次、三ツ割村左京と言う百姓九十一歳、孫彦、十人渡り初め、上の橋は追手と言う天下の往還ゆえ、規式荘厳諸事厳密なりと、
中の橋御普請は慶長16年辛亥年(1611)八月渡り初め、大奉行はこれ無き事、普請奉行二百石(御弓頭)田代治兵衛、弓鉄炮同心頭二百石工藤権太夫、杖突役歩行の者数人、大工美松長門、
下の橋御普請は、慶長17壬子年(1612)九月渡り初め、大奉行はこれ無き事、普請奉行三百石波岡八左衛門、弓鉄炮同心頭三百石田代治兵衛、杖突歩行の者数人、大工美松長門、
右三か所の橋御普請擬宝珠は、上の橋、中の橋両所へ計かり附けさせらる、下の橋はその頃御城内へ計かりの通路口ゆえ、高欄計かりにてこれ有る由、…(時間になり、ここまで)
http://blog.goo.ne.jp/enn37[ゾウさんと暮らす:擬宝珠は「春おぼろ……」のおかげで]