2014年10月30日(木)、一関市博物館主催のバスツアー「江戸に花開いた秋田の文化」とわらび座「げんない」観賞に参加しました。一関市とも関わりが深い秋田蘭画や平賀源内などを題材としたミュージカル(歌舞音曲劇)を観賞しました。
(上)桧木内川に近い所にある甘味茶房くら吉付近でバスを降りて、角館町平福記念美術館(秋田県仙北市角館町表町上丁4-4)まで徒歩で移動です。「徒歩5分」ということでしたが、写真を撮りながら歩いたので倍近くかかってしまいました。
(上)館内には上の「出品作品一覧」にある通り52点が展示されていました。撮影禁止でしたので、同館で販売していた「第20回国民文化祭・あきた2014 江戸に花開いた秋田の文化」(平成26年9月30日発行、1,000円)から6点だけコピーして紹介します。
(下)佐竹曙山(しょざん)「寒山図」(かんざんず) 秋田市立千秋美術館蔵
絹本著色 軸装 124.0㎝×41.0㎝
拾得と共に中国天台山近くに住んだ寒山は古来、「寒山拾得図」として描かれてきた。寒山は経巻を持ち、拾得は箒(ほうき)を持つのだが、本図もあるいは右幅に拾得を描いた双幅である可能性がある。本図の箱書に、安永3年(1774)3月に家臣井上才蔵が拝領したと記されている。とすれば、この拝領時に双幅が一幅ずつ寒山に比定された井上家と拾得に比定された家臣の某氏に分けられたのかもしれない。伝統的な狩野派の描法による作品ではあるが、左上部の懸崖の酒脱な描写には、モダン好みの若き曙山の工夫がみてとれよう。(江戸文化シリーズ第16回特別展図録「秋田蘭画~憧憬の阿蘭陀~」より)
佐竹曙山(さたけ・しょざん)寛延元年(1748)~天明5年(1785):秋田藩第7代藩主佐竹義明(さたけ・よしはる)の長子として、江戸浜松町の藩邸で生まれる。母直は、曙山を生んだ日に没している。幼名を秀丸、初名を義直、後に次郎義敦と改める。字は大麓で、孔雲・曙山と号した。安永2年(1773)、直武を「銅山方産物他所取付役」に命じて江戸へ上がらせるが、その後、直武の江戸滞在中、二度の参勤で江戸へ上るも、直武と直接会った資料は残っていない。曙山もまた、初め狩野派を学んだものの直武同様洋風表現に興味を示し、学習し、直武とは異質の一種幻想的な作域に達した。天明5年(1785)6月1日(表向きは10日)江戸下谷藩邸で病没。秋田の天徳寺に埋葬され、法名を、源通院殿泰嶽良清大居士という。
小田野直武(おだの・なおたけ) 「笹に白兎」(ささにしろうさぎ) 秋田市立千秋美術館蔵絹本著色 軸装 100.5㎝×32.5㎝
下地を淡墨で塗りつぶし、その上に、熊笹(隈笹)の下にいる白兎は胡粉をやや盛り上げて描き、そして兎の白い毛を一本一本細かく描写している。東洋の花鳥画の伝統に基づく構成であるが、白兎も熊笹も陰影法を用いた写実的な描写であり、兎の背と足元の地面には暗影まで描きこんでいる。これによっても目に映る対象をあくまでも正確に描こうとする直武の写実的態度をかいま見ることができる。(創刊115年、題号百年記念『画集 秋田蘭画』より)
小田野直武 「富嶽図」(ふがくず)秋田県立近代美術館蔵絹本著色 軸装 43.5㎝×77.0㎝
富士という日本風景を代表する名所を題材として取り上げた日本風景図のひとつ。富士の雄大にして美しい裾野を描くために、視界をふさぐ中景の景物を一切取り払った構図のものもあるが、本図は手前に橋を配し、左側には人物二人、右側には松らしき木を色濃く描いている。橋下の水面に映る橋げたが揺れて水面との境を見事に描き出している。人物の足元にも二人の影が描かれていて陰影法、遠近法を見事に駆使した仕上がりといえる。
小田野直武(おだの・なおたけ)寛延2年(1749)~安永9年(1780):秋田藩角館城代の槍術指南役小田野直賢の第4子として角館町裏町に生まれる。幼名を長治、通称武助、字を子有といい、羽陽、玉泉、麓蛙亭、蘭慶堂と号す。はじめ、秋田藩御抱絵師武田円碩(たけだ・えんせき)に就いて狩野派を学ぶ。安永2年(1773)12月、秋田藩主佐竹曙山より「源内手、銅山山方産物他所取付役」を命ぜられ、江戸に上る。江戸では源内の下で洋風画法を学んだとされ、安永3年(1774)8月刊行の杉田玄白訳『解体新書』の挿絵を描いた。安永6年(1777)12月に角館に一時帰国するも、翌7年4月、秋田本城勤務を命ぜられ、10月には曙山の参勤に供って再び江戸へ上る。安永8年(1779)、突然謹慎を命ぜられ帰国。翌安永9年(1980)5月17日没する。角館の松庵寺に埋葬され、戒名を絶学源真信士という。
佐竹義躬(さたけ・よしみ)「桜花図」(おうかず)神戸市立博物館蔵 絹本著色 軸装 98.5㎝×41.0㎝
