釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

新緑の5月を満喫する

2009-05-21 07:06:36 | 寺社
釜石市の中では鵜住居から笛吹峠へ向かうルートが好きだ。橋野のどんぐり広場は無論だが、この橋野近辺はいつ通っても釜石の市街とは異質のものを感じる。ずっと遠野に似ている。実際遠野から移住したと思われる菊池姓の方が住んでおられる。どんぐり広場には茅葺き屋根の水車小屋があるが伊達で水車小屋を置いたのではないようだ。この橋野近辺には昭和20年代には22の水車が動いていたそうだ。製鉄の動力源も水車だったと言う。鉄の歴史観には橋野三番高炉の直径3mの水車(実際に使われたのは直径6mのもの)が復元されているそうだ。どんぐり広場よりもう少し下流の人家の間を山に入ったところにも小さな神社のそばに水車小屋があった。こちらも復元されたものか動いてはいなかった。瀧澤神社の奥の院へも初めて行って見たが道の前方に突然松の巨木が現れそれとすぐ気付く。沢桧川の不動の滝の音が聞こえるが新緑に覆われて奥の院自体にはすぐ気付かなかった。川伝いに少しだけ下流に歩くと見えて来た。不動の滝直下の大きな淵の対岸に祠が佇んでいた。この景観は霊的な荘厳さを感じさせる。古代には間違いなく人々の信仰の地であったと思う。実際しめ縄を張った巨石もある。残念ながらこの奥の院の由来が分からないが縄文時代から続くことは間違いないだろう。遠野物語拾遺33の一尾の鮫がここまで川を上って来た話も何かを象徴したものだと思う。どんぐり広場を過ぎてしばらく行くと鷲ノ巣滝があり、上流から続く滝がやはり新緑に囲まれて気持ちよく流れていた。青ノ木平ではまだ桜が咲いており、こうして釜石近辺では標高差で結構長く桜を見ることができることがうれしい。笛吹峠を越えて遠野に下りて行くと最初の民家近辺でも遅咲きの里桜の関山が咲いていた。遠野の市街地よりも一月近く遅い。橋野や遠野ではもうアヤメが咲いていた。晴れた日はのんびり車を走らせながら近辺を目で楽しみながら過ごせる。釜石はいつもすばらしいと思える。


不動の滝直下の大きな淵を前に巨石の上に佇む瀧澤神社奥の院


鷲ノ巣滝 滝の両側の木々にはよく見ると山藤の花が咲いていた


青ノ木平の中心あたりに桜が咲いている

野鳥を撮るための道具

2009-05-20 07:27:04 | 文化
全国には野鳥の写真を撮る人がたくさんいる。地域ごとに野鳥の種類も異なり、熱心な人は国外へも出かけて行く。愛知県にいたころは都市公園や海岸、農業用の溜め池などに野鳥の写真を撮りに出かけた。カメラのレンズは通常の風景や人物であれば24mmから70mmの範囲で十分対応できる。ミリ数が多くなるほど望遠が効く。野鳥を撮るとなると500~600mmは必要になる。しかしこのくらいのレンズとなるとウン十万から百万近くになる。しかも重い。望遠レンズとなるとわずかの揺れも致命傷になるから当然三脚を使う。重くて高価。大きくて目立つので大砲と呼ばれたりすることもある。野鳥の写真を撮る人たちのあこがれのレンズではあるが簡単には手に入れられない。そこでもう少し安価で軽くしかも画質のよいものが工夫されてデジタルスコーピング、略してデジスコが普及する。本来の望遠鏡とコンパクトデジカメを組み合わせる。この方法だと望遠レンズで言うと3000mm相当の望遠を利用可能になる。ただしこうなると一切の揺れは厳禁だ。しかもピント合わせに慣れが必要だ。画質の良い写真を撮るためにも被写体である鳥までの距離もせいぜい20mくらいにしないといい写真が撮れない。できれば10m以内が望ましい。これはどんな道具の場合にも当てはまる。最近はさらに天体望遠鏡と一眼デジタルカメラの組み合わせが使われ始めた。700mm~800mmのレンズに相当し、オリンパスのようなフォーサーズカメラであれば倍の1400~1600mmのレンズを着けたことになる。現在700mm相当の天体望遠鏡とオリンパスのE-3というデジタル一眼を手に入れたが、手動でピント合わせをした時にピントが合ったことを知らせてくれる電子マウントアダプターなるものが介在するのだが、これが中国製で出来が悪く、装着してもわずかに揺れを生じてしまう。シャッターを手押しでは切れない。1400mmともなるとシャッターの振動だけでもピントがずれてしまう。この問題で現在立ち往生状態になっている。せっかく釜石という野鳥の豊富なところにいるのにフィールドには出られていない。野鳥の声を流せば野鳥がやって来ることも分かったので尚のこと早急に解決しなければならないのだが。


