いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

「日本人とユダヤ人」イザヤ・ベンダサン に思う ~日本教について①~

2019-07-28 20:02:00 | 信仰


約50年前、ある評論集が、爆発的に売れた。
「日本人とユダヤ人」イザヤ・ベンダサン著。
流麗な日本語で書かれているので、一体誰が書いたか、
日本中大騒動になった。
結局、評論家山本七平が書いた、と判明した。
日本人とユダヤ人は、全く対照的だ、という。
たとえば、会議の結論をだすについて、日本なら、たとえ反対者がいても、
「全員一致」という結論だとする。
ところが、ユダヤ人の会議においては、
一人でも反対者がいたら、結論は出せない、続けて議論する、というのである。
このような例を挙げながら、その対照的な文化のあり方を明らかにする。

この書の中で、山本七平は、
「日本教」という語を造語した。
日本独自の宗教観、ということで、
日本人なら、
仏教徒であろうと
キリスト教徒であろうと
イスラム教徒
であろうと、
「日本教」の信徒である、というのである。
「道」を求める、というについては変わらない、と彼は言う。

当時の日本人にとって、一理ある、という論の展開であった。
詳しくは、文庫にもなっているので、
一読をお薦めしたい。

ところで、ある友人が、仏教の僧侶になった。
熱心に修行したが、悟りをひらく、というところまでいかないうち、早逝した。
彼が、信仰の道を、短歌に詠んだ。
その短歌集が、
友人の手を通じて、今、わたしの手元にある。
115首である。

わたしは、敬虔な仏教徒ではない。
だが、彼の短歌集を読むとき、
一定の感動を覚える。
宗派は、仏教でなくとも良い。
キリスト教でも
イスラム教でも
ユダヤ教でも
よい。

とにかく、彼は、熱心な求道者であった。

もし彼が、
神父であろうと
牧師であろうと
ラビであろうと
かまわない。

短歌のなかには、真実、「道」を求める美しい心が映されている。
「日本教」の信徒、と呼んでもよいかもしれない。
彼の名は、三田和美。

3首だけ紹介し、
あとはまた、書き継ぐつもりである。

18 吾 他人と 法をよろこぶ 人生を 授けたまひし 南無阿弥陀仏。
19 我が心 けがれたれども お六字に みちたりいます 恥ぢております。
20 今日一つ 良きことをせり 親様は さぞご満足 南無阿弥陀仏。

























宗教的な対話の書「禅と福音」~仏教とキリスト教の対話~を読む

2019-05-14 21:28:13 | 信仰

世の中に宗教と言うものは、たくさんある。
日本人に最も縁の深いのは仏教と神道であり、
生まれてきた人は、ほとんど自動的にこの双方のいずれかもしくは双方に
属することになる。
ゆえに、多くの人は、あまり「宗教」を意識しない。
これに対し、日本のキリスト教信者は、1%に満たないと言われる。
しかし、世界で最も信者の多いのはキリスト教で、約26億人。
仏教徒は約6億人と言われる。
ならば、日本人も、キリスト教がどういうものか、
知っていたほうがよいのは当然だろう。
とはいえ、この2つの宗教の内容となると、
不可解だ、という人が多いだろう。
ここに、「禅と福音」という書の価値がある。
カトリック(キリスト教)司祭と曹洞宗(仏教)僧侶の対談である。
キリスト教の司祭は来住英俊氏、仏教の僧侶は南直哉氏。
根本的な違いは何か。
強みは何か。
触られると痛いのは何か。
教義から始まり、誰から生活資金を得るのか、
まで、語りつくす。
お互い、相手の宗教については専門家ではないから、
初歩的な問題も聴きあうし、
専門的な問題も語り合う。
一般にいわれる教えが、真実に近いかどうか、も忌憚なく明らかにしている。
自殺の問題。
倫理の問題。
死刑の問題。
来住司祭も、南禅師も、
この対談から多くを得たという。
来住さんは、書物だけでなく、
仏教の僧侶のナマの考え方を知り、
学ぶことができたという。
南さんは、カトリックへの憧れのようなものを
持ち続けるだろうという。

宗教の問題に関心を持つ、
多くの方の参考になると思う。










































妄想する莫れ~とらわれずに今を生きる~

2019-04-14 21:54:13 | 信仰


わたしたちは、悪いことが起きてもいないのに
心配したり、失敗したことをあれこれ後悔したりと、
まだ起きてもいないことや過ぎてしまったことに
とらわれてしまいがちです。

しかし、自分が生きているのは、過去でなく、未来でもなく、現在なのです。

子どもの頃に「よく遊び、善く学べ」と言われたことがある方も多いでしょう。
遊んでいるときに勉強のことを考えてしまっては遊びを楽しめなくなってしまいます。
また、勉強の時に遊ぶことを考えてしまっても、勉強したことが
頭に入りません。
遊びの時は遊びに打ち込み、勉強の時には勉強に打ち込むように、
他のことにとらわれずに今すべきことを一生懸命にすることが大切です。

