人知れずの記録ー障害後期高齢者の日々のつぶやき

日々のリハビリをはじめ、何でもかんでも書いてやろう!という日記帳。

邑に雨の降るごとく

2017-10-25 12:15:47 | 日記
7時起床、起床時室温19℃。
体重70.2 血圧122 77 脈拍51 あと一息。
 ビニールゴミ出し。体の重いこと重いこと。昨日の運動のせい?
9時~9時30分
 雨の日は寝てすごそうと思っていても、朝食を終え薬を飲むと、一日が始まったぞ、という気が起こってくる。今の私の一日の始まりは「運動」と称する遊び。パターン化してくるとノルマ化してしまう、遊びにならずになる。面白いはずは無い。
 さて、今日はどう過ごそう。姿勢を正して廊下を歩く?このところこれをやると計時ばかりしている。遊んでいない証拠だ。ほかの訓練でもそう。だから「寝てすごそう」という気持ちが起こってくる。
 そうだ!昨日のボール拾い、結構面白かったなあ。廊下でしてみよう!
 ぷかぷかのゴムボールを廊下に転がして、止まったところで拾いあげる。その繰り返し。
 麻痺している左手で転がす。目標地点を定めて。
 止まった地点まで歩行姿勢に意識をやる。前を向き、腰を伸ばし、膝をまっすぐ前に向け、高く上げる。
 ボールのところで両脚を軽く開き、腰を深く落とし、左手指を総動員する意識でボールを掴む。立つ。
 ボール拾いを100回繰り返した。スクワットですね、これ。両足裏着地は一回も果たせませんでした。
 10時30分~11時
 自室内で大きなボールでいろいろ。股関節を広げるためにボールにまたがるが、これが痛いのなんの。あれこれ痛みを和らげる工夫をしてなんとかボールに腰下ろし。ボールクッション遊び。ボール脚はさみ遊び。ボールを胸の下に置いて腕立て伏せ遊び。仰向けに寝てボールの上に両脚を乗せてクッション遊び。その発展で膝からトドちゃんのお仕事お休みの金曜日、先の部分でボール打ち遊び。これが一番きつい。などなど。
 お昼は久しぶりにラーメン。生ラーメンから作成。
 いつ買ったかな?とんと覚えていないほど前だ。念のために匂いを嗅いで食が可能かどうかを確かめたほど、という代物。今の時代では廃棄される運命の食品だな、我が家といえども。ぼくは自分の鼻と舌と喉ごしで食が可能かどうかを確かめる生活習慣を子どもの頃からしてきたので、今回もそれに従う。食あたりで死に損なったのは毒キノコを食べたときだけだ。外国生活でもおなかを壊すような食あたりをしたことも無い。
 トッピングは、ワカメ、ゆで卵、ベーコン、キュウリ。汁はほとんど飲みませんでした。健康のことを考えて。

 フランスの子どもの遊びに関わる絵本を所有しているのだが、どこにしまい込んだのか。ひっくり返して探したけれど見つからない。結局午後は自室の大掃除となった。少し広く感じられるようになったのが収穫か。求める本は後一カ所当てがあるので、明日、大探し作業。
 支援をいただいているトドちゃんのお仕事お休みの金曜日、日本橋に出かけランチをご一緒することになった。ホテル内、地中海料理店。三重テラスに立ち寄りいろいろ購入予定。
☆近づく10月28日は、現代知的障害教育揺籃期の産みの親・エデュワール・セガン(1812年仏国に生まれ、1880年米国に没す)の命日。
 2012年10月27日、28日に、生誕200周年記念シンポジウムが幾つかの地域で開催されている。没した日に生誕記念行事を併せることに、戸惑いながら、参加したのであった。
 それはともかくとして・・・・
 未だに「セガン研究」の筆を置くことができない私は、命日にあわせて、何か特別なこだわりに時を過ごすことにしているー研究的な意味があるかどうかではなくー。
 セガンの論文「白痴の衛生と教育」(1843年)は、世界初の知的障害教育実践論という記念碑的な教育論である(邦訳:川口幸宏訳『初稿 知的障害教育論 白痴の衛生と教育』幻戯書房、2016年)。
 その第4章 神経組織と感覚器官の体操と教育、の章に、原語でjeu de quilleジュー・ド・キーユ)が出てくる。辞書では九柱戯とある。9本のピンを、ボールを転がして倒したピンの数を競う遊びだ。手っ取り早くいえばボーリング・ゲーム。しかし、ボーリング場で行うのではなく、またピンが10本なのではない。地面にピンを立ててボールを転がす。子どもにとっては屋外遊びになる。
 この遊びの具体をセガンは述べていない。ピンを並べたとき子どもがパニックを起こしたことを述べているだけである。だから、とりあえず私が今進めたいと考えていることは、19世紀前半期の子どもの遊びとしてのjeu de quilleの具体についてである。
 簡単に 「ボーリングと同じ」と翻訳書に脚注をつけてしまったことを深く悔いている今日である。