時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

誰が作品の「美」を定めるのか(5):ホガース展雑感

2023年07月02日 | 特別トピックス

ウイリアム・ホガース展を観て

旧聞になるが、「ウイリアム・ホガースの展覧会」が開催されていることを知って、炎天下の6月17日、急遽出かけてきた。運よく展覧会の記念講演が行われる日であった。展示と講演の双方に参加でき、失われかけていた記憶をかなり取り戻し、大変有意義な1日となった。

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特別展「近代ロンドンの繁栄と混沌(カオス)」
東京大学経済学図書館蔵ウィリアム・ホガース版画(大河内コレクション)のすべて(全71点)
2023年5月13日(土)~6月25日(日)
 東京大学駒場博物館




この特別展について知ったのは、[東京でカラヴァッジョ 日記]を主催されているk-carravaggioさんの記事を通してであった。情報過多の時代とはいえ、この記事なしには見過ごしてしまうこと必至だった。改めて感謝申し上げたい。

なお、ホガース Hogath の日本語表記については、ホーガースが原音に近いとの説もあるが、ここでは日本で一般に流布しているホガースを採用している。ちなみに、夏目漱石はホーガースと記載したようだ(近藤 2014, p.348)。

近藤和彦『民のモラル:ホーガースと18世紀イギリス』ちくま学芸文庫、(1993)、2014年
ホガースの研究は今日では質量共にかなり膨大な域に達し、本書末尾には詳細な史料・文献解題が収録されている。
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ほとんど半世紀近くを遡るが、今回の寄贈コレクションの持ち主であった大河内一男先生を囲んで社会政策・労働問題に関する小さな研究会が開催されていた(旧日本労働協会主催、於国際文化会館、事務局筆者)。ある日の研究会で、大河内一男先生から長年にわたるホガースのコレクションとその意義についてお話を伺う機会があった。およそ十点くらいの作品を見せていただいた記憶が残っている。(コレクション寄贈者のひとりであるご長男の大河内暁男先生とも、ロンドンで不思議な出会いがあったのだが、ここでは省略する)。

ウイリアム・ホガース(William Hogarth; 1697-1764)については、それまでに筆者は油彩画を含めていくつかの作品を観たことはあったが、あまり体系的に探索したことはなかった。大河内先生は、18世紀当時のイギリスにおける労働事情、とりわけ貧困発生の実態を中心にお話しされたと思うが、その詳細は記憶にない。ただ、夏目漱石がこの稀有な画家を大変高く評価、賞賛していたこと、また19世紀フランスの風刺画家オノレ・ドーミエ(Honoré Victorin Daumier)についても言及されたことが記憶の片隅に残っていた。



Honoré Daumier, Battle of schools
1855  ·  lithograph  ·  Picture ID: 112826
Private collection
 
ドーミエ《理想主義と現実主義》
絵筆とパレットを剣と盾に見立て、互いに争う画家の有様を揶揄している。
フランス的な遊び心が感じられますね。ふたりの思想の違いはどこに?


このたびの展示で久しぶりに見たホガースの銅版画については、それまで見慣れていたイタリア、フランスなどの油彩画の影響もあってか、以前から美術作品というよりは「時代を映し出す鏡」のような役割を持った作品という印象が強く残っていた。

最近、筆者は「美」とは何か、誰がそれを定めるのかというテーマをしばらく考えていたので、改めてホガースの作品を観ながら、この稀有な画家は美術史上いかなる位置づけがなされるのか、しばらく考えてしまった。

ホガースの作品《べガーズ・オペラ》The Beggar’s Operaには、「鏡の中のように」を意味するラテン語 Veluti in Speculum が記されたリボンが書き込まれているという(未確認)。
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カリカチュリストの流れに
今日では、ホガースは広く「風俗画家」のカテゴリーに入り、その中でも「カリカチュリスト」caricaturistといわれる画家たちの流れに位置づけられているようだ。イギリスでは他国とは異なる
風刺の伝統を感じることもあった。

閑話休題。大河内先生のご関心は、第一義的に、18世紀のイギリス、商業資本主義の時代、ほとんどさしたる規制や規律もなく、急速に拡大していた資本主義的活動が生んだ社会的貧富の格差などが大都市ロンドンを舞台に、いかに展開していたかを銅版画という手段で、時に嘲笑を含めて、生き生きと描いてみせた画家の力量にあったようだ。その位置付けについては、社会的な風俗的主題の中に痛烈な風刺精神を組み込み、独自の道徳的な風俗画様式を駆使して、イギリス美術界の基盤を確立した画家と理解されていたようだ。

ホガースの作品は、しばしば辛辣な風刺、嘲笑的で直裁な表現を含み、今日でも直視していると、色々なことが思い浮かび、時に耐え難くなるようなこともある。さらに、イギリス史、とりわけ当時の社会事情にかなり通じていないと、個々の作品の意味を理解するのにもかなり困難を感じる画題も多い。

加えて、本ブログでも考察の対象としてきたロレーヌの銅版画家ジャック・カロ Jacques Callot (1592-1635)のように、30年戦争における傭兵の略奪、殺傷などを描いた銅版画、あるいはイタリア修業の影響がみられる
ファンタジックな作品などと比較すると、ホガースの表現はかなり辛辣で厳しい印象を受ける作品も多い。問題への迫り方は、イギリス的とも言える独特のシニカルな直裁さが感じられる。

