1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月15日・ベンヤミンの現代性

2024-07-15 | 思想
7月15日、盂蘭盆会(うらぼんえ)のこの日は、至上の画家、レンブラント・ファン・レインが生まれた日(1606年)だが、哲学者、ベンヤミンの誕生日でもある。

ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミンは、1892年、ドイツのベルリンで生まれた。一家はユダヤ系で、父親は以前フランスのパリで銀行家をしていたが、ベルリンでは骨董商をしていた。家は裕福で、ヴァルターは3人きょうだいのいちばん上だった。
フライブルク大学、ベルリン大学、ミュンヘン大学などで学んだヴァルター・ベンヤミンは、28歳のとき、『ドイツーロマン主義の芸術批評の概念』を出版。以後『暴力批判論』『ドイツ悲劇の根源』『一方通行路』『複製技術時代の芸術』『パサージュ論』などを書き、ボードレールの詩集や、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』などのフランス文学をドイツ語に訳した。
1933年、ナチス党を率いるヒトラーがドイツ首相になり、ユダヤ人への迫害が強まると、40歳だったベンヤミンはフランスのパリへ逃げた。
1939年、ベンヤミンが47歳のときに第二次世界大戦がはじまり、彼は敵国ドイツの人間だという理由で一時収容所に入れられた。
翌年にはドイツ軍がパリに迫ると、ベンヤミンは脱出。ルルドをへてマルセイユに行き、スペインへ向かった。彼は米国のビザを手に入れていて、表向きは中立国だったスペインを経由して米国へ渡ろうと考えていた。そして彼はフランスとスペインの国境を越え、カタロニアの国境の街、ポルボウに入った。
当時のスペイン・フランコ政権は、ユダヤ人難民を含む外国人旅行者の通行を拒否し、彼らを国外退去させる命令を下した。スペインの警察官によって、フランスへ強制送還される旨を説明されたベンヤミンは、みすみすナチスの手に落ちるよりは、と、モルヒネの錠剤を大量に飲み、自殺した。1940年9月のことで、48歳だった。自殺ではないとする暗殺説も存在する。

ベンヤミンは言っている。
芸術作品は昔から原理的には複製可能だった。大昔には鋳造と刻印だけが複製の手段だったのが、印刷、写真、映画と、どんどん複製技術は進歩してきた。芸術作品の「いま」「ここで」しかないという一回性が、複製では失われることになる。印刷技術や映画の発達によって、複製が作られるようになると、場所を選ばず、時を選ばずにたくさんの人が鑑賞できるようになった。芸術作品の展示の可能性が大きくなった。そのかわりに、作品にそなわっていたオーラ(アウラ)が、複製品では失われてしまった。
「芸術作品の複製技術は、芸術に対する大衆の関係を変化させる。たとえばピカソにたいしてきわめて保守的な態度を示す大衆が、たとえばチャップリンにたいしては、きわめて進歩的な態度をとる。そのばあい、進歩的な反応の特色は、作品を見て味わうよろこびが、専門的な批評家としての態度と直接かつ密接に結びついているところにみられる。(中略)観客はいわば試験官である。だが、きわめて散漫な試験官である。」(高木久雄、高原宏平訳「複製技術の時代における芸術作品」晶文社)
ベンヤミンの論理は、時代の状況を危機感をもってよく観察し、考察した結果なのだろうけれど、それが現代にもよく通じる普遍性を獲得している。
(2024年7月15日)



●おすすめの電子書籍!

『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。

●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする