釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

河内源氏の野望に倒れた東北

2009-05-13 07:06:03 | 歴史
東北の中世の戦乱により安倍氏が滅び、奥州藤原氏が滅んで行ったがそこには河内源氏の東北侵略・支配の野望が脈々と続いていたことが分かる。1051年河内源氏の二代目頭領である源頼義が陸奥守に任官されて東北の地にやって来たことから東北の不幸な歴史が始まる。陸奥支配の野望を持った源頼義は前九年の役で挑発された安倍氏を滅ぼし、源頼義の子、三代目河内源氏頭領源義家により1083年に始まる後三年の役で清原氏が滅亡、変わって陸奥国・出羽国に三代に渡って君臨した奥州藤原氏を1189年の奥州合戦で滅亡させたのが既に1183年に征夷大将軍に就いていた河内源氏五代目頭領源頼朝であった。源頼朝が征夷大将軍という地位を欲しがったのも河内源氏に伝わる東北の支配を貫徹するためであり、奥州藤原氏が源義経を匿ったというだけであれば頼朝自ら乗り出して常陸をはじめ関東武士を集めて奥州を攻める必要はなかった。初めから二代目頭領頼義と同じく東北の支配の企てがあったのである。徳川家康は当初松平氏の出自にもかかわらず藤原姓を名乗り、次には源氏姓を名乗ったりしている。しかも源氏にならって征夷大将軍の地位にも就いた。藤原氏や源氏との繋がりは定かではなくその上無論河内源氏の頭領の血筋でもないので東北へのこだわりではなく全国へのこだわりと言うさらに壮大な野望をもってそれを実現した。征夷大将軍として東北を征討した頼朝も河内源氏の野望を実現し、鎌倉幕府まで成立させたが結局は河内源氏の系譜をそこに継続させることができないで終わった。720年に始まる征夷大将軍の任命は天皇の任命により行われたが、1051年からの戦乱は河内源氏の恣意的な戦いとなった。武家である河内源氏は武術のみではなくむしろ策謀により次々に東北を制圧していった。その策謀に乗せられた東北人の性が今も残っているように思える。


職場近くで見かけたツツジ