いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

Oさんの思い出

2018-11-19 20:28:40 | 人生


高校に入っても、
わたしの
「思い上がり」は、
なおっていなかった。

公立中学の
「生徒会長」
として、
教師から、
特別な目で
観られていた。

自分で気づかないまま、
わたしは
想いあがっていた。

仲間の冷たい目の中、
Oさんだけは、
普通に
つきあってくれた。

Oさんは、
たいへん
勉強ができ、
「女性でも医者になれるか。結婚はしたいが」

悩んでいたのだ。

それなりの
友達付き合いをした。

結局、
Oさんは、
医学部に進み、
眼科医になった。

そして、
今はだれが学長かしらないが、
ある時期の広島大学の学長と
結婚したらしい。

それを聞いた時、

サスガ!!
と思った。

わたしの中学受験

2018-11-19 20:05:05 | 人生



小学生の頃、
遊び惚けて、
本も読まず、スポーツもせず。

思いついて、
中学受験を
することになった。

ちっとも特別な勉強はしていない。

受験者は、
校長の面接を
受けることになった。

校長「どうして受験するの?」
わたし「自分の力をためしてみたいんです」
校長「毎日、どのくらい勉強するの?」
わたし「ほとんどしていません」
校長「勉強せずに受験するのは好きじゃないよ」

とんでもない。
自分の一生を
校長の
「好き嫌い」

判断されたくない。

そう思ったが、
黙っていた。

とんでもないことである。
教師自身の
個人的な
「好き嫌い」

押し付けるとは。


私的な感情と
教育愛を
混同している。

今のわたしなら、
そのように、
はっきり言う。


教育愛とは程遠い
感情論である。

今なら
こういう人は、
校長にまで
昇り詰めることはない。

そういう時代だったのだろう。

勿論、
わたしは、
試験に落ち、

公立中学に進んだ。

そのほうが良かった、
と、
今は
思う。

ブログとフェイスブック

2018-11-19 18:52:49 | 人生


ながらく、
フェイスブックと
ブログを書いてきた。
ついでに、
ツイッターも
はじめた。

予想をこえて、
多くの方が
見てくださり、
フェイスブックの方は、
友達を増やすと
管理できなくなり、
大幅に
友達を減らした。

申し訳ないことだが、
責任をもって
対応するには、
これしかない。

さいわい、
ブログとツイッターは、
何人見ていただいても
大丈夫。

そういうことで、
ブログとツイッターは、
続ける。

読者登録を
してくださる方もあり、
輪がひろがる。

ちょっと、
気がおもくもあるが

がんばってみる
ことにした。

‥‥‥


これからもよろしくお願いします。

24人目の読者登録

2018-11-19 17:48:39 | 人生


ブログを書こうとして、
パソコンをたちあげた。
念のため、
メールを見た。

「読者登録されました」
と、
出た。

24人目。
「夢月物語」
という
ブログの筆者である。

好き勝手なことを書いてきて、
読者を意識することはなかったが、
読者登録していただくと
うれしいものだ、
と、知った。

たいへんな人気ブログ。

このブログを見ている方にも、
お薦めする。

親をみとり、
さらに

介護していらっしゃる方である。

いいい文章と写真だ。

そういうことで、、
書きたいことは
後回しにし、
とりあえず、
ご報告。

ついでに、
わたしも
ほかの
23名の
読者登録してくださっている方のことを、
調べておくことにしました。

「夢月物語」
オススメです。

信仰はおしつけるものではない

2018-11-19 13:53:34 | 信仰



信仰は、
押し付けるものではない。

ある聖職者が、
「信仰、信仰と」
叫ぶばかりの人は、
えてして、
ホンモノの
信仰をもってはいない。
と言われた。

そう、
聖職者でない限り、
信仰は、
叫ぶものではない。

その人が、
立派な人であれば、
「信仰」
などと叫ばなくても、
他の人は、
「なにか、一般の人とは違う」
と思い、
その信仰に
目をむけるだろう。

それが、
聖職者でない

信仰者の
生きる道だろう。

信仰、信仰と叫んだある人を
歌った短歌を載せて、
この稿を終わる。
オウム信者のことを
歌った
短歌である。

‥‥‥

ねばねばのバンドイエドをはがしたらしわしわのゆび じょううゆうさあん



父の涙~その2~

2018-11-19 11:34:23 | 人生


父が、
酒を飲みながら、
涙を
ポロリと流したことは、

~その1~

書いた。

学校を終えた父は、
戦中のこととて、
海軍に志願。

採用されて、
将校となった。
海軍少尉。

横須賀の
女子寮監督になる。

それは
表向きのことで、
実は、

人間魚雷「回天」の
設計をしていた。

そして、
敗戦。

思いつめた父は、

酒を3升のみ
自殺を図った。

が、
気が付いたら、
病院のベッドの上だった。

広島に帰る。

そこは、
原爆で破壊されていた。
実家は、
原爆投下直下であった。

祖父、
父、
母、
姉2人、
妹2人を一挙に
喪った。

残るは、
疎開していた
小1と
中2の
弟のみ。

焼け跡の中、
3人で、
板を見つけて、
バラックを建て、
暮らし始める。

NECに入りたかったようだが、
職を探しいたら、
国鉄(今のJR)が、
職員募集中。
ぜいたくなことはいえないので、
就職。

その後
母と結婚。

弟を育てつつ、
暮らす。

そして、
昭和24年、
長男誕生。
昭和26年、
弟が誕生。
それが、
わたしである。

こうして、
焼け跡のバラックから、
父の戦後が
始まった。

これにて、
いったん、
終了。

その後のことは、
また。










父の涙~その1~

2018-11-19 11:21:16 | 人生



それは、
21歳の冬だった。

東京から帰省したわたしと
父とは、
酒を酌み交わしていた。

台所の母に
「酒を追加してくれ」

言いつつ、
2人は、一晩中
語りあかした。

そのとき。

父が、
ポロリと
涙を流した。

「生きてきて、なあんにも面白いことはなかった」

異母姉を
ひとりもつ
長男であった。

小学校では、
名うての
秀才だったらしい。

広島一中にはいり、
よく勉強したが、
どんどん成績が
下がっていく。
才能がなかったのだろう。

一浪して(当時は相当恥ずかしいことであったらしい)
広島高等工専(今の広島大学工学部)に入学。
本人は、
京都大学に行きたかったが、
親に許してもらえなかったようだ。

学校を卒業。

第2次世界大戦の
戦中のことである。

続きは、
~その2~

に書く。