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野良猫の命のはかなさ、不確実さ。
今日はそこに居ても、明日私が行ったら、もう居ないかもしれない。そして、二度と会えないかもしれない。 |
だが、そういった危うさは、別に、野良猫に限ったことではない。 |
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以前にも書いたかどうか ―― 昨年秋、兄の葬儀を終えて再びこの地に立ったとき、なんとも不思議な感覚に襲われたものだ。「兄は死んでしまったのに、この野良猫たちは生きている」 と。 |
その感覚が、「理不尽」を意味しているとすれば、それは、ニンゲンの命の確かさへの過信ゆえであろう。
命は、なべて、不確かで危ういものだ。 |
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このことは誰にでも容易に理解できるが、体感・痛感する機会に恵まれることはあまりない。 |
野良猫の姿を見ていると、ニンゲンとの差異に於て、両者への視座を相対化できることがある。理解としてではなく、体感として。 |
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さて、猫とニンゲンとの既成の価値布置を相対化するために有効な、かつお手軽な手法の一つは、「擬人化」である。 |
私が「擬人化」という手法をどうしても捨てられないのは、恐らく、その手法がここでのテーマそのものと殆ど不可分だからであろう。 |
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この拙いブログのモチーフは「野良猫」であるが、もしも何らかのありふれたテーマがあるとすれば、(そして、それを優等生的に表現するならば、)それは「命一般(überhaupt)の尊さへの訴求」・「生一般の素晴らしさへの賛歌」ということになろう。 |
こんなブログを続けていても、ばからしい。閉鎖したい。 ―― そういう気分にしばしば襲われるにもかかわらず、やめることができないのは、やはり、私なりに言いたいことがあるから、言い終えた気にまだなれないから、なのであろう。 |
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