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波乱万丈の画家の生涯
ホガースの作品に込められた鋭い社会批判は、時に嘲笑的でもあり、辛辣でもある。そして、画題に負けず劣らず、画家の生涯も多事多難、劇的でもあった。

展示で配布された年譜によると、ホガースは、1697年、教師の息子としてロンドンに生まれたが、両親の破産・監獄生活を経て、1713年、17歳の時に銀細工師エリス・ギャンブルの徒弟となる。この時代の銅版画家は、技能習得のための場所として、ほとんどこうした選択をしたようだ。17世紀のロレーヌの銅版画家ジャック・カロの場合も、親の反対に抗しながら、ナンシー、イタリアでの修業先を金細工師の所に求めている。徒弟の実態を含め、技能習得過程に格別の関心を抱く筆者にとっては興味深いトピックスである。


ホガースの人柄と時代環境
画家の活動の舞台は、18世紀初期イギリスの資本主義が奔放な活動を見せていた時代のロンドンであった。活発な商業活動の中で、ホガースの性格は個人主義的で、政治的にはリベラル、かなり不遜で外国人嫌い、強力な教会や裁判所の影響をあまり受けない、そしてやや粗野なところがあったといわれる。生まれ育った家庭も多額の負債に苦しみ、破産状態で、幼い頃に父親のコーヒーハウスが倒産、負債者のための監獄に収監されてもいる。そうした環境に生まれ育ったホガースは、版画家を志し、銀板細工師のところで徒弟修業を終え、1720年までには自立できるまでになっていた。この年、南海バブル事件が起き、株価の急騰、暴落、そして大混乱が発生した。今日のバブル経済の原型のような出来事だった。ホガースはこれらを嘲笑・風刺する版画集を制作、評判となり、一躍脚光を浴びることになった。さらに当時流行のイタリア好みの建築、音楽などを揶揄し、評判となったようだ。

1728年にはジョン・ゲイの人気オペラから画題をとった最初の油彩画《乞食のオペラ》Begger’s Operaを制作(版を重ね1731年版が最善と言われる)。その後も新奇なアイディアに才覚を発揮し、自分や仲間のために金稼ぎをすることも巧みだった。さらに世の中の虚栄、腐敗、裏切りなどの世俗の事件を数枚の「社会道徳」シリーズとも言える作品に制作し評判を獲得した。これらはホガースの名を高めた作品群となった。《遊女一代記》、《放蕩息子一代記》、《一日のうちの四つの時》、《当世風結婚》、《勤勉と怠惰》、《ビール街》、《ジン横丁》などが代表的な作品である。これらのシリーズのいくつかについて、ホガースは教訓的な内容を盛り込み、制作過程や用紙を簡素化した廉価版を制作している。歪んだ社会情勢を前に、若い世代などへの教育効果を期待したのかもしれない。




ウイリアム・ホガース『勤勉と怠惰』シリーズから《織機で働く二人の徒弟》
William Hogarth, The Fellow 'Prentices at their Looms
織機で同じ仕事をしている二人の徒弟。仕事ぶりの違いは歴然としている。左側に棒を持って立つのは親方。二人の働き方の違いは、果たしていかなることに・・・・・・。
Ref. Paulson, R., Hogarth 3 vols, 1991-1993.

社会政策、美術家の地位向上への試み
広く社会政策的なトピックスでは、ホガースは当時のロンドン所在の病院の役割を重視し、1736-37年には、自分の出生地の近くの聖バーソロミュー病院の階段に、無料で「バロック風」に聖書の場面を描いたりもした。さらに、仲間の画家も誘い、Foundling Hospital (遺棄された子供を養育する病院)の院内に同様な絵画を寄贈し、病院が観覧料で潤うと共に、当代のイギリス絵画の展示場となることを期待した。

これらの点から推察するに、ホガースは単に当時のロンドンの混迷し惨めな状況の記録者としての地位に留まることなく、画業を肖像画などでパトロンに全面的に依存する職業から、美的活動にふさわしい自立した職業に転化させたいと考え、泥沼状態の社会環境で苦闘していた人間でもあった。

その一端として、1735年には彼にとって第二のアカデミーである画塾をサン・マルタン街に開設し、ほぼ20年間、美術論や技法の向上に努めた。ホガースの美術に関わる理論は、『美の分析』The Analysis of Beauty (1735)に収められている。残念なことは、ロンドンに王立美術院 The Royal Academy of Arts(初代院長ジョシュア・レノルズ) が設立されたのは、画家の死後の1768年だった。


他の画家が描こうと思わないものを描く
古いことを思い起こすと話題は尽きないが、本ブログ筆者が長らく関心を寄せてきた現代イギリスの油彩画家
L・S・ラウリー( Lawrence Stephen Lowry; 1887-1976) も、ホガースほど辛辣、嘲笑的に描いているわけではないが、多くの画家が美的対象ではないとして見向きもしない工業化の諸断面を鋭利に描いている。基本的立場は、地域の生活に密着し、画家が見た現実をそのままに描くという姿勢である。興味深い点のひとつに、この画家も地域の病院の実態とその改善に多大な関心を寄せていた。描かれた舞台は時代も異なるが、ホガースのロンドンに対して、産業革命の発祥の地ともいえるマンチェスター周辺の地域である。イギリスの社会思想と美術を繋ぐ細い糸が見えてくるようだ。

今回のような突然の「脱線」は失われた記憶が戻ったり、それなりに楽しいが、「美」とは何かという問いには、ますます答えが出せなくなった。

続く
















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