遠野で出会った雉子

山間に咲く朴の木の花

2009-05-19 07:06:05 | 自然
昨日は一昨日の一日中の雨から一転して晴れ上がり、気持ちのいい五月晴れだったが風がかなり強く、山間では吹き飛ばされそうになった。と言うのも例によって晴れていたものだから昼休みに山の藤の花と朴の木(ほうのき)の花を見に出かけた。ゆるやかに蛇行しながら山道をゆっくり車を走らせていると御夫婦で歩いておられる方達に出会った。いつもその山道では誰かが運動のために歩かれている。風が強い日にもかかわらず感心させられた。釜石へ引っ越して来てからはむしろ歩くことが少なくなった。以前は通勤でそこそこ歩いていたが今はもっぱら車で通勤するようになってしまった。5月の青葉が茂る中に木々の枝に絡んで藤の花が咲いている。ところどころには藤の花よりも紫の濃い桐の花も咲き、青空に映えていた。ホオジロやセキレイが山道で餌をついばみ、時折襲う強風に流される小鳥も見えた。青葉のトンネルをゆっくり峠まで登り、再び同じ道を引き返す。白い朴の木の花があちこち咲いているがやはり強風で花びらが飛ばされる花もある。朴の木は葉っぱが大きく、何枚かの大きな葉っぱが放射状に伸びたその中心に白い蓮に似た花が咲き、とてもきれいな花なのだが意外と知られていない。桐の紫の花も同じく知っている人が少ない。大山蓮華という朴の木の花に似ていて朴の木よりもさらに白く、名前の通り、蓮の花に似た花が咲く木があるが、残念ながら現在まで釜石では見かけていない。遠野の山には大山蓮華があるそうだ。帰りの下りの山道でイソヒヨドリが近くにいた。イソヒヨドリはイソが付くように本来は海岸周辺にいる鳥で、しかもヒヨドリと言うがヒヨドリ科ではなくツグミ科の鳥だ。その鳥が二羽、風で落ちて来た実や木の枝が広がる山道の上で何かついばんでいた。イソヒヨドリは釜石へ来てから毎日のように我が家の近くへやって来てきれいな声を聞かせてくれる。だから何だか釜石の鳥と言う感じになって来ている鳥なのだ。ただこんな山の中で会うとは思っていなかった。それだけ釜石は海と山が近いということだろう。