妄想にとらわれることなく積極的に今を生きたいものです。


宗教を見分ける法~簡単な基準~

2019-04-14 20:50:13 | 信仰


本日、講演会を聴いてきた。
宗派にかかわらず、
その宗教が信頼できるかどうか、
見分ける法。
そのためには

①命を大切にするかどうか。
②お金にあまりにこだわるかどうか。

だそうである。

基本的に支持できる意見だ。

この基準をあてはめると、
ホンモノとニセモノを見わける方法が、
見えてくる。

解放の神学~教皇フランシスコの思想~

2019-03-22 20:54:32 | 信仰


第266代ローマ教皇フランシスコの出身は
アルゼンチンである。
アルゼンチン出身の教皇は初めてである。
また、彼はイエズス会出身で、
これも世界初である、

南米では、
カトリック教会の力が強い。
その基本に
「解放の神学」がある。
フランシスコも、その影響を受けている。

ひとことでいうと、
弱者の立場を忘れないことである。
とくに、アフリカ、アジアの発展途上国に
目を向けている。

その内容は、この書に示されている。

フランシスコ教皇は
今年末、日本を訪れる。

日本国民は、この書を読んでおくべきである。

ローマ教皇フランシスコの生涯

2019-03-08 22:02:35 | 信仰



第266代ローマ教皇フランシスコの生涯と思想を明らかにする。
フランシスコは、アルゼンチン・ブエノスアイレスに生まれた。
大学で化学を学んだ後、
科学の教師として、
教壇にたつ。
そののち、
神学校に入学、
卒業後、神父となる。
イエズス会の修道士としても有名である。
イエズス会の修道士がローマ教皇になったのは
彼が初めてである。
アルゼンチン教区司教などを経て、
ローマで枢機卿に。

2013年、選挙によって、
第226代ローマ教皇となった。

謙遜、柔和であり、
教会の改革を進めた。

やわらかい信条で、
イスラム教、ユダヤ教徒と好関係を結んだことも
特筆される。

「解放の神学」に共鳴し、
貧者、弱者、アジアのひとびとに深い関心を寄せた。

12億の信者のトップでありながら、
質素、倹約、博愛を貫いた。
また、他の宗教との融和を進め、
多くの新しい信者を獲得した。

2019年末には日本を訪れ、
広島、長崎にも滞在する予定である。
82歳。

第266代ローマ教皇フランシスコ 今年末に来日

2019-03-07 15:30:16 | 信仰


2013年に第266代ローマ教皇となったフランシスコ氏が来日する。
アルゼンチン出身の82歳である。
貧しい人を助けること、
謙虚であること、
清貧であることを
基本的な態度とする。

謙虚で穏やかであることは、
衆目の一致するところである。

第2バチカン公会議以来の教会の姿勢を
基本的なものととらえ、
解放の神学を根底にもちながら、
全世界のカトリック教徒に敬愛されている。

かつて、
日本に宣教師として派遣されることを望んでいたこともあり、
アジア、アフリカの人々の癒しにも意欲をもっている。

たまりにたまったローマカトリック教会の歴史を
正しく導き、福音が全世界のもたらされることを祈っている、
と紹介される。

ローマ教皇フランシスコの来日~今年末~

2019-03-06 18:58:47 | 信仰


今年の末に、第226代ローマ教皇フランシスコが来日する。
全世界に6億人の信徒を持つカトリック教会。
その信者に絶大な影響力をもつのが、
頂点に立つローマ教皇である。
その言葉、行動のひとつひとつが
非常に大きな意味を持つ。
広島、長崎を訪れることも決まっている。

教皇が来日するときには、
すでに平成の元号かわっている。
日本がどのような態度をとるのか、
注目されるところである。

信教の自由~新興宗教は排撃されるべきか?~

2019-01-27 20:02:02 | 信仰


信教の自由は、憲法でも保証されている。
日本人は無宗教だという説もあるが、
むしろ、多くの宗教に寛容だ
と言った方がいいかもしれない。

多くの日本人は、
生まれたときから、
仏教徒ないしは神道の信者である。
意識することなく、
受け入れている。

信教の自由。
しかし、
オウム真理教のような邪教もある。
新興宗教も、
無数にある。
どれを信じたらいいのか、
難しい。
ただ、
仏教、キリスト教、イスラム教、神道
といった伝統的な宗教は、
信用がある、とは言えるかもしれない。
ただ、
実際に中に入り、
体験してみなければ、
本当のことはわからない。

それは、伝統宗教であれ、新興宗教であれ、
同じである。。

そう、仏教も、キリスト教も、イスラム教も、神道も
かつては新興宗教だったのだ。

信教の自由。
しかし、
ある新興宗教では、
地位も名声も金もあるエリートが、
宗教がらみで殺人まで犯した例もある。

よく常識をわきまえ、
謙虚な姿勢で取り組むことが望まれる。





人は死んだらゴミになる?

