もどかしさ

2009年02月23日 18時11分00秒 | B地点 おむ

 

屋外で、猫の瞳がこれだけ円いということは、あたりがかなり暗いということだ。(撮影をカメラに任せると、このように明るく写ってしまうけれど。)
ほら、もう、街灯の明かりも点いている。
そう、実際の体感としては、このくらいの暗さである。夕暮れである。
「対岸の灯」も見える。
猫の瞳の中にも、小さな小さな星が光っている。
猫はじっと座っている。

この時間帯には、妙な気分になる。淋しいような、怖ろしいような。不安。それでいて、なぜか安堵。

「逢魔が時」という語を、このブログでは何度も使ったが……。



この「逢魔が時」特有の気分を表現しようと試みるのであるが、うまくいかない。この、もどかしさ。
 
 



しかも、このもどかしさが、当該の気分を構成する大きな要素の一つなのである。
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


どうでもいいけど

2009年02月23日 17時44分00秒 | B地点 おかか

 

野良猫の命のはかなさ、不確実さ。

今日はそこに居ても、明日私が行ったら、もう居ないかもしれない。そして、二度と会えないかもしれない。
だが、そういった危うさは、別に、野良猫に限ったことではない。
以前にも書いたかどうか ―― 昨年秋、兄の葬儀を終えて再びこの地に立ったとき、なんとも不思議な感覚に襲われたものだ。「兄は死んでしまったのに、この野良猫たちは生きている」 と。
その感覚が、「理不尽」を意味しているとすれば、それは、ニンゲンの命の確かさへの過信ゆえであろう。

命は、なべて、不確かで危ういものだ。
このことは誰にでも容易に理解できるが、体感・痛感する機会に恵まれることはあまりない。
野良猫の姿を見ていると、ニンゲンとの差異に於て、両者への視座を相対化できることがある。理解としてではなく、体感として。
さて、猫とニンゲンとの既成の価値布置を相対化するために有効な、かつお手軽な手法の一つは、「擬人化」である。
私が「擬人化」という手法をどうしても捨てられないのは、恐らく、その手法がここでのテーマそのものと殆ど不可分だからであろう。
この拙いブログのモチーフは「野良猫」であるが、もしも何らかのありふれたテーマがあるとすれば、(そして、それを優等生的に表現するならば、)それは「命一般überhaupt)の尊さへの訴求」・「生一般の素晴らしさへの賛歌」ということになろう。
こんなブログを続けていても、ばからしい。閉鎖したい。 ―― そういう気分にしばしば襲われるにもかかわらず、やめることができないのは、やはり、私なりに言いたいことがあるから、言い終えた気にまだなれないから、なのであろう。