人知れず咲く朴の木の花


山藤とともに新緑の中で咲く桐の花


車に驚いて近くの木に移ったイソヒヨドリ

砂鉄川

2009-05-18 07:07:11 | 自然
日本三大渓なるものがあり、北から猊鼻渓(岩手)、嵯峨渓(宮城)、耶馬渓(大分)である。猊鼻渓は日本百景にもなっており、以前から一度は行ってみようと考えていた。今ちょうど藤の花が咲いているというので出かけてみることにした。340号線を南下して343号線で西進する。あいにく曇天だったが観光バスも次々にやってきてやはりここを訪れる客は思った以上に多い。平底の76人乗りの木船で湖のように波のない、しかもほとんど流れが感じられない砂鉄川を船頭さんが長い竿を使って進めて行く。藤の花はもう咲いていたが周囲の新鮮な緑が強すぎてあまり目立たない。ゴザ敷きの上に座ってゆっくりと進む船の上で船頭さんのガイドを受けながら周囲の景観を眺めているとほんとうに気持ちがいい。つくづく来てみてよかったと思う。人が満杯に乗っているにもかかわらず人が感じられない程景色の中に浸ってしまう。川には鯉やウグイらしき魚が泳ぎ、鯉は餌をもらうために船に集まって来る。中にはメタボのものもいそうだった。最奥で一度船を降り、花の咲く藤棚を見ながら歩くと川に橋がかかり、渓谷の名前の由来となった猊鼻岩に至る。猊鼻は獅子の鼻を意味するそうだ。帰路の船では船頭さんの歌が渓谷に響き、新緑の両岸を眺めながら至福の一時を過ごした。この猊鼻渓の近くには3億5千年前の地層が表出する幽玄洞という洞窟があるがそのそばにマリア観音像があるというのでそちらの方に興味を引かれて行ってみた。たくさんの観音像がおかれていたがやはり本来一つしかなかった洞窟のマリア像を見ておきたかった。薄暗い洞窟に花崗岩に彫られたマリア像が安置され花が添えられていた。このマリア像に人々が祈りを捧げたころはこの洞窟への道はなく川伝いに人々が密かにやってきたようだ。砂鉄川の名前が示すように製鉄が行われ、それにかかわった人たちにキリシタンが多かったのだろう。


新緑の猊鼻渓を船がゆっくりと進む


猊鼻岩 中央の穴に石を投げて、入れば幸運を招くそうだ


マリア観音像 どこかうら悲しさを感じてしまう

東北と日本の歴史は古代の謎の解明で明らかになる

2009-05-17 07:24:48 | 歴史
江戸時代中期に気仙郡高田村(陸前高田)の医師相原友常の長男として生まれた相原友直は1773年「平泉雑記」五巻を著した。相原家の祖は1641年伊達兵部宗勝(伊達政宗第十三子)に従って一ノ関城に家老職として赴任した。しかし1671年の伊達家騒動により、次男であった父相原友常が高田村に医師としてまた儒学者として移り住んだ。息子の相原友直は仙台と京都で医学、儒学、暦学、本草学、地誌等を修めて仙台藩の藩医として登用された。1730年高田村の父の病のため藩医を辞して高田村へ帰る。以後医師として働きながら多くの著書を著す。その一つが先の「平泉雑記」である。この第五巻十五に安倍家系がある。そこでは奥州安倍氏の由来が書かれている。安日彦・長脛彦兄弟が神武の東征により東北、津軽に逃れ、安日彦が安倍氏の祖となったということが書かれている。多少の相違はあるが相原友直より少し若い秋田孝季の著した「東日流外三郡誌」でもほぼ同内容のことが記されている。神武の東征の頃に東北の地、津軽にアラハバキ神を持つ荒吐(あらはばき)族が統合されたことが書かれている。ただどちらの書も古事記に長脛彦の名が神武の東征の記事に登場するため誤解しているようだ(この長脛彦とは別人である)。筑紫の日向にいた兄弟が津軽へ渡ったのはもっと早い弥生前期と思われる。稲作が北九州と同じ方法で突如本州北端に現れた時期である(弘前市の砂沢遺跡など)。安倍氏は前九年の役(1051-1062)で安倍氏としては滅亡するが安倍頼時の娘が藤原経清との間で生んだ子が奥州藤原氏の初代藤原清衡であり、安倍氏の系譜は血脈としては奥州藤原氏へと繋がる。東北は奥州藤原氏の滅亡後源頼朝の関東武士への報償として分封された。またその後は豊臣秀吉の小田原攻めに参加しなかった奥州領主たちへの奥州仕置きにより廃されたり、領地替えが行われた。東北の中世から近世の歴史は日本の歴史同様史実が比較的多く残されているが古代だけはやはり日本の歴史と同じく謎が多い。古事記・日本書紀は大和朝廷の正当化のための正史であり、遺跡の発掘はそれらに書かれていることに次々に疑問を投げかけている。


