釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

北九州と東北の古代史

2009-05-28 07:05:15 | 歴史
日本の古代史は調べれば調べるほど歪められていることに気付く。東北の古代史から始まった歴史への関心が結局は日本の古代史と不可分であることが分かって来た。古事記や日本書紀はその古代史を歪めることが目的で著されている。そしてその歪められた内容とは大和の天皇家以前に北九州に天皇家があったと言うことだ。縄文から弥生、いわゆる邪馬台国、倭国まで連綿と北九州には日本の中心となる国家が続いていた。発掘された遺跡や九州各地の伝承や伝統芸能、大和に朝廷が移ってから編纂された各地の風土記などいずれもそれを示している。663年の白村江の戦いで敗れた北九州の倭国が弱体化し、それに取って代わったのが大和のいわゆる朝廷である。中国の南北朝時代に九州の倭国は南朝と往来していたが北朝系の唐の勢力拡大が白村江の戦いであり、敗れた倭国には唐の進駐軍が駐留している。大和はその唐と繋がり、弱体化した倭国に取って代わったのだ。天照から卑弥呼、磐井、筑紫君薩夜麻まですべて北九州に登場する人たちだった。おそらく1~2世紀ごろに神武が北九州を離れ、大和へ入ったがそこでは8世紀初頭までは地方豪族の一つであった。当然その間東北は独自の社会が築かれていた。古事記や日本書紀はこうした事実を隠して、あたかも天照以来大和に天皇家の歴史が続いて来たかのように粉飾する役割を果たすために著された。と同時に各地に,特に北九州に残る倭国に関するあったはずの史書を隠蔽するか破棄したはずである。文字も仏教の伝来も九州にあった邪馬台国や倭国へ先ず行われたのだ。最近の炭素14年代測定法により従来弥生前期に始まるとされた九州板付遺跡の水田遺構は紀元前9~8世紀に遡ることが分かって来た。そのころ対馬・壱岐を拠点とし最初に大陸からの青銅器を手にした天照は孫のニニギに稲作で栄えていた北九州を制圧させ、そこから追われ東北の津軽の地に逃れたのが安日彦と長髄彦兄弟で北九州の板付遺跡と同じ水田耕作を弘前市の砂沢遺跡や青森県南津軽郡田舎館村の垂柳遺跡で見られる如く東北へ伝えている。



我が家の可憐な敦盛草