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1月10日・エイゼンシュテインの抵抗

2019-01-10 | 映画
1月10日は、ロック・ヴォーカリスト、ロッド・スチュワートが生まれた日(1945年)だが、ロシアの映画監督、エイゼンシュテインの誕生日でもある。

セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテインは、1898年1月10日、バルト海に面するラトビアのリガで生まれた。ラトビアは当時、帝政ロシアの支配下にあった。エイゼンシュテインの家系は、その名「~シュテイン」の示す通り、ユダヤ人の血をひく家系で、セルゲイの父親は建築家だった。
セルゲイは、専門学校で建築を学んだ後、20歳で赤軍に入った。復員後は、モスクワの劇場で美術を担当した。
26歳のころ、演劇界から映画界へと転身し、映画『ストライキ』を製作。
27歳のとき、名作『戦艦ポチョムキン』を監督。モンタージュ理論を実践して見せた有名なシーンにより、この映画はエイゼンシュテインの名を世界にとどろかせることになった。
以後、『十月』『全線』『アレクサンドル・ネフスキー』『イワン雷帝』などを発表。
1948年、モスクワで没した。50歳だった。

栄光と名声に包まれた大監督だけれど、その生涯と作品をあらためてたどってみると、激動の時代に生きた悲運の映画監督、といった印象が強い。
1917年。ロマノフ王朝がひきずりおろされた三月革命、そして社会主義政権が打ち立てられた十一月革命と、いわゆるロシア革命が起きた。これがエイゼンシュテイン19歳のとき。
ロシア革命の指導者レーニンが没し、権力闘争の結果、スターリンが権力を手中にした。独裁者スターリンの大粛清により、ロシア内外で毎年何十万人という数の人間が処刑されていった。それはエイゼンシュテインが30代後半のころだった。

当時のロシアでは、映画の製作と配給は、国家の事業で、『戦艦ポチョムキン』も、党中央委員会の委託を受けて製作された、党の作品だった。
そういう状況下で、エイゼンシュテインの映画製作はつねに国家からの監視のもとでおこなわれ、つねに批判され、修正したり、未完のままお蔵入りになったりした。
『全線』はタイトルとラストシーンを変更させられ、『ベージン草原』は未完のまま放棄させられ、『アレクサンドル・ネフスキー』は上映禁止、『イワン雷帝』は第一部は激賞されたもの、第二部は上映禁止となった。『十月』には、スターリン自身が大幅なシーン・カットを直接指示したという。
エイゼンシュテインにとって映画製作は忍耐と抵抗の作業だったはずだ。

若いころ『戦艦ポチョムキン』を新宿の名画座でみた。名前だけは、ずっと前から聞いていた垂涎の映画だった。虐殺された民衆の死体が累々と積み重なったオデッサの広場の階段を、赤ちゃんをのせた乳母車が、誰も押さないのにひとりで、かたんかたんと下りていく。その静かさ、冷たさ。戦争というものを象徴する、この名場面中の名場面は、よく記憶に残っている。圧倒的な勢いで押してくる「力」を感じた。
エイゼンシュテインがもしも、もっと自由な環境で映画を撮っていたら、と時々想像する。彼の生涯は、きみはいまの環境でもっとできることがあるのでは? と問うてくる。
(2019年1月10日)



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