釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

東北に残る信仰

2009-05-05 07:08:45 | 歴史
江戸時代に三春藩の秋田孝季らによって著された東日流〔内・外〕三郡誌(つがるないがいさんぐんし)によると東北の荒覇吐神(あらはばきしん)は十二神いて青森県つがる市の亀ヶ丘遺跡などで発掘された遮光器土偶と名付けられた土偶類が荒覇吐神だと言う。これは縄文時代後期にあたる。一方で荒覇吐族は神武に追われた安日彦・長脛彦兄弟がすでに阿蘇辺族と津保毛族が争っていた津軽地方へ逃れそれらの先住民族を統一して成ったものとされている。ところが神武の東征、つまり近畿地方への進出は2世紀前後と考えられるからこれは弥生時代の出来事となる。だとすると縄文期にすでに荒覇吐神が成立していることと矛盾してしまう。ただいずれにしろ縄文の巨石信仰とその後の荒覇吐神とは融合されて東北一円に伝わったものと考えられる。さらに前記の書によれば大宝辛丑年、701年に一人の仙人と呼ばれる修験行者が津軽に現れ密教秘技を伝え荒覇吐神に密教的な儀式が加味されたと言う。しかしここも若干年代的には疑問がある。最澄や空海が密教を伝えたのは9世紀であり、8世紀ではない。100年のずれがある。この年代の相違をひとまずおくと、荒覇吐神ではその後密教の降魔(ごうま)剣と火炎剣が祭事に使われるようになったと記されている。9世紀初めの坂上田村麻呂の蝦夷征討により、以後荒覇吐神を祀ることが禁じられたとも言う。昨年五葉山に登ると山頂の日枝神社に鉄剣が祀られており、匠の方の山にある山神様にも鉄剣があった。形状はいずれも降魔剣である。山神様も各地の山の頂上付近にあり、当然修験者との繋がりが考えられる。特に東北は修験者が行を行うと同時に鉄の採掘にも関係していたことを考えると,尚、理解できるように思う。つまり修験者はあらゆる山に入り込んでいる可能性があるからだ。縄文の巨石信仰が荒覇吐神信仰となり、それにさらに密教が影響を与え、山神様となっていった可能性も考えられる。


庭の鬱金桜(うこんざくら)