時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ヨブの妻は悪妻か:ラ・トゥールの革新(2)

2015年07月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『妻に嘲笑されるヨブ(あるいはヨブとその妻』 
ヴォージュ県立博物館、エピナル、部分(クリック拡大)

  


迫られる作品との対話

 ラトゥールの「ヨブとその妻」を見ると、同時代の画家たちの作品と比較してきわめて異なる強い印象を受ける。この画家については、とりわけ描かれている人物との対話が求められるようだ。画題は記されていないことがほとんどだから、解釈は見る人の力が試されることになる。

 この画題が旧約聖書『ヨブ記』(前回記事参照)の話の一齣を描いたものとしても、未解明で注目すべき点は多々残されている。ラ・トゥールの生きた17世紀を含めて、この『ヨブ記』の主題を描いた作品は、その多くに悪魔のごとき奇怪なものが描かれていたり、ヨブの座っている所が汚い堆肥の上であったり、ヨブの全身に皮膚病の発症した状態が見る者をおじけさせるように描かれている。しかし、ラ・トゥールのヨブは、恐らく暑さを避けての洞窟内を想定したのであろう、半裸ではあるが、皮膚病の発症などはほとんど確認できない。そして、あのサタン(悪魔)のごときおぞましいものも、堆肥のごときものも描かれていない。この画家は自ら深く考えて必要であると考えるもの以外は描くことがない。画題の本質の理解に不必要なものは極力描かない。しかし、ひとたび必要と考えた対象には細部にわたり全力を傾注している。

 前回の続きで注目すべき点は、ヨブの妻の姿態、衣装である。 この作品においては、同じ主題を描いた画家が、ヨブに注目しているのに対して、ラ・トゥールはヨブの妻により大きな比重を与えている。ヨブの妻は16-17世紀まで、ほとんど例外なく、年老いた容貌で、夫のヨブを嘲り、言葉で鞭打つような姿で描かれてきた。しかし、ラ・トゥールのこの作品を見た者は、長い間刻み込まれてきたヨブの妻のイメージとの大きな違いに驚かされ、戸惑ったに違いない。そのこともあって、過去には美術史家によって誤った画題が想定されてきたこともしばしばだった。

 以前にも記したが、筆者の私は、これはひとり苦しみに耐えるヨブの所へ、妻が見舞いに来た光景ではないかと思った。しかし、長い歴史の間に刻み込まれた社会的通念は多くの人の思考を強く制約している。

 ここに描かれた女性は、背が高く、帯が高く締められており、画面上部との関係で、多少窮屈な印象を与える。しかし、これは画家の想定したことなのだ。ヨブの妻の頭上に洞窟の天井が迫っていることもあって、身体を折り曲げて、座っているヨブの顔を覗き込んでいる光景としてみれば、絶妙な位置関係である。こうした構図はラトゥールの「農夫」、「農婦」などの作品にも感じられる。重心が意図的と思われるほど下方に置かれ、強い意志を秘めた人物であることが見て取れる。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『農婦』
サンフランシスコ美術館
画面クリックで拡大 


 ヨブの妻の衣装は、洞窟の中、蝋燭の光に美しく映えている。なんとなく聖職や祭事に関連する衣装であるかのような印象を与える。画家ベランジュやカロの作品にも見られるように、この時代のロレーヌの画家は、衣装を精細、華麗に描くことが多い。『農婦』が誇らしげに着ているエプロンや胴衣も、実に美しく、彼女の自慢するものなのだろう。この『農婦』の場合も、人物の重心が意図的に下方に置かれたかのように描かれ、安定感としたたかさを感じさせる。

 ラ・トゥールの「ヨブの妻」の来ている衣装については、筆者は作品の初見時から聖職など、特別の役割が込められていると考えてきたが、これも本作品の謎のひとつであり、次回以降に触れることにする。

 
通い合う夫と妻の視線
 画面をさらに見ると、ヨブの妻は左手の蝋燭の光の助けで、右手をヨブの髪の少なくなった額に触れんばかりに近づけ、 顔を上げたヨブの目の色を読むかのようにじっと覗き込んでいる。ふたりの目は心中考えることは互いに異なるかもしれないが、あきらかに視線は取り結んでいる。

 ラ・トゥールの『大工聖ヨゼフ』や『聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れたる天使)』などの作品を思い起こしてほしい。いずれの作品においても、対峙する2人の視線は、交差していない。あたかも霊界の人と世俗の世界の人間を見えない壁が区切っているかのごとくに描かれている。この点、管理人の知るかぎり、これまで内外の美術史家の誰も記していない。だが、ラ・トゥールは作品の数は少ないが、主題に深く沈潜、熟考して制作した画家であった。いうまでもなく、ヨブも妻も世俗の世界の人である。

 ヨブの妻の目には、この主題を描いた17世紀までの他の画家の作品に多い、夫ヨブへのあからさまなあざけりや見下げた感じはない。ヨブの妻は、神がサタン(悪魔)の手を介し、この世の財産をすべて奪われ、 3人の息子と7人の息女まで失うことになったヨブが、ついに自らの身体に加えられた究極の試練としての病いに耐え苦難の時を過ごしていることを知り、見舞いに現れたのだ。

  これほどの苦難にありながら、夫のヨブは依然として神への畏敬の念を失わずにいるのだろうか。あたかもヨブの心底を読もうとするかのごとく深く食い入るように覗き込んでいる。そこに嘲けりやからかうような表情を感じることはできない。他方、ヨブの目は度重なる苦難に疲れ切ってはいるが、深く悟りきった純粋なものである。

 ヨブの妻はこれまで、夫とともに想像を絶する試練を共有してきた。しかし、今や自らの身体を危うくする苦難にも神を疑うことのないヨブの忍耐に、ついに彼女の評価を定めてしまったあの有名な一言を口にしてしまうことになる(前回参照)。ラ・トゥールが描いた光景は、まさにこの言葉が出てくる少し前の場面と考えられる。しかし、ラ・トゥールは他の画家のように、ヨブの妻を夫を嘲り、罵る悪い妻として描いていない。その謎を解くには、描かれたヨブの妻の側のイメージにさらに立ち入る必要があると思われる。

続く 


 

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