いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

stray sheep~迷える子羊~へ 稲盛和夫の姿

2019-08-08 20:58:59 | 文学


stray sheep~迷える子羊へ

今日、君に何が起こっただろう。
いじめられたかもしれない。
散々な目にあったかもしれない。
しかし、くじけるな。
君の属しているグループの中に、
きっと、ひとりだけ、
君を理解してくれる人がいる。

迷える子羊よ。
stray sheepよ。
神様は、決して君を見捨てられない。

理解してくれる人がいないと嘆くな。

それは、君が未熟だからだ。
明日になれば、それはわかる。

かつて、
稲盛和夫さんは、
そういう信条でがんばり、
億万長者になった。

君はひとりじゃない。
stray sheepへ。









海軍主計大尉小泉信吉②~その手紙~

2019-06-25 21:04:55 | 文学


昭和16年、17年といえば、
太平洋戦争の最中であるが、
海軍の士官には、艦内で私室を与えられることもあり、
読書や遊びに興ずるということも、なかったわけではない。
また、ちょっちゅう港には寄港するから、
戦艦所属の軍人が家庭にかえることもまれではなかった。
また、私信もゆるされたことがある。

小泉信吉の、家族あての私信の例を挙げてみる。

……

8月も終わり、9月1日となった今朝は、風が恐ろしく強く、雨が叩くような音をたてて船体を打っていました。こちらでは総員起こしが3時、朝食が5時、昼は10時、夜は3時で、ただ今の時間は午前6時半少し過ぎです。天気は治り、薄日がさしていますが、光線に力がないので、陸上の樹木の緑色は艶がなく、海面も鮮明な色を欠いて、一寸趣の変わった景色です。
さてまだまだ、内地向きの便がないので、この手紙出せそうもありません。しかし一応ここで区切りをつけ、余は「通信第4」に譲ることにしました。只今は9月5日の夜であります。ではみなさん、何とぞ御身くれぐれもご自愛ください。小生は相変わらず元気、程よき食欲あり。
                              信吉

父上様
母上様
加代子様
妙子様









海軍主計大尉小泉信吉~若き士官の死~

2019-06-25 20:28:52 | 文学


小泉信吉(こいずみしんきち)。
元慶應義塾塾長の小泉信三の長男。
祖父は、やはり慶応義塾塾長の小泉信吉(こいずみのぶよし)。
祖父については、Wikipediaを調べれば、大要はわかるが、信吉(こいずみしんきち)
は、若くして亡くなったので、詳しい記述はない。
以下、「しんきち」に関して書く。

彼については、父の小泉信三の「海軍主計大尉小泉信吉」を読めば、
人生の大要はつかめる。

信吉は、大正7年1月17日に生まれた。
慶応幼稚舎から慶応大学を卒業し、
三菱銀行に4か月、海軍に1年2か月にわたり奉職。
昭和17年10月22日、海軍主計大尉として南方で戦死した。
ときに25歳。
未熟児として生まれ、幼いときは、病弱であった。
後、慶応義塾大学在学中は、学問に興味を持ち、
一時は研究者になろうとの志望もあった。
しかし、海軍少年であった信吉は、卒業後、
海軍に奉職することになる。
始めは「那智」の主計中尉として乗船し、
後、「八海山丸」の主計長となった。

人柄はよく、
父信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」からわかるように、
多くの人に愛された。
我が子を25歳で失った信三の哀しみを癒すため、
信三の知人が、この思い出の書を書くことを勧めたのであった。

父信三は、
親子のことを、次のようにまとめている。

……

親の身として思えば、信吉の25年の一生は、やはり生きた甲斐のある一生であった。信吉の父母同胞を父母同胞とし、その他すべての境遇を境遇と死、そうしてその命数は25年に限られたものとして、信吉に、今一度この一生を繰り返すことを願うかと問うたなら、彼は然りと答えるであろう。父母たる我々も同様である。親として我が子の長命を祈らぬ者はない。しかし、我々両人は、25年の間に人の親としての幸福は享けたと謂いうる。信吉の容貌、信吉の性質、すべての彼の長所短所はそのままとして、そうして25までしか生きないものとして、さてこの人間を汝は再び子としてもつを願うかと問われたら、我々夫婦は言下に願うと言うであろう。
(以下略)