画面右に、前景として桜の樹幹の半分を大胆に描き、上方に八重桜の枝を振り出させる。草本を好んで描いた義躬の代表作のひとつ。桜の花や葉をそれぞれ念入りに写実描写し、光沢のある桜の幹の的確な表現、画賛を配した文人的趣味など、義躬の人柄を伺わせる温雅な作品。(秋田市立千秋美術館発行図録『秋田蘭画展 江戸洋画のナビゲーター』より)
佐竹義躬(さたけ・よしみ)寛延2年(1749)~寛政12年(1800):秋田藩支城角館城代佐竹義邦の長子として角館に生まれる。名を義寛といい後に」義躬と改める。通称は太郎、のち四郎ついで河内、主計といった。字は通大で雪松、一謙学、嘯月亭(そうげつてい)、小松山人、素盈(そえい)とした。父義邦が芸文を好み、特に俳諧に長じたといい、その影響もあって、義躬は幼少の頃より絵画俳諧をはじめ様々な素養を身につけた。直武は義躬に直接仕えていたのであり、直武の父が義躬に槍術を教えたこともあって、二人が早くから交流していたと推定されている。角館の佐竹北家に伝わる『佐竹北家御日記』の安永4年(1775)の頃には、義躬が江戸で直武に会い、舶載の珍品を贈られたことが記されており、その2年後、直武が一時帰国した折には早速面会したことが記され、主従の強い絆が偲ばれる。義躬が角館城代を勤めたのは明和6年(1769)から寛政11年(1799)の間で、翌寛政12年(1800)1月16日に没した。墓は角館常光院、法名は泰俊院殿武山良威大居士。
平賀源内(ひらが・げんない)「西洋婦人図」(せいようふじんず) 神戸市立博物館蔵布地油彩 額装 41.2㎝×30.8㎝
画面左下に「源内」の落款がある本図は、江戸時代の洋風画の理論的指導者として活躍した源内の、現存する唯一の油彩画として知られているが、源内自身の洋画法は稚拙な感が否めない。(神戸市立博物館発行『館蔵名品図録』より)
平賀源内(ひらが・げんない)「物類品隲」(ぶつるい ひんしつ)角館町平福記念美術館蔵宝暦13年(1763)全6巻
江戸中期の博物学書。平賀源内が師の田村元雄とともに1757年以来、5度にわたっていた薬品会(物産会)の出品物、合計2,000余種のうちから主要なもの360種wp選んで、産地を示し解説を加えたもの。本文4巻、産物図絵1巻、付録1巻、計6巻からなる。第5巻の産物図絵は本文の中から珍品36種を選んで図示する。付録の第6巻は朝鮮人参および甘蔗の栽培法と精糖法を述べたもので、朝鮮人参および砂糖は海外の輸入に頼っていたので、自給により国益に資するというのが付録の目的であった。
平賀源内(ひらが・げんない)享保13年(1728)~安永9年(1780):香川県志度町生まれ。博物学者・戯作者・蘭学者。名は国倫(くにとも)、字は子彜(しい)、号は鳩渓(きゅうけい)、ほかに風来山人、福内鬼外など。高松藩の下級武士だが浪人となり、江戸に居住。長崎に2度遊学。洋風画法を研究し、小田野直武の秋田蘭画、司馬江漢の洋風画への道を開く。宝暦13年(1763)刊行の『物類品隲』(ぶつるい ひんしつ)全6巻の博物誌をはじめ、『風流志道軒伝』の戯作小説、人形浄瑠璃の戯曲『神霊矢口渡』など著作も多岐にわたる。自然科学全般に関心を持つだけでなく、初めてエレキテル(摩擦起電機)を発明したり、多芸多才の人であった。晩年に誤って人を殺し、獄中で亡くなっている。
司馬江漢(しば・こうかん)「不忍池図」(しのばずのいけず)神戸市立博物館蔵:紙本銅版筆彩 額装 41.2㎝×30.8㎝
この作品は、銅版で作成されたものに筆を加えて描かれたもので、同じ構図のものを小田野直武も描いており、江漢が直武の作風を継承し、それを発展させ、直武作にはなかったが、江漢は前景に草木を配し、明確な遠近法を意識した描き方をしている。
司馬江漢(しば・こうかん)延享4年(1747)~文政元年(1818):名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫、字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人など。浮世絵師の鈴木春重(すずきはるしげ)は同一人物。15歳の時、父の死をきっかけに表絵師の駿河台狩野派の狩野洞春に学ぶ。19歳の頃、宋紫石と交流のあった鈴木晴信にも学び浮世絵師となり、錦絵の版下を描いた。25歳の頃、おそらく平賀源内の紹介で西洋画法にも通じた宋紫石の門下に入る。ここで南蘋派の画法を吸収し漢画家となった。当時、写実的な漢画の表現は流行の先端を行くものであった。源内と接点があったことで、彼を通じて前野良沢や小田野直武に師事したともいわれている。33歳までに、直武に洋風画を学ぶ。日本で初めての腐蝕銅版画に成功している。(秋田市立千秋美術館 1990『秋田蘭画展 江戸洋画のナビゲーター』より抜粋)