日刊スポーツで特集があり、
引用させていただくので、
読みたい方は、下に貼り付けてあります。
市川大祐 (1998年 - 2010年)
デビュー時には、DFとしては、堀池選手の終盤。
森岡選手や斎藤選手と被っている時代だった。
もちろんいい選手だし、
エスパルス歴代右サイドバックでは、
最高の選手と思っている。
私の独断、エスパルス歴代ベストイレブン
ただ、早すぎるデビューに押しつぶされた?
怪我がなければという典型的例となってしまった。
ケガをして落ちたレベルで、あのプレー。
内田選手や長友選手クラスの代表選手になっていたかも。
第2の市川選手がエスパルスに生まれて、
再びエスパルス黄金期を作って欲しいのだが。
代表最年少出場…若き市川大祐を襲った重圧と故障
日刊スポーツ 12/19(月) 10:32配信
<人生第2章~アスリートの引退:市川大祐(上)>
日本のスポーツ史に1ページを刻んだ名選手が、今年限りで現役生活にピリオドを打った。第2の人生のスタートを切る名選手たちが、現役生活を振り返る特別企画「人生第2章~アスリートの引退」。
第1回は、サッカー元日本代表DF市川大祐(36)。98年4月1日の親善試合・韓国戦(ソウル)で、17歳322日の代表最年少出場記録を打ち立てるなど、輝かしい日々の裏で、若き市川は想像を絶する重圧と、故障と戦っていた。【取材・構成=村上幸将】
◆17歳322日の史上最年少で日韓戦出場
市川は11月14日、JFLヴァンラーレ八戸で19年の現役生活にピリオドを打ち、12月に故郷の静岡・清水に帰ってきた。引退から1カ月が過ぎた、率直な思いから語り始めた。
「シーズンが終わって、オフに入ったような感覚。引退した事実はあるんですけど今まで、ずっと戦ってきましたから。体を動かし、心も準備して、みんなで次のシーズンに向けてスタートする…その場にいない方が、現実(引退)を感じるとは思いますけど」
引退を決意したのは、22歳だった03年2月に半月板を損傷し、以後、手術を重ねた右ひざが来季、持たないと感じたからだ。
「MRI検査で大きな違いとか、良くないことはなかったんですけど、ひざがずれる感覚、怖さ、違和感が強くなっていた。もう走れなくて、蹴れなくて…という限界ではないですけど、使えば使うほど消耗していくので、来年を考えた時にイメージ、計算が難しいと思うところがあった」
市川のサッカー人生は、華々しく幕を開けた。清水の下部組織でプレーしていた97年に、高校2年で天皇杯に出場すると、翌98年3月に、いきなり日本代表に招集されたのである。
「97年に天皇杯3回戦・福島FC戦で6分くらい出て、翌年の(トップチームの)キャンプに呼ばれました。代表に招集された時は、Jリーグに3試合、出ただけだったので…」
98年4月1日の親善試合・韓国戦(ソウル)に17歳322日の史上最年少で出場し90分、戦い抜いた。サッカー人生で最も、思い出に残る記憶だ。
「日韓戦は、やっぱり自分の中ですごく大きなものがありました。特に(マッチアップした)左サイドの徐正源と河錫舟が強力。試合前にビデオを見せてもらって『もしかして俺、出るんですか』みたいな(笑い)試合前は、めちゃくちゃ緊張しましたけど、楽しかった。今思うと、すごく充実した時間だったと思う」
◆W杯フランス大会で代表最終選考に漏れる
W杯フランス大会日本代表の最終選考には漏れたが、志願して同行して、自分の現在地点を再確認した。
「最後の発表の前まで、ずっとメンバーに入っていたので(メンバー入りを)1番の目標にしてやっていました。ピッチで練習しても良かったけれど(試合で)立つことが許されない…自分ではものすごく遠く、まだまだ今の自分の力では立てないと感じた。ベンチからW杯を見て、控えの選手がどういう気持ちで見ているか、出た選手がどのように戦っているか…生活を含め、見るというより感じたことが大きかった」
大きな収穫を得たが、多忙を極める日々の中、翌99年にオーバートレーニング症候群にかかった。
「代表に選ばれたことで注目され、Jリーグの試合もあり、高校にも通っていたので肉体、精神的に休む時間が全くなかった。翌年、練習が始まると毎日、体がだるくて、重くて、どうしても動かない。住んでいたエスパルスの寮の3階に上るだけで息切れがした。夜は眠れませんでしたし『何で体が動かないのかな、もっと気持ちを入れて練習をやらなければダメなのかな』と思っていた中、検査でオーバートレーニング症候群が見つかった。原因が全然分からなくて…初めての感覚で、どうしたらいいか分からなかったので正直、ホッとしました」