……





























エッセイ「網走線の農夫」~宮柊二~

2019-06-21 21:13:37 | 文学


宮柊二は、著名な歌人であるが、優れたエッセイの書き手でもあった。
そのエッセイの一つ「網走線の農夫」を紹介してみる。

……

老いた農夫が、私の前の席で口づけに瓶ウイスキーを飲んでいる。札幌を発車したとき、たしかに私の前の席は空いていたのだった。網走に向かう夜行車に、いつ、どこの駅から、農夫は乗り込んできたのだろう。
呻るような飲み方だが、口へ運ぶ時間がゆっくりしていて、荒れた感じではない。鍔の狭い麦わら帽子をかぶり、農衣の下に茶のチョッキが見えた。農衣といっても、古い軍服か作業服らしいが、もうその面影がないくらいに着古されている。多くはない鬚だが、伸びたまま、相当にもう古い。一向に酔う気配がない。黙々として、一人で飲み続けている。顔を窓に向けることもない。俯いているのでもない。といって、前の私へ視線を当てるということもない。ほとんど感情というものを示さない。縦に皴が深くある顔は、車中のほの暗い灯に、隈取をほどこしているように見えることもある。ウイスキーがなくなったらしく、やがて脚を抱えるように曲げ、私の前の席で横になった。ゴム長靴を履いたままで足を曲げ、窮屈そうに横たわり、目を閉じている。こどものような妙な孤独を漂わせている。朝が来た。濃い霧が田園にたちこめ、刈り残された稗が、そのなかにぼうっと影を立たせている。汽車が北見駅に着くと、眠っているとばかり思われた老いた農夫は、足取りしっかりと立ち上がり、ホームに降りて行った。そして焼酎の瓶を一本買って、席に戻ってきた。戻ってくると、走りだした汽車の窓から硝子越し、しばらく外を見ていたが、また口づけに、その焼酎を飲み始めた。列車は網走に着いた。潮の匂いのする網走駅に降り、二人は勝手に別れた。
十年前の、晩秋の、網走線の中で会った老農夫を、私は今でも折々に思い出すのである。
(以下略)

……

淡々としていて、しかし、味わい深いエッセイである。










太平洋戦争で捕虜になった機長のその後

2019-06-18 20:46:02 | 文学


太平洋戦争の経験から得られる教訓を、後世に残したいという願いは、
もう遂げられなくなる寸前である。
戦争経験者が、次々と鬼籍に入るからである。

戦争末期、米軍の捕虜になり、のち、生還した飛行機長がいる。
海軍兵学校の卒業生、海軍少尉豊田穣である。

彼は、南方で、敵軍襲撃のために
出撃したが、気象状況のために1943年4月7日、
米軍機に撃ち落されてしまった。
幸い、けがはなく、洋上を漂流する。
自決するかどうか、迷ったが、生き続ける道を選んだ。
周りをうろつくサメの群れに脅かされつつ、
1週間ののち、米軍の船に救助された。

彼は、部下の一人とともに、米軍捕虜としてアメリカに抑留される。

飛行機を操縦していた時に何が起こったかは、次のように書かれている。

……

空母・飛鷹の急降下爆撃隊員として、この攻撃に参加した。
目指すガダルカナル上空の手前で、高度1万メートルの積乱雲に遭遇して、
行き悩んだ。急降下爆撃機の上昇限度は8千メートルで、
そのため、
攻撃隊の速度は鈍った。
先頭から70機めくらいにいた私の機も、
速力を緩めざるを得なかった。
眼下に敵艦隊は見えず、海の波が見えないほどの高度である。
わたしが焦っていた時、
「敵機襲来!」
という偵察員の声が響いた。
反射的に上空を見ると、敵戦闘機がこちらに向かってくる。
急降下してくる敵戦闘機をかわして、ほっとしたとき、
私の機のエンジンが、下から襲ってきた敵機の銃弾にやられたのである。
操縦席から1メートル半ほど前方に、火の玉が噴出し、エンジンは停止して、
プロペラは空回りを始め、機は高度を下げていった。
滑空状態に入ったのである。