2019-01-21 20:47:44 | 信仰


あるとき、時の検事総長が、
本を出した。
「人は死んだらゴミになる」
宗教上、そうした見解をとらない人は多いし、
地獄など存在しない、という人もいる。

友人の女医さんは、やはり
「自分は、死ねばゴミになる」
という。
宗教上、それはけしからん、
という人もあろうし、
私自身もそれなりの意見を持っているが、
上のような発言も、世間で生きている以上、
存在を認めなければならないだろう。

ある歌人は、
次のような歌を残している。

ほの光るDNAをたずさえてわたしは恋するわたしもり
                    大滝和子

確かにそうなのだろうが、
それにしては、
人間は、恋に弱い生き物だなあ、
と、感心しきりなのである。

法廷の宗教戦争~憲法の保障する信教の自由~

2019-01-20 20:45:40 | 信仰


宗教上の問題は、多くの考え方を生む。
なるほど、
日本国憲法は、信教の自由を
保証している。

オウム真理教のような
特殊な例を除き、
新宗教であっても
ただちに、違法になる
というものではない。
「著しく」公共の福祉に影響を与えないならば、
その宗教の存在を否定しないのが、
憲法の考え方である。
霊感商法とか、
壺や物を売る行為も
ただちに違法だとは決めつけられないだろう。

憲法上問題になったのは、
地方公共団体が地鎮祭を行ったことが憲法に違反するかどうかである。
これは、
いまだに、説が分かれており、
個々に判断するしかない。
ただ、
政教分離の原則、
国教の禁止、
ということは、わきまえておかねばならない。

憲法第20条

第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権利を行使してはならない。

第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。


信仰にはジョークも有効

2018-12-09 13:02:40 | 信仰


キリスト教には
聖書という聖典がある。
そのなかに、
「あなたの右頬を打たれたら
左頬を差し出しなさい」
という
聖句がある。

それに関した
ジョーク。

ある神父が、
電車の中で、
ずるがしこい男に
「聖書には右頬を打たれたら
左頬を出しなさい。とあるではないか。」
と、
右頬を殴った。
神父は、
左頬を差し出した。
思い切り張られた。

そのあと、
「その聖句の先には、何も書いてない」

と、
神父は、
滅茶苦茶に
張り倒した(爆)

あくまで、
これは
ジョークである。

クリスチャンの方、
おこらないでください。
単なるジョークですから。

本物の神父さんは、
右、左、と頬を打たれても、
笑って微笑まれます。

アウシュビッツの歴史を経ても、神は存在するとされたか

2018-12-02 19:45:39 | 信仰


第2次世界大戦のとき、
ドイツ、ポーランド等で
ユダヤ人の大虐殺

あったことは、
広く知られている。

被害者は、110万人といわれる。

では、
ホロコーストがあっても、
ユダヤ人は、
神を信じたのか。

信じた、
そして、
信じている、
とのことである。

歴史の中に、厳然と存在する
事実である。

ある聖職者の殉教「とうとう来たね」

2018-12-02 19:19:59 | 信仰


ある聖職者の殉教。

彼は、
聖職者であった。

どこで宣教していたかは、
知らない。

当然、激しい反対にもさらされたであろう。
精力的な布教。
中には、快く思わない人もいたろう。

彼が、講壇で話していた時、
反対派のひとりが、
凶器をもって現れた。

殺されることは、
わかっていたようだ。

彼の反応は‥‥‥

「とうとう来たね」

話をつづけた。

そして、
凶器に倒れた。

従容として死を迎え入れたのだ。

世の中には、
予想を超える人がいる。

信仰はおしつけるものではない

2018-11-19 13:53:34 | 信仰



信仰は、
押し付けるものではない。

ある聖職者が、
「信仰、信仰と」
叫ぶばかりの人は、
えてして、
ホンモノの
信仰をもってはいない。
と言われた。

そう、
聖職者でない限り、
信仰は、
叫ぶものではない。

その人が、
立派な人であれば、
「信仰」
などと叫ばなくても、
他の人は、
「なにか、一般の人とは違う」
と思い、
その信仰に
目をむけるだろう。

それが、
聖職者でない

信仰者の
生きる道だろう。

信仰、信仰と叫んだある人を
歌った短歌を載せて、
この稿を終わる。
オウム信者のことを
歌った
短歌である。

‥‥‥

ねばねばのバンドイエドをはがしたらしわしわのゆび じょううゆうさあん