99年のワールドユース選手権を辞退し、U-22代表からも落選したが徐々に回復。「自分の力で出る」と心に決めた02年W杯日韓大会への出場を目指したが、トルシエ監督には「電車に乗り遅れた」と厳しく言い放たれた。代表入りへ背水の陣で臨んだ01年に、最高の輝きを見せた。
「普通にいいプレーをしていても呼ばれない、スーパーなプレーをしなければダメだという意識でいました。それと、1年しかないと考えるのか、1年もあると考えるのか…僕は1年もあると考えられたので、01年はベストシーズンくらいのプレーができて『いつでも代表に呼んでくれ』と思って過ごしていました」
◆W杯日韓大会で中田英寿のW杯初ゴールをアシスト
22歳で出場した02年のW杯日韓大会では、1次リーグのチュニジア戦で、またぎフェイントからクロスを上げMF中田英寿のW杯初ゴールをアシストも、決勝トーナメント1回戦でトルコに敗戦。人目もはばからず号泣した。
「決勝トーナメントが1つの目標で、達成できたんですけど勝ち進みたいと、みんなが思っていました。トルコに負け、自分自身も途中出場して途中で交代した悔しさもあった。あの時は、4年後に絶対出なきゃダメだと思っていました」
翌03年に右ひざを痛めて、人生の歯車が狂った。
「シーズン前の2月のキャンプ中、普通にシュートブロックにいき、強く当たったわけじゃないんですけど…。おかしいと感じ、練習が出来なくなった。ドクターの勧めで手術したら、半月板を損傷していました。復帰して、夏にまた痛め、痛いながらプレーして、思うようなプレーができず、オフに手術しました」
04年は右肘を脱臼し、左ひざの半月板も損傷し、代表に呼ばれなくなった。
「リーグ戦は3試合しか出ていません。代表に呼ばれないのは自分でも分かるので、早く治して気分良くプレーがしたかった。シーズン後、05年がダメだったらサッカーを辞めようと思った。この状態で生きていけるほど、プロの世界は甘くないと分かっていた」
05年に就任したOBの長谷川健太監督は、そんな市川を起用し続けた。
「ひざに不安があり、試合に出られるイメージが湧かないところで健太さんは使ってくれた。1試合、1試合、必死で原点に戻る…というところでした。今日1日、次の日…1週間通して練習が出来た、そのことに喜びを感じるようにした。ケガしなければ毎日、練習することなんて当たり前じゃないですか。でも当時の僕にとっては、それが1番大事で、その積み重ねが自分を支えていた。もしも理想を求めてやっていたら、05年はプレーできなかったと思います」
24歳の市川は人生をかけて戦っていた。(続く)
<市川大祐(いちかわ・だいすけ)アラカルト>
生年月日 1980年(昭55)5月14日
出身地 静岡県清水市(現静岡市清水区)
ポジション 右サイドDF
ルーツ 高部小(現清水高部小)1年でサッカーを始め、3年で清水FC入り。6年時に全日本少年サッカー優勝。93年に清水ジュニアユースに加入し、95年に日本クラブユース選手権(U-15)優勝
トップデビュー 96年に清水ユースに昇格。清水工業高(現静岡県立科学技術高)2年の97年12月14日の天皇杯2回戦・福島FC戦で後半40分に出場(3-0勝利)。
Jリーグ開幕スタメン 98年3月20日に清水と練習生契約を結び、21日のJリーグ開幕戦・札幌戦で先発(4-1勝利)。
日本代表 98年3月27日に、同4月1日の韓国戦の日本代表メンバーに初選出された。98年のフランスW杯はメンバー落ちし、チームに帯同。
主なキャリア 98年9月24日に清水とプロ契約し、同11月14日の市原(現千葉)戦でJリーグ初ゴール(4-1勝利)。10年に清水との契約が満了し、11年に甲府、12年にJ2水戸、13年にJFLの藤枝(翌14年はJ3)、15年に四国リーグのFC今治、16年にJFLの八戸に移籍。
最後の試合 16年11月13日の栃木ウーヴァ戦にフル出場(2-0勝利)。
成績 J1で347試合出場12得点、J2で32試合出場1得点、J3は6試合出場、JFLは28試合出場2得点、天皇杯38試合出場3得点。国際Aマッチ10試合出場。
身長、体重 181センチ、74キロ
家族 妻と2女