……

その後、前述のように、洋上に落下し、
1週間の漂流生活に入る。
米軍に助けられ、捕虜となったのは、
その後である。

捕虜としての生活、復員後の生活も
明らかにされている。
こののち、少しずつその内容を述べたい。











































































カモカのおっちゃん③~18禁・田辺聖子のナニの話①~

2019-06-16 18:23:27 | 文学


医師・カモカのおっちゃんと田辺聖子のナニの話。

一夜にして秋となり、朝夕は涼しい。日本の秋はいい。世界に冠たるものは日本の秋である。
私のマンションからマトモに六甲連山が見えるので夕焼けの美しさったらない。
私は夕焼けし始めると仕事なんかほったらかして飛んでいき、ブランデーの水割りなんかちびちびやって、そうなるともう、これは朝まで。新月が出たと言っては飲み、真っ暗になったと言っては飲み、して楽しんでいる。
ただ、夜と早暁、暴走族が下の道路に多くて困ってしまう。主基公園の東側にたむろするのが、常時7台から9台いて、凄い爆音をとどろかして走り狂っている。
明け方なんか、もうひと眠りするとシッカリするというときに、空にヒコーキ、地上にオートバイ、ブルブルゴーゴーと、しまいに腹立ちを通り越して笑いだしてしまう。伊丹市は空のヒコーキ対策と同じように地上のオートバイに乗ってゴキブリも取り締まってほしい。住宅地で爆音をひびかせられてはどうしようもない。これが芦屋西宮のように、市民意識の発達してる町だと、町内、とても黙っていない。
そんなことを考えながら、ちびちびブランデーをすすっておりますと(何しろブランデーは高いので鯨飲してはもったいない)「あーそびーましょ」とカモカのおっちゃんがきた。
「下の道路、アホガキがえらい音たてて走ってますな」
「音は上へ行くほど聞こえますから」
「窓を閉めれば少しはちがうでしょう」
「窓を開けるのが好きなんです。風を楽しみたいから、少々寒くとも。『窓を開けますか?』という小説を書いてるくらいです」
「小説なんかどうでもええけどオトナの営みがジャリに邪魔されるのはけしからんですなあ。あない、えらい音立てられては気が散って、おちついてできまへんやろ」
おっちゃんの言うのは、そんなことばっかし。おっちゃんはいかめしく形を改め、「何を言う。それが社会の一般根幹やないか。男にとってそれ以上の大切なことあらへん」
「あら、ホーント。そうかなあ」
「男は、そのことを重視しますなあ。そんなん、どっちでもええ、もっとほかに世の中にゃ大切なことある、という評論家や文化人の手合いは、照れ隠しにそんなこというとるだけ、男と生まれたからにゃ、ナニを重視せざるを得まへん」

(続く)


















































カモカのおっちゃん②「パンダは女」

2019-06-15 21:20:00 | 文学

先日91歳で亡くなった田辺聖子の「カモカのおっちゃん」。

第2話

このあいだ東京は上野でパンダを見ました。
もうこの頃は見物人も少し減ってるかなあと思って、見に行ったのだ。
ところが、なんのなんの、妊娠騒ぎからこっち、また連日、見物客が増加しているそうである。
上野動物園、裏から入って、荷物を預けようとすると、あずかり所はない。
そこから10分も歩いたパンダの前の案内書にしか、あずかり所はない。不便だ。
私は、あるものだと思ってバッグを持ち込んだので、たいそう困った。
でも、カモカのおっちゃんがいてたすかった。
おっちゃんに荷物をもたしてやった。
「爺さん婆さんの東京見物という図ですなあ」
「唐草の風呂敷に包んでくればよかったですね」
神戸の王子動物園を考えるものだから、上野動物園はやたら広く思われる。
モノレールに乗って反対側に行く。
木はずいぶんたくさんあるけれど、人が多くて埃っぽく猥雑であった。
いやもう、あまりにも人が多い。とても神戸の王子どころのさわぎじゃない。
大坂の天王寺動物園も人が多いけれど。
神戸の王子が好きなのは、景色がいいのだ。
春のさくらどきもいいが、何でもないときでも、一番奥の山側の。カバとサイのいるあたり、すばらしいながめなのだ。






































カモカのおっちゃん①田辺聖子さんの作品

2019-06-15 20:26:48 | 文学


2019年6月6日、作家の田辺聖子さんが亡くなった。
91歳であった。
1928年大阪生まれ。
知人の医師、川野純夫さんと結婚。
後妻で、夫には4人の子どもがいた。
なぜか、すぐに離婚するという風評がながれ、
2か月で離婚、4か月で離婚、6か月で離婚、という説しかなかった。
が、2002年、川野さんが亡くなるまで添い遂げた。
小説「感傷旅行」で第50回芥川賞を受賞。
文化勲章も受賞した。

「カモカのおっちゃん」は、
夫との会話をもとに、おもしろおかしく書いたエッセイ集である。

……

王貞治さんが国民栄誉賞を受賞した時の小話。

おっちゃんと、国民栄誉賞の話をしていると、末広真樹子さんがきた。
「ねえねえ、こんな笑い話、知ってる?王選手が2本足だったらもっとはやく新記録を出してたろう……って」
おっちゃんと真樹子ちゃんは笑うが、私はどこがおかしいのか、頭が禿げるほど考えた末、
「王選手って、3本足だったっけ?」
と聞いたら、2人は声をそろえて、
「バカ、大きな声でなんちゅうこという!」
「こわいこわい、こんなこと言う人うっかり放送にだせない」
とさわいでいる。
「王は1本足やないの、あほちゃう」
と叱られ、アッそうか、何でも奇数とおぼえてたんだけど。
ほんとは私、よく野球を知らないんです。野球オンチからみると国民栄誉賞というのは、王サンにそぐわないんです。

