我が家の二輪草

楽観視などできない日本経済

2009-05-16 07:22:35 | 経済
日本経済新聞に掲載された第一生命経済研究所 主任エコノミストの日本経済の現況分析では景気の最悪期はこの1-3月期で足元で景気は既に回復局面に入っていると考えられる、としている。根拠は3月の鉱工業生産指数は6カ月ぶりに上昇に転じているのに加え、4、5月の生産予測指数もそれぞれ上昇が見込まれていること、生産持ち直しの背景には在庫調整の進展があると言うことを挙げている。一方で東京商工リサーチが13日発表した4月の全国企業倒産状況は、件数は前年同月比9.3%増の1329件で、11カ月連続で増えたが、増加率は5カ月ぶりに1ケタ台に低下したと言う。至近的には株価の変動と同様に一時的な景気の上昇面も当然見られるが今後の景気予測としてこれほど楽観的な予測はかなり恣意的な予測としか思われない。仮に恣意的でないとすれば余りにも世界経済、特に米国経済の置かれている状況を認識していないと言わざるを得ない。米政府が金融機関救済のために新たに投じる7,500億ドル(約73兆円)は日本の国家予算におおよそ匹敵する額である。しかも米政府は昨年すでに金融機関に7,000億ドルを投じている。本年10月1日から始まる米国の2010年度の予算は3兆9,400億ドルで、歳入が2兆3,800億ドル見込まれているが、1兆7,500億ドルの大赤字である。この借金は米国債購入に支えられているが、米国に盲従する日本はともかく最大の債権国となった中国はもはやこれ以上の米国債購入というリスクを取ろうとしない。現在為替は米1ドルが95.94円で円高になっているがこれはドルの価値が下がっていることを示し、ドルへの信頼が下がっていることを示す。しかも12日財務省が発表した4月末の外貨準備高は1兆114億7300万ドル(約99兆円)で、前月末に比べ70億7600万ドル減ったと言う。その減少は円高にもかかわらず米長期金利の上昇を受けて、保有する米国債の時価評価額が目減りしたためだという。米国だけでなく英国も同様で世界をみれば外需主導型から抜けられない後進国型日本経済はまだまだ危機を孕んでいると言わざるを得ないだろう。


