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7月14日・久米宏の達成

2024-07-14 | ビジネス
7月14日は、画家、グスタフ・クリムトが生まれた日(1862年)だが、アナウンサー、久米宏の誕生日でもある。高視聴率を誇ったテレビ番組「ぴったしカン・カン」「ザ・ベストテン」「ニュースステーション」の司会者である。

久米宏は、太平洋戦争中の1944年、埼玉の浦和(現在のさいたま市)で生まれた。
早稲田大学の政経学部に入学した久米は、学生時代は演劇サークルに入り、舞台に打ち込んだ。同大の同学年の同じサークル仲間に、後に政治家になる田中真紀子や、俳優になる長塚京三がいた。
23歳の年に、久米は大学を卒業し、テレビ局のTBSにアナウンサーとして入社した。このときTBSを受験して不合格になった学生に、後にアナウンサーになったみのもんたがいて、彼らは面接試験会場で顔を合わせたという。先に面接を終えた久米はみのに「お先に」と声をかけて帰ったらしい。
演劇出身なのにあがり症だったという久米は、体調をくずしたり、結核になったりして、順風満帆のスタートを切ったわけではなかったが、31歳のとき「料理天国」「ぴったしカン・カン」などにレギュラー出演し、しだいに知名度と人気を高め、34歳になる年には生放送の歌謡番組「ザ・ベストテン」の司会を黒柳徹子といっしょに務め、絶大な人気を誇るようになった。
35歳のころ、テレビ局を退社。フリーのアナウンサーとなり、「久米宏のTVスクランブル」などをへて、41歳のとき、それまでになかった、新しいタイプの報道番組「ニュースステーション」のメインキャスターに就任した。
明るく軽薄で率直。スマートでユーモアに満ちた知的な久米の司会進行。わかりやすい説明、一目瞭然の演出によって、「ニュースステーション」は、それまで視聴率とは縁のなかった報道番組としては異例の高視聴率をたたきだす革命的な番組となった。
55歳のとき、同番組を降番。番組は「報道ステーション」と名を変えて古舘伊知郎が引き継いだ。以後も久米は、ラジオやテレビで活躍していた。

久米宏は、それまでニュースなど見なかった多くの日本人たちに、ニュースや報道にも興味をもたせるという、ほとんど不可能とされていたことを成し遂げた人である。

「ニュースステーション」の放送がはじまるすこし前に、久米宏は雑誌のインタビューを受けていた。インタビューで彼は、今度はじめる報道番組について、ずばり、中学生を視聴者に想定した、中学生が見ておもしろいニュースをやる、と明言していた。
日本の一般の大人は、中学生なみ、かもしれない。

久米宏は「ニュースステーション」がはじまったころ、同番組でいっしょにキャスターを務めていた小宮悦子にこう頼んだそうだ。
「24時間、番組のことを考えてくれる? そうでないと、トップになれないから」
こうした関係者の熱烈な献身があってこその君臨だった。

早稲田大の久米宏と、立教大のみのもんたが同い年生まれ。早稲田の後輩のタモリは、ひとつ年下。戦中、戦争直後の混乱期に生まれた人たちが、テレビに一時代を築いた、と言える。
(2024年7月14日)



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