時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(62)

2006年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
Courtesy of  Web Callery of Art
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/champaig/richeli.html


リシリュー枢機卿とラ・トゥール(1) 

  ラ・トゥールはしばしば謎の画家といわれるが、近年新しい資料に基づく研究も進み、その生涯の輪郭は同時代の画家と比較しても遜色ないほどまでに浮かび上がってきた。とはいっても、闇の中に埋もれている部分は多いのだが。

  今回焦点を当てるフランス王室、とりわけ宰相リシリューと画家との関係は、ラ・トゥール研究史の上でもこれまで必ずしも十分明らかにされてこなかった領域である。しかし、別の角度から見ると、きわめて興味を惹かれる光景が浮上してくる。

『三銃士』の世界の裏側で
  実際、この時期はフランス史上でも類がないほど劇的な出来事が続き、興味が尽きない。ラ・トゥールが画家として活動していた17世紀前半のロレーヌ公国、そしてフランスは、歴史小説の舞台としてもこれ以上の時はないだろうと思うほど、さまざまな出来事が起きていた。あのアレクサンドル・デュマの名作『三銃士』に描かれた時代である。

  なかでも、枢機卿リシリューRichelieu, Armand Jean duc Plessis(1585-1642)は、カトリックの司教区外高位聖職者であり、フランスのみならず世界史上に残る大政治家であった。リシリューはデュマの『三銃士』のイメージでは、深紅の衣に身を包んだ謎の人物である。マリー・ド・メデシスと袂を分かち対決する策謀家として描かれている。小説は別として、現実の世界では色々と興味ある事実が明らかになってきた。

  このブログにも再三記した通り、ラ・トゥールはロレーヌ公国を活動の主たる舞台とした画家だが、フランス王室とも密接な関係を持っていた。この画家は、「ランタンを掲げる聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」をフランス王ルイXIII世に、「悔悛する聖ペテロ」を宰相リシリューに献呈したと推定されている*

  ラ・トゥールは1593年生まれなので、リシリューより8歳ほど年下だが同時代人である。この二人がいつどこで出会ったかという点については、推測の域を出ないが、これもすでに記した通りである。

リシリューは美術に関心があったのか
  リシリューの後継者である枢機卿マザランCardinal Mazarinは美術史の上でも鋭い鑑識眼があり、著名な美術収集家として知られてきた。これに対してリシリューの活躍の舞台はもっぱら政治であった。宮廷、国家、広いヨーロッパの政治世界に浸りきっており、美術への関心はマザランほどではないと思われていた。事実、1624年首相に任ぜられた後、20年間におけるリシリューのフランス政治における活動はヨーロッパ世界を圧倒していた。権謀術数を駆使するに知性と冷静さをもって、ルイXIIIの治世においてフランスで最も重要な人物であった。

  もちろん当時のフランス最大の権力者であったリシリューは、教養ある貴族として豪壮な自邸を美術品で満たしていた。しかし、個人的には美術にあまり強い関心はなかったのではないかともいわれてきた。実際、1624年にルイ13世の下で王国の首相の地位について以来、席を温める間もないほど、多くの出来事が展開していた。30年戦争(1618-1648)はたけなわであり、宮廷政治も策略が渦巻いていた。リシリューは政務に文字通り日夜を分かたぬような日々を送っていたはずである。

リシリューの文化活動
  政治や経済には多数の文献を残しているリシリューだが、美術について彼が直接発言したり、書き残したものは少ない。そうした「沈黙」は彼の文学についての博学なを示す多くの発言と対比的である。確かに、リシリューはコルネイユを助け、週刊紙Gazetteを発行し、アカデミック・フランセーズを設立、王室印刷所も創った。これらのことから、リシリューは文学と演劇という文化領域での政治的アジェンダだけを個人的に追い求めたのではないかとの推測が行われていた。

  しかし、その後の研究によって、そうした見方は修正が必要なことが次第に明らかになってきた。彼が30年戦争、国内の政治・経済的圧力、宮廷陰謀などで、個人としてのリシリューに戻ることができたのは、1626年、1627年、そしてレメルシェLemercier の壮大な宮殿の着工前1632年くらいではなかったかともいわれている。そして、彼はこの綿密かつ壮大な計画の完成を見る前に世を去った。しかし、この自らの宮殿の構想については、彼には多くの考えがあったはずであった。その準備過程で残された彼の企画についての記録がそれを示している。

  さらに、リシリューは美術品についても、かなり好き嫌いがはっきりしていたと思われる点がある。よく知られていることは、当時ヨーロッパに大流行していたイタリアのバロック美術を嫌っていた。

  いったい、リシリューにとって美術はいかなる位置を占めていたのだろうか。ラ・トゥールはリシリューにとっては、いかなる存在だったのだろうか。実はこのことを考えさせたのは、リシリューをテーマとしたある特別展だった(次回)。

*本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/388817acbfe8c2d2db3edaf9580dfda6
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