鉢植えの黒百合

東北の島原

2009-05-15 07:05:41 | 歴史
九州の島原半島は江戸時代初期にはキリシタン大名有馬晴信の領地であり、天草諸島はキリシタン大名小西行長の領地であったが幕府はキリスト教を禁じ、それぞれの地に松倉重政が島原藩主として、寺沢堅高が唐津藩主として替わり、いずれもが過酷な取り立てを行う。とくに松倉重政は野心に燃えて必要以上に出費のかかる役割を果たそうとしたため年貢は過酷を極めた。次代の松倉勝家も同様な姿勢を継続し、キリシタンの弾圧も父親同様残酷極まる手段を取り続けた。過酷な年貢に耐えかねた小西、有馬の浪人を含んだ領民たちは会合を重ねてついに1637年末に島原・天草の乱をわずか16歳の天草四郎時貞(本名:益田四郎時貞ー小西行長の家臣益田甚兵衛の子)を総大将に立てて起こした。最終的に原城の籠城には3万7000人が加わり、幕府軍はこれに対して12万以上の兵で対峙したと言う。1638年4月12日乱は終結するが籠城した3万7000人のほぼ全員が死んだ。以後幕府はキリシタン弾圧と廃城の撤去を強化する。当時仙台藩の大籠一帯(現在の岩手県藤沢町)はタタラ製鉄が盛んで製鉄の技術指導のため備中国(岡山県)より招かれた千松大八郎・小八郎兄弟がキリシタンであり、人望もあった所から信徒が急速に増えた。そこに幕府のキリシタン弾圧強化が及び1639年からこの地で300人以上の人たちが首をはねられ、磷付にされ処刑された。藤沢町は東北の島原と言われ、現在も洞窟のマリア像や礼拝所が残されており、処刑された人々の供養の石碑がある。洞窟は処刑を免れ、隠れキリシタンとなった人々に利用されたものだろう。カソリックの教会もあり、ローマ法皇からのメッセージもあるようだ。江戸時代のキリシタンの殉教者は各地にいたと思われるが製鉄の盛んだった岩手では特に製鉄技術者にキリシタンが多かったため島原・天草を除くと次ぎに数が多かったものと思われる。自らもカソリックの洗礼を受け、キリスト教信仰をテーマにした書籍を多く書いている作家遠藤周作もこの地を訪れ、その後一書を著している。


山裾に咲く菊咲一華(きくざきいちげ)

山野草

2009-05-14 07:04:28 | 自然
釜石へ引っ越して来てから当初は冬だったので雪のない沿岸部を中心に見て回っていたが雪が溶けると内陸部へも出かけるようになり、特に遠野へは頻回に出かけるようになった。遠野は農家が多いため産直の店が多く、そこでは農産物だけでなく山野草も売っていた。初めて見る熊谷草や敦盛草は珍しい形の花でしかも可愛い。たちまち見境なく買ってしまった。ひとたび山野草を買って育てるとなると次々に珍しい山野草を見ると手を出すようになって行く。薄紫のシラネアオイ、エビネなども手に入れ、天南星(てんなんしょう)属の花の形の珍しさに蝮草、浦島草を産直で手に入れると今年は武蔵鐙を買ってしまった。今年に入ってからでも他に翁草、山荷草(さんかよう)、舞鶴草、白のシラネアオイ、二輪草、黒百合と種類が増え、その上、山の花の女王と言われる大山蓮華まで手を出してしまった。当然家人からはブーイングが出てしまった。買うだけ買って面倒を見るのは誰。少しは面倒を見る姿勢を示すため翁草の植え替えを自分でやっておいた。ただ植え替えはやれても本当に育ってくれるかはなはだ不安が残る。育て方をインターネットで調べてはおくがその通り出来ているのか微細なところでやはり曖昧さがある。気候としては岩手の気候は山野草に合っていると思うし、大半の山野草は半日陰での生育のようだが。翁草などは国が絶滅危惧種に指定しておりそれほど珍しい山野草なのだが遠野の産直ではネットの価格の5分の1の値段で売っていた。熊谷草などもネットの価格を知ると信じられないほど安い。たださすがに敦盛草だけは別格のようだ。住田町の赤羽根の産直でもそれなりの値段がする。それだけに昨年そこで買った敦盛草が今年花を咲かせて欲しい。今のところは葉が伸びて来てくれているが。


庭の直植えで勢い良く伸びた蝮草(まむしぐさ)


花から釣り糸を出す浦島草(うらしまそう)


今年手に入れた武蔵鐙(むさしあぶみ)