阿川弘之先輩をしのんで~そして阿川佐和子さま~

2019-06-03 18:33:52 | 文学

阿川弘之。
一般的な説明なら、次のようになる。

1920年、広島市生まれ。
1942年、東大国文科を繰り上げ卒業し、
海軍予備学生として海軍に入る。
戦後、志賀直哉に師事。
1953年、学徒兵体験に基づく「春の城」で読売文学賞を受賞。
同世代の戦死者に対する共感と鎮魂あふれる作品も多い。
元芸術院会員。
「雲の墓標」
「暗い波濤」
「志賀直哉」
「米内光政」
「山本五十六」
「井上茂美」
等の作品がある。

私が彼を知ったのは、高校の現代国語の時間に
教科書で彼の短編を読んだからである。
才能もないのに小説家志望であったわたしは、ぞっこん惚れ込んだ。
東京で大学生活を送っている頃、
高校の同窓会があり、阿川先輩も来られるということで、
期待して行ったが残念ながら所用で欠席、ということだった。
それ以来、接点はなかった。
自分自身は、国文科志望だったが、周囲の反対に遭い、別の学部に在籍していた。
今思えば、素直に国文科に進んで、
採ってもらえれば学校の国語教師になった方がよかったと思っている。

かの有名な阿川佐和子さんは、
彼の長女で、
本人も、父親も、友人も、
「いいお嫁さんになる」のが普通の未来、だったようだ。

ただ、彼女は、今はいろいろ言われるが、
阿川先輩のお嬢さんだ、というだけで、
私は、今でも「阿川佐和子さま」
と呼びたくなるのである。










というこ

















































家族の歌~4人家族はみんな歌人~

2019-04-17 10:35:47 | 文学


4人の家族が、
揃って歌人、
という家族があった。

永田和宏
河野裕子
永田淳
永田紅

永田と河野は、
20歳と21歳の時知り合い、
めでたくゴールインした。

その河野裕子が、
乳癌にかかった。
54歳の時。
一応治療は成功したが、
62歳にして再発。
乳癌は、再発すると、
極めて症状が悪化する。

河野裕子も余命僅か、
と宣告された。
実際、2年しか生きられなかった。

家族である4人が、
死の間際と死の直後、
エッセイ集を残した。

「家族の歌~河野裕子の死を見つめた344日~」

これが、そのエッセイ集である。

歌を1首、
それにまつわるエッセイを添える。

河野の死後、彼女をしのんだ歌を挙げる。

……

死して後お母さんと呼ぶをためらわずなりお袋となりそこねたる母
                              永田淳

あほやなあと笑ひのけぞりまた笑うあなたの椅子にあなたがいない
                              永田和宏


















詩~~白梅花

2019-04-14 21:06:17 | 文学


~白梅花~

城あとのしもとのなかの
ひともとの老い木のうえに
梅の花はつはつ咲きぬ
さがたりやこのもかのもの
その枝の瑠璃のさかづき
甘からめ香しからめ
二つ三つ
目じろどり来てくちつくる
ひそかなりげにそのほかは
うごくものなき丘のべゆ
こゑなき海もはるか見ゆ

詩~世はさながらに~

2019-04-13 22:21:46 | 文学


~夜はさながらに~

月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
                              業平

かなたなる海にむかひて
かしらあげさへずる鳥は

こぞの春この木の枝に
きて啼きし青鷗のとりか

かぐはしきこのくれなゐの
梅の花さけるしたかげ

これやこのこぞの長椅子
古りしままなほくちずして

こぞありしほとりに咲ける
はしきやしたんぽぽの花

宿を出て物思ひつつ
ゆくりなくわが来しをかべ

あづさゆみ春の日ざしに
こぞの日のこぞのものみな

うつろにはありけるよあな
いにしへのうたのこころを

なかなかにわが身のみかは
おしなべて世はさながらに

さながらに
ものの
あはれや









      

詩~志おとろへし日は~

2019-04-11 23:02:49 | 文学


志おとろへし日は

こころざしおとろへし日は
いかにせましな
手にふるき筆をとりもち
あたらしき紙をくりのべ
とほき日のうたのひとふし
情感のうせしなきがら
したためしかつは誦しつ
かかる日の日のくるるまで

こころざしおとろへし日は
いかにせましな
冬の日の黄なるやちまた
つつましく人住む小路
ゆきゆきてふと海を見つ
波のこゑひびかふ卓に
甘からぬ酒をふふみつ
かかる日の日のくるるまで

蜜蜂と遠雷~文庫化される~

2019-04-11 22:47:00 | 文学


たいへん人気の高い小説の
「蜜蜂と遠雷」が文庫化された。
ピアノコンクールをめぐる人間模様を
実に巧みに描いている。
主人公は、
羊飼いの少年だが、
その素性はわからないまま
小説は終わってしまうのである。

さて、コンクールの優勝者は誰?