1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月22日・山本周五郎の訓戒

2024-06-22 | 文学
6月22日は、女流飛行家で作家のアン・リンドバーグ(リンドバーグ夫人)が生まれた日(1906年)だが、作家、山本周五郎の誕生日でもある。

山本周五郎は、1903年、山梨の現在の大月で生まれた。本名は、清水三十六(しみずさとむ)。清水家はマユの仲買や馬喰などをしていた。
三十六が4歳のとき、大雨による水害にあい、これを機に三十六の家族は東京へ出た。
7歳のとき、一家は東京から横浜へ引っ越し、三十六は横浜の小学校に通った。
小学校四年生のとき、教師にその文才を認められ、
「きみは小説家になれ」
と言われ、これが三十六の心の支えとなった。
13歳で小学校を卒業すると、三十六は東京の質屋に住みこみで働く徒弟となった。その質屋の名前が「山本周五郎商店」といった。
20歳のとき、関東大震災で被災して、山本周五郎商店は解散。
清水三十六は関西へ逃げて、転々としながら新聞や雑誌の記者をした後、21歳のころ、東京へもどり、雑誌社の編集記者になった。
23歳のとき、文芸誌に小説『須磨寺附近』が載り、これが出世作となり、その後、専業作家となって時代小説を書いた。
40歳のときには『日本婦道記』で直木賞に選ばれたが、これを辞退。それ以後も「すでに読者から賞をもらっているから」として、数々の文学賞を辞退した。
『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『ながい坂』など名作を山のように書き、1967年2月、肝炎のため没した。63歳だった。

ペンネームの「山本周五郎」は、丁稚奉公時代の主人が、彼に働きながら英語や簿記の学校に通わせてくれた、その感謝をこめて、店の名前を名乗ったものである。

人間味のある人物を時代小説に書いた山本周五郎だが、本人は「曲軒(きょくけん)」とあだ名されるへそ曲がりだった。作家、尾崎士郎がつけたあだ名らしい。
山本周五郎がまだ駆けだしのころ、文藝春秋社の創業者である菊池寛のところへ原稿をもちこんだことがあった。文壇の大御所だった菊池寛が、原稿を批評すると、
「小説について貴方の教えを乞いたいとは思いません」(早乙女貢『わが師山本周五郎』第三文明社)
と、原稿を持ち帰った。
後の山本の直木賞受賞辞退は、このときの嫌悪感が尾を引いていたのかもしれない。

狷介をもって鳴る山本周五郎は、あまり人を近寄らせず、とうぜん弟子をとらなかったが、唯一、出入りを許された弟子が早乙女貢だった。たまたま知り合って、早乙女貢が生前、師匠について語るのを聞いた。
師・山本周五郎は、時代小説を書くのなら、ユーゴーやデュマなど外国作家のものを読んで勉強するべきだとすすめ、早乙女に本を貸してくれたそうだ。
山本周五郎はこんなストリンドベリーのことばをよく引用した。
「苦しみ働け、常に苦しみつつ常に希望を抱け、永久に定着を望むな、此の世は巡礼なればなり……」(同前)
(2024年6月22日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 6月21日・スノーデンの道 | トップ | 6月23日・チューリングの翻弄 »

コメントを投稿

文学」カテゴリの最新記事