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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月1日・ジュリー・アンドリュースと沢田研二

2014-10-01 | 映画
10月1日は、名ピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツが生まれた日(1903年)だが、映画女優ジュリー・アンドリュースの誕生日でもある。

ジュリー・アンドリュースは、1935年、英国イングランドのサリー州ウォルトン・オン・テムズで生まれた。誕生時の本名は、ジュリア・エリザベス・ウェルズ。父親のウェルズは金属加工や木工を教える教師だった。しかし、ジュリアの生物学的な父親は、べつの男性で、当時の母親の不倫相手だった。
両親は離婚し、ジュリアが4歳になるころには、双方ともべつの相手と再婚していた。母親ジュリアが結婚した相手がテッド・アンドリュースで、ここに彼女の名前はジュリア・アンドリュースとなった。
折しも、第二次世界大戦がはじまっていて、ジュリアとテッドのアンドリュース夫妻は軍隊を慰問してまわる国営の興行団に入った。
義父のテッドは、暴力をふるう酔っぱらいで、アルコールが入ると義娘のジュリアのベッドにもぐりこもうとするような男だったが、しらふのときには、ジュリアの才能を認め、彼女が声楽の学校に通うお金を出してくれた。
絶対音感があり正確で、澄みきった音質の声で、4オクターブの声域をもち、数キロメートル離れた場所にいる犬を呼べたというジュリアの音楽的才能は一目瞭然だった。
ジュリアは両親の出ている舞台に立っていっしょに歌い、12歳のときには、オペラの舞台にプロの歌い手として出演していた。
彼女の歌声はつねに観客を魅了し、彼女は舞台のほか、ラジオやテレビに出るようになり、19歳で大西洋を渡り、米国ブロードウェイのミュージカルに出演した。
21歳でブロードウェイ・ミュージカルの「マイ・フェア・レディ」のヒロイン役を演じ、テレビではビング・クロスビーと共演し、「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。
そして、29歳のとき、ハリウッドに進出。ウォルト・ディズニーの最大の野心作と言われる映画「メリー・ポピンズ」に主演。アカデミー主演女優賞を受賞した。
30歳のとき、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に出演。タイトルテーマ曲のほか、「ドレミの歌」「マイ・フェイヴァリト・シグス」「エーデルワイス」など名曲が目白押しのこの作品は、20世紀フォックス史上最大のヒット作になった。
その後も、ジュリー・アンドリュースは映画やレコードでその美声を披露し、活躍しつづけたが、62歳のとき、喉の手術を受け、高い声が出なくなり、訴訟沙汰になったりしたの後、何度も喉の手術を受けた。往年の歌声はもはやないものの、舞台や映画出演に忙しく、66歳で久々にディズニー映画「プリティ・プリンセス」に出演し、手術後はじめて歌った。そのほか、アニメ映画の声優も務め、本を書き、現在も活躍を続けている。

自分がもの心ついたころ、「ザ・タイガース」という人気グループサウンズがあった。ベーシストが岸部一徳、ギターは加橋かつみ、ボーカルは沢田研二で、絶大な人気を誇っていたのだけれど、タイガースの面々にはそれぞれ愛称が付けられていて、岸部が「サリー」、加橋が「トッポ」、沢田が「ジュリー」だった。「ジュリー」がジュリー・アンドリュースからとられたと知ったのが、自分が彼女を知った最初である。「メリー・ポピンズ」は中学生のときに観て感服した。「サウンド・オブ・ミュージック」では彼女の肺活量、声量の豊かさに驚いた。聴衆をうならせ、批判をねじ伏せてしまう圧倒的な歌唱力だったと思う。
(2014年10月1日)


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