北アイルランド(英国)とアイルランド国境地帯
世界の国境地帯は、近年、大荒れ状態といってよい。アメリカ・メキシコ国境、ヴェネズエラ・コロンビア国境、竹島・韓国、北方領土問題など、数限りない。
今日はその中で最も厳しい政治的・宗教的環境にあると見られるひとつの例を見てみよう。BREXITの成否を決する英・北アイルランド(Northern Ireland; 中心都市ベルファスト)とアイルランド国境問題である。これまで幾度となく緊迫した状況を呈してきた国境地帯である。
しかし、多くの日本人にとって、その実態を正しく理解することはきわめて難しい。ブログ筆者自身、半世紀近く見聞してきたが、心もとない点が多々ある。
後がないメイ首相
ついに政治的に崖縁まで追い詰められた英国のテリーザ・メイ首相だが、その強靭な意志と行動力には党派とか思想を超えて、ひたすら感嘆する。彼女の本意はEU残留であったと報じられている。しかし、国民投票に基づき、ひとたび与党がEU離脱の選択をした後は、あらゆる手段を駆使してその道を貫こうとしてきた。サッチャー首相やアンゲラ・メルケル首相などのしたたかさに通じるところもあるが、当然ながら彼女独自の個性による部分が多い。これまでの度々の危機にも関わらず、保守党党首として不信任案も切り抜けてきた。BREXITをめぐっては、与党のみならず野党労働党にも賛否両論があり、議論は混迷を極めてきた。傍目にもよく今日まで首相の座を維持してきたと思う。メイ首相は今でもなお、離脱協定の議会承認を獲得しなくてはならない。
イギリスの欧州連合(EU)離脱をめぐる交渉で鍵となったのは、英・北アイルランドとアイルランドの国境問題だ。イギリスとEUは11月に離脱協定をとりまとめ、この国境の扱いについても合意した。その過程で「バックストップ」(安全装置)なる措置が登場する。バックストップは、英国がBREXIT後の移行期間にEUと包括的な通商協定をまとめられなかった場合、アイルランド国境を開放しておくための最終手段だ。
現在、北アイルランドとアイルランドの間で取引されるモノやサービスには、ほとんど制限が設けられていない。現時点では英国もアイルランドもEUの単一市場および関税同盟の一員なので、製品の税関検査もない。しかしBREXIT以後は、これが変わるかもしれない。
EUは再交渉の可能性を否定しているが、「バックストップ」(安全装置)はあくまでも一時的なものだという主張を、より明確に提示するかもしれない。双方とも、BREXIT後にこの国境に検問所などを置く厳格な国境管理は避けたい考えだ。アイルランドと北アイルランドは別々の関税・規制体系となるため、製品は国境で検査を受ける必要が出てくる。英政府はこれを望んでいない。EUも、国境管理を厳しくしたくないと表明している。しかし、英国が関税同盟と単一市場からの撤退を固持している以上、これは非常に難しい。
避けたいハードな国境管理
「バックストップ」は、いわばセーフティーネットだ。BREXIT後、包括的な協定や技術的な打開策で現行のような摩擦のない状態を保てない場合、アイルランド国境に適用される。EUは「バックストップ」の担保がないままでは、移行期間の設置も、中身のある通商交渉にも応じないはずだ。北アイルランド・アイルランド問題の複雑さは、並大抵のものではない。ブログ筆者も実態を十分理解しているとはいえない。国民投票のキャンペーン当時は、全く注目されていなかった問題が急遽浮上したのだから。
「北アイルランド」とは、カトリック中心のアイルランド島の南部が1920年代にイギリスから独立するに際し、プロテスタントが多数派だったためイギリスに留まった北部6州を指す。植民したプロテスタント系のイングランド住民の子孫が多い地域である。北アイルランド紛争は、アメリカでの黒人公民権運動の盛り上がりに刺激されて1960年代に火がついた。当時、筆者はアメリカにいて報道されるニュースを読んでいたが、まさに「対岸の火事」のような印象だった。友人のイギリス人も事態を読みきれないのか、あまり説明してくれなかった。
内戦と化した対立紛争
紛争の構図を単純化すれば、イギリスに忠誠を示す多数派のプロテスタント勢力(=支配勢力)と、アイルランドへの帰属を望む少数派のカトリック勢力(=抑圧されてきた勢力)の対立といえるだろう。対立はほとんど「内戦」と化し、30年間で3500人もの死者を出す悲惨な展開となった。その後、ブログ筆者が滞英中も爆弾テロ、銃撃戦など、激しい事件が報じられていた。アイルランドへの旅を企画し、ベルファストまで行ってみたいと思っていたが、大変危険だからやめるように強く説得され、ほとんど素通りでダブリンなどに旅の重点を移した。「ベルファスト合意」が翌年に成立する前夜だった。もっとも、ダブリンはかねて行きたいと思っていた地であり、別の意味で大変興味深かった。
ベルファスト合意