河内源氏の野望に倒れた東北

2009-05-13 07:06:03 | 歴史
東北の中世の戦乱により安倍氏が滅び、奥州藤原氏が滅んで行ったがそこには河内源氏の東北侵略・支配の野望が脈々と続いていたことが分かる。1051年河内源氏の二代目頭領である源頼義が陸奥守に任官されて東北の地にやって来たことから東北の不幸な歴史が始まる。陸奥支配の野望を持った源頼義は前九年の役で挑発された安倍氏を滅ぼし、源頼義の子、三代目河内源氏頭領源義家により1083年に始まる後三年の役で清原氏が滅亡、変わって陸奥国・出羽国に三代に渡って君臨した奥州藤原氏を1189年の奥州合戦で滅亡させたのが既に1183年に征夷大将軍に就いていた河内源氏五代目頭領源頼朝であった。源頼朝が征夷大将軍という地位を欲しがったのも河内源氏に伝わる東北の支配を貫徹するためであり、奥州藤原氏が源義経を匿ったというだけであれば頼朝自ら乗り出して常陸をはじめ関東武士を集めて奥州を攻める必要はなかった。初めから二代目頭領頼義と同じく東北の支配の企てがあったのである。徳川家康は当初松平氏の出自にもかかわらず藤原姓を名乗り、次には源氏姓を名乗ったりしている。しかも源氏にならって征夷大将軍の地位にも就いた。藤原氏や源氏との繋がりは定かではなくその上無論河内源氏の頭領の血筋でもないので東北へのこだわりではなく全国へのこだわりと言うさらに壮大な野望をもってそれを実現した。征夷大将軍として東北を征討した頼朝も河内源氏の野望を実現し、鎌倉幕府まで成立させたが結局は河内源氏の系譜をそこに継続させることができないで終わった。720年に始まる征夷大将軍の任命は天皇の任命により行われたが、1051年からの戦乱は河内源氏の恣意的な戦いとなった。武家である河内源氏は武術のみではなくむしろ策謀により次々に東北を制圧していった。その策謀に乗せられた東北人の性が今も残っているように思える。


職場近くで見かけたツツジ

花を育てる人たちを見て

2009-05-12 07:10:05 | 文化
釜石では先週は晴天がよく続いたが晴れると昼休みはとても屋内で過ごす気になれないので先日は郵便局へ古書の代金の振込ついでにのんびりと周囲の花々を眺めながら歩いた。帰路もコースを変えて歩いているうちに昨年も春に見事に花が咲き乱れていた一軒のお宅の庭に紫の花蘇芳(はなずおう)、白の花水木、赤紫の牡丹、何種類もの石楠花が咲き、ついつい足を止めた。偶然このお宅のご主人が家から出て来られお話を伺った。石楠花は中には育てるのが難しいものもあり、ちょうど咲き始めている白い花で中心に黒赤紫色のブロッチと呼ばれる模様のある石楠花はイギリスで作出されたサッフォーという品種だとのお話だった。実際このような花は見たことがなかった。秋には菊を敷地一杯に植えられている元学校の先生をされていた方のお話を伺ったがこうして一種類の花を徳に愛でられて苦労して育てておられる方々がいる。そのおかげで通りすがりの者でも季節には花を楽しむことができる。もっと職場に近いところにも古老がお一人住まわれているお宅も一種類にこだわるのではないが様々の季節毎の花がやはり庭一杯に植えられていてこちらのお宅の花もいつも楽しまさせていただいている。以前にも記したが釜石は気温の関係で一つの花の咲いている期間が長く、花をじっくりと楽しむ環境が整っている。そうした自然の条件に合わせてここに住む人々が知恵と経験を生かしながら自分の技量を磨きその結果その道のプロとなっている。そこでかける情熱も並ではない。こうして釜石には都会では見られない匠と呼ばれるにふさわし人たちが多く存在している。地元の人でも釜石には何もないと言う人もいるが一方で何もないと思わず目の前にある自然を相手にして匠の域に達した人たちがいる。自然があれば匠が育つと言うものでもなく、やはりそこに住む人の姿勢が匠を生み出している。してみると釜石はじめ岩手に何故そうした人たちが多いのかと言う次の疑問が生じて来る。その答えを得るためには今少し岩手のことを知る必要があるのかも知れない。


サッフォーと言う名前の石楠花