夕方5時、
趣味のサークルからの帰り道、
飼い主と犬が前を歩いていた。
犬は、大きなブルドッグ(最近犬を飼ったことがないので正確な名はわからない)
のような種類で、
歩きかたに、特徴があった。
4本の足がみんな内股で、
ひょうきんな、しかし、苦しげな足運びだった。
後ろからなので気づかれる心配はなく、
なにか複雑な気分でながめていた。
すると、ひとりの女性が立ち止まって、笑顔で頭をなでる。
連れの男性も、やさしそうに見ている。
飼い主の様子には、変わりはない。
あ、障碍を持っているんだな、とわかった。
そのとき、
あの犬は幸せなんだな、と思った。
障碍をもっていても、
それゆえになお、
愛される。
恵みだ。
健常な犬には、それなりの恵みがある。
しかし、障碍をもったあの犬は、
また別の恵みをいただいている。
その恵みは、どちらが上、というものではない。
まったく違った恵みなのだ。
そこで気がついた。
私は、さかんに、
障碍をもった人に、理解をもって、優しく接してほしい、
と主張してきた。
それって、おかしくないだろうか。
障碍があろうと健常だろうと、
違った種類の恵みをいただいているだけだ。
めくじらたてて「偏見をなくしましょう」
と言うこと自体、差別ではないのか。
そう、その差は連続的なものであって、
程度が違うだけでもあるのだ。
ひとつの気づきを与えてくれたワンちゃんと、
ワンちゃんを笑顔でなでていた女性に教えられた。
感謝。