それまで憎悪の極みのような状態が続いていたにも関わらず、1998年4月10日、和平合意(ベルファスト合意)が達成された。驚くべき決断だった。和平プロセスはその後、エリザベス女王が2011年5月にイギリス国王として100年ぶりにアイルランドを訪問し、両国の歴史的和解へとつながったl。
EUも、アイルランド島の南北の統合を促進するために国境を越える投資を積極的に進めてきた。その統合は、「ダブリンーベルファスト経済回廊」とも呼ばれるほどに進んでいる。
今回のBREXITの交渉過程で、イギリスはこの問題で二つの提案をしている。一つは、イギリスとEUがモノの貿易で「共通のルール・ブック」を採用すれば国境検査は必要がなくなる。「モノの自由貿易圏」が創設される、という提案である。二つ目は、北アイルランドだけをEUの制度に残すことは認められないとし、そうするなら、イギリス全体を暫定的に関税同盟に残すか、離脱後の移行期間(2019年3月~2021年12月)を延長することで時間を稼ぎ、その間に本質的な解決策を探ろうというEU提案への逆提案である。
この中で、移行期間延長という解決策が注目を浴びているが、英保守党内の強硬派が断固反対する姿勢を示し、八方塞がりとなっているのが現在の状況と理解している。
イギリスが香港やマカオ返還で示したお得意の「一国二制度」は認めないという主張は実際面より、国家が二つの「法的領域」に分断されることにより、イギリス本土と北アイルランドの紐帯が弱まり、北アイルランドがアイルランドとの統合へ傾いていくことを警戒してのものとみられる。
これは、独立機運がすぶるスコットランド情勢も含め、連合王国としてイギリスの将来の「国の形」の屋台骨を定める道でもある。
また、メイ首相率いる少数与党政権が北アイルランドの地域政党「民主統一党(DUP)」の閣外協力で維持されているという事情もある。DUPはEU提案に反対しており、その声に耳を傾けざるを得ないのである。実に複雑な現実だ。
最終の姿がどうなるか、もはや英国政府自身も、国民も分からないのではないか。親しいケンブリッジの元副学長をしたWBが、ほとんど破滅的状態と形容したのもうなづける。それは、国内に強敵を抱え込んだ難交渉は、最終期限ぎりぎりまで事態を動かせないということだ。交渉期限を余して妥協すれば、軋轢は急拡大し合意案は潰される。メイ首相に残された唯一の成功へのシナリオは、最後まで合意のカードは切らず、粘りに粘って時間切れのタイミングで「譲歩を勝ち取った」と勝利宣言し、合意案を強制することだろう。
この国境は政治的および歴史的な象徴になっている。「トラブルズ」と呼ばれた北アイルランド紛争では約3500人が犠牲になり、98年のベルファスト合意でようやく終結。合意に基づいてアイルランドとイギリスの国境が開放され、物と人が自由に往来できるようになった。
「見えない国境」は実現するか
鋼板などで国境を遮断する「ハード・ボーダー」への逆行は、和平合意に反するだけではない。国境付近に監視塔や軍の検問所が乱立して美しい風景が破壊され、かつて民兵組織の攻撃で多くの血が流れた日々を思い出させるのだ。ハード・ボーダー(硬い壁)は、数世代に及んだ紛争の象徴だ。
北アイルランドの大半の人はEUに残りたいと言っている。2016年の国民投票の結果は、北アイルランドではBREXITへの反対票が圧倒的に多かった。彼らは間違いなく、ハード・ボーダーが復活することを警戒している。政治的な理由だけではない。国境管理を厳格化すれば、一般の旅行者の往来やアイルランドとの商取引が遅延して、コストもかさむだろう。
他方、国境復活を避けるために北アイルランドだけにバックストップを適用し、イギリス本土をEUの関税同盟のルールから離す道もある。
政党の民主統一党(DUP)はメイ政権を閣外協力で支えており、彼らの協力なしに保守党は政権を維持できない。彼らはこの地域がイギリスのほかの地域と違う扱いを受けることには断固反対だ。
電子システム化は国境の消滅を意味するか
長期的には、テクノロジーに期待する見方もある。例えば、貨物が倉庫を出る前に、税関申告ができるシステムが開発されるのではないか。そこでX線検査やスクリーニング審査、車両番号の自動認識などを組み合わせれば、国境で物理的に止める必要はなくなる。
とはいえ、短期的な見通しは暗い。EUとアイルランド政府が「バックストップ」条項に関して譲歩の意思を示せば、英議会は離脱協定案を承認するだろう。メイ首相はEUとの再交渉に臨む方針だが、EUとアイルランドは、現段階で再交渉はしないという立場を崩していない。このまま「合意なき離脱」に至ることは、全ての人が恐れる悪夢だ。解きほぐす糸口の所在も見いだしがたい状態が続いている。
References
アレクサンドラ・ノヴォスロフ・フランク・ネス(児玉しおり訳)『世界を分断する「壁」』原書房、2917年(Alexandra Novosseloff/Frank Neisse, DES MURSENTRE LES HOMMES)
’The invisible boundary’, The Economist, February 16th 2019