釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

釜石の阿曽沼氏の館

2009-05-08 07:07:02 | 歴史
1189年源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍し功があって頼朝より閉伊郡遠野保を賜ってから400年の間現在の遠野・釜石・大槌地方を支配した阿曽沼氏は源氏や平家にならぶ武将藤原秀郷の血脈を引く足利七郎有綱の四男広綱の遠野保居住に始まる。釜石には阿曽沼氏時代の館が三カ所一般には知られている。柏館・八幡館・狐崎館である。これらの館(たて)は1300年代前半に山田地方の山田六郎が釜石、大槌地方を狙っていたため阿曽沼氏の一族である大槌孫三郎広長を封じて大槌城を造らせその配下に出先として造らせたものだ。阿曽沼氏の滅亡は最後の当主阿曽沼広長の時になる。父の阿曽沼広郷が織田信長にはよく仕えたが豊臣秀吉をその出自のため見下げて小田原の戦いに参加しなかったため秀吉の不興を買い、南部氏の配下とされ、大名から格下げされてしまっていた。1600年南部氏の最上出兵の帰路阿曽沼広長は一族の鱒沢広勝らに遠野城を占領されたことを知り、妻の実家である気仙郡世田米城に逃げ込んだが、妻子は遠野城脱出後五輪峠で殺されてしまう。広長は気仙郡の領主と葛西氏の残党とともに南部氏に戦いを挑み当初は遠野城を包囲するまでに至ったが戦いが思いのほか膠着し配下の者が次々に討ち死にする中で形勢が逆転し、世田米城へ追い込まれ、そこで生涯を過ごすこととなり、阿曽沼氏は断絶に至る。このころには恐らく釜石でも阿曽沼氏と南部氏の間の戦いが繰り広げられたものと思われる。阿曽沼広長と伊達政宗と結んだ大槌孫八郎広信とは親交を結んでおり、南部勢に占領された釜石の狐崎館を伊達軍が奪回しているが、広長の遠野城攻撃失敗から世田米城への敗走を知るや攻撃して来た南部・遠野軍を前に狐崎館を捨て伊達領へ撤退してしまった。大槌孫八郎広信自身も結局南部氏との和睦で大槌城を失い唐丹に落ちたところで命を落とした。狐崎館に限らずいずれの館も恐らく激しい戦いがあったものと思われる。残念ながら敗者の常で阿曽沼氏側の事績を知る資料は数が少なく釜石での戦いの詳細は不明だ。釜石での戦乱は恐らくこの時が唯一の戦乱と思われる。


匠の方の敷地に